この記事で紹介する小栗忠道は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)に登場します。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
小栗忠順には、血のつながらない跡取りがいました。幼なじみの駒井朝温の次男で、小栗家に養子として入り、「又一」の名を継いだ小栗忠道(おぐり ただみち)です。横浜のフランス語学校で学び、幕府の洋式歩兵を率いる立場にまでなりましたが、慶応四年(1868年)閏四月、二十一歳で高崎の城下で斬られました。2027年の大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、齋藤潤さんが演じます。
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駒井家の次男、悌次郎
忠道は、旗本・駒井朝温の次男として、弘化四年(1847年)ごろに生まれました。通称は悌次郎と伝わります。父の駒井朝温は小栗忠順の三歳年上の幼なじみで、のちに大目付や勘定奉行をつとめた人です。
小栗家と駒井家は、ともに江戸の旗本で、親どうしが子どものころからの付き合いでした。その縁が、のちに一人の少年の人生を大きく変えることになります。
遣米使節の前に迎えられた養子
万延元年(1860年)、小栗忠順は日米修好通商条約の批准書を交換する遣米使節の目付に選ばれ、太平洋を渡ることになりました(万延元年遣米使節とは)。当時の航海は命がけです。忠順にはまだ子がなく、もし帰らなければ家が絶えてしまいます。
そこで小栗家は、母くにの姪にあたる鉞子(よきこ)を養女とし、その許婚として駒井家の悌次郎を養子に迎えました。こうして悌次郎は小栗家の跡取りとなり、のちに忠順から「又一」の通称も譲られています。小栗家の家族のつながりは小栗忠順の家族に、鉞子の生い立ちは小栗くに(忠順の母)の記事に書いています。
横浜仏語伝習所の第一期生
慶応元年(1865年)、幕府はフランスの力を借りて横須賀に製鉄所を造ることを決め、横浜にフランス語を教える学校「横浜仏語伝習所」を開きます。中心になったのは小栗忠順と、フランス公使ロッシュ、そしてフランス語に通じた栗本鋤雲らでした。
忠道は、この伝習所の第一期生として学びました。フランス語に加えて、フランス式の兵学や軍事教練を身につけています。父が進めた横須賀製鉄所やフランスとの交渉(幕府とフランスの借款交渉)を、息子は学ぶ側から支えたことになります。
大河の発表では、忠道はやがて徳川慶喜とフランス公使の会談で通訳をつとめるまでに成長すると紹介されています。
歩兵差図役頭取として
伝習を終えた忠道は、幕府の洋式歩兵隊で歩兵差図役頭取に任じられました。差図役は、歩兵の隊を指揮する役目です。二十歳前後で、フランス式に訓練された部隊の指揮をまかされたわけです。
しかし慶応四年正月、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、徹底抗戦を説いた父の忠順は勘定奉行を罷免されます(小栗忠順の罷免とは)。忠道は父とともに江戸を離れ、知行地の上州権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町)へ移りました。
▶ 「小栗家と家族」の記事
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- 小栗忠順の家族—妻は林田藩主の娘、養子は駒井家の次男でした
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- 小栗道子(みち)とは何をした人物か—林田藩主の娘、身重で会津へ逃れ、ただ一人の遺児・国子を産んだ妻
- 小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか—慶応四年閏四月、身重の道子を守った権田村の二十二日
- 小栗忠順の遺児はどう生きたか—会津へ逃げた身重の妻と、三野村・大隈が支えた家
- 三野村利左衛門とは何をした人物か—小栗忠順に恩を返し、三井を救った大番頭
使者として高崎へ
閏四月、新政府軍が小栗父子を捕らえるために高崎へ進んできます。小栗は、自分たちに逆らう気持ちがないことを伝えるため、忠道を申し開きの使者として高崎へ向かわせました。
けれども弁明は聞き入れられず、忠道はそのまま捕らえられます。権田村では閏四月六日、父の忠順が烏川の水沼河原で取り調べもないまま斬られました(小栗忠順はなぜ斬られたのか)。
忠道が斬られたのは、高崎市などの説明では翌日の閏四月七日、高崎の城下でした(父と同じ六日とする説もあります)。家臣の塚本真彦ら三人も、ともに命を落としています。数えで二十一歳でした。
首と墓のゆくえ
忠道の首は、父の首とともに館林へ送られて首実検にかけられたと伝わります。のちに権田村の村人たちが首を取り返し、父の胴が葬られた東善寺の裏山に一緒に葬りました(【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓)。
いっぽう遺骸は、処刑の地に近い下斉田村の人たちが引き取りました。村人は若い殿様の非業の死を悲しみ、阿弥陀堂の地に葬って墓を建て、「小栗様」として供養を続けてきたといいます。墓はいまも高崎市下斎田町に残っています。小栗父子をしのぶ場所は小栗上野介をしのぶ四つの場所にまとめました。
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残された人々
忠道の死で、小栗家には跡を継ぐ男子がいなくなりました。父が斬られた日の夕方、母の道子、祖母のくに、許婚の鉞子は村を離れ、会津を目指して山を越えます(小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか)。
六月、道子は会津で女の子を産みます。忠順のただ一人の実子・国子です(小栗道子(みち))。小栗家はのちに、この国子が婿を迎えて再興しました(小栗忠順の遺児はどう生きたか)。
大河『逆賊の幕臣』の小栗忠道
演じるのは齋藤潤さんで、大河ドラマは初めての出演です。荒川祐蔵(草川拓弥さん)、武笠祐左衛門(ANIさん)らとともに、第六弾の出演者として発表されました。
大河の忠道は、思い込みが激しく一途な性格ながら、責任感が強くまじめな若者として描かれます。齋藤さんは、己の信念を貫いて駆け抜けた若き幕臣の志の高さと熱量を届けたい、父である松坂桃李さんの背中を全力で追いかけたい、と話しています。
血のつながらない父を追ってフランスの学問を学び、最後は父の使者として高崎に向かい、そのまま斬られた若者。物語の後半で、もっとも胸に迫る人物の一人になりそうです。
▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る
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参考資料:Wikipedia日本語版「小栗忠道」「小栗忠順」、高崎市「小栗上野介の関連史跡」、東善寺「小栗上野介忠順の略歴」、ステラnet「2027年大河『逆賊の幕臣』新キャスト発表」ほか。年齢は数え年です。

