幕府とフランスの借款交渉とは——ロッシュと小栗忠順、横須賀製鉄所の資金と六百万ドルの行方

幕末の幕府は、横須賀に造船施設を建てる資金をフランスから調達し、さらに大きな借款をまとめようとして、果たせないまま倒れました。その中心にいたのが勘定奉行の小栗忠順と、駐日フランス公使レオン・ロッシュです。ところがこの話は、金額も成立の有無も資料によって食い違いが大きく、いまも定説と呼べるものがありません。ここでは公的機関の資料で確かめられた数字だけを並べ、確かめられなかったところは正直にそう書きます。小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物かを読んだあとの、一歩踏み込んだ話と考えてください。

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フランスが幕府に近づいたのには理由がありました

レオン・ロッシュは元治元年、初代公使ベルクールの後任として駐日公使に着任しました。アルジェリアで長く現地に入り込んで働いた経歴を持つ人物で、日本でも幕府に深く食い込む道を選びます。ただし、これは善意だけの接近ではありませんでした。

横須賀市の説明によれば、当時のフランスは蚕の伝染病で製糸業が壊滅状態に陥っており、日本の生糸と、病気に強い蚕を切実に必要としていました。一方の幕府も、艦船を修理し新造できる本格的な施設をどうしても欲しがっていました。幕府ははじめアメリカに協力を求めましたが、南北戦争のさなかで断られ、イギリス、ロシア、オランダもそれぞれの事情で応じられず、残ったのがフランスだったという経緯です。

慶応元年、製鉄所建設の約定が交わされました

国立国会図書館の資料は、この過程を簡潔にこう記しています。ロッシュは勘定奉行の小栗忠順と目付の栗本鋤雲を通じて幕府に接触し、慶応元年に製鉄所建設の約定を交わした、というものです。横須賀市はもう少し細かく、小栗、ロッシュ、栗本、そしてフランス人のカションという四人が話し合い、そのおよそ一か月後に横須賀が建設地に決まったと書いています。

首長に選ばれたのは、上海にいたフランス海軍の技師フランソア・レオンス・ヴェルニーでした。横須賀の地形がフランスのツーロン軍港に似ていたことが、決め手のひとつになっています。鍬入れ式は慶応元年九月二十七日に行われました。施設の名は当初は製鉄所で、横須賀製鉄所とはという呼び方はここから来ています。

代金は四年の分割払いという約束でした

神奈川県立図書館が出している『郷土神奈川』に載った論考は、工費についてはっきりした数字を挙げています。造船の三部門を合わせた総工費は一年あたり六十万ドル、四年間で二百四十万ドルというものでした。一度に払える金額ではないので、年ごとに割って支払う約束にしたわけです。

同じ論考は、幕府が機械類の購入と技術者の招聘の費用として二百二十万フラン、ドルに直せば三十七万ドルを横浜の外国銀行に振り込んだことにも触れています。つまり、手持ちの資金をまったく出さなかったわけではありません。ここは全額をフランスから借りたと書かれることの多いところですが、実態はもう少し込み入っています。

担保は生糸だったと伝わります

では足りない分をどう工面したのでしょうか。国立国会図書館のレファレンス協同データベースに、まさにこの問いを扱った回答が残っています。図書館が『横須賀市史』『幕末洋学史の研究』『幕末日本とフランス外交』などを調べて答えたもので、主な担保は生糸だったとしています。初期の計画では、輸出する生糸を担保にフランスから百万ドルを借り入れる筋書きでした。

ところが工事は資金を食い続けます。同じ回答によれば、慶応四年三月の時点で二百三十四万ドルを使い果たし、なお資金が必要になりました。そこで最後は、横須賀と横浜の両製鉄所そのものを、未払金五十万ドルの担保に入れています。つくりかけの施設を質に入れて工事を続けた、という段階まで来ていたことになります。幕府の台所事情の厳しさは、三野村利左衛門とは何をした人物かという記事で扱った御用金の話とも地続きです。

六百万ドルの計画は、確かめられることが限られています

ここからが本題です。幕府とフランスのあいだに六百万ドル規模の借款計画があった、という話は広く流布しています。慶応二年にフランスから経済使節団が来日し、借款と武器売却の契約が結ばれたことは辞典類にも載っており、大きな資金の話が動いていたこと自体は疑えません。翌慶応三年には、ロッシュの助言を受けて小栗らが兵庫商社の設立を建議し、六月に実現しています。高崎市の資料は、この商社を百万両の出資によるものと記しています。

その兵庫商社も長くは続きませんでした。大坂の鴻池屋や加島屋をはじめとする豪商二十人ほどを出資者に据えて船出したものの、同じ慶応三年の十二月に王政復古の政変が起こり、江戸の薩摩藩邸焼き討ちが続き、年明けの鳥羽・伏見の戦いへとなだれ込むなかで、活動は中断してしまいます。資金をめぐる幕府の工夫は、どれも時間切れになりました。

しかし、六百万ドルという数字そのものと、その契約が成立したのかどうかについては、今回調べた範囲で公的機関の資料に裏づけを見つけられませんでした。契約は成立したと書く読み物もあれば、計画は挫折したと書く読み物もあり、金額の内訳も一致しません。ここは諸説ありとしか書けない、というのが正直なところです。

本国の方針が変わり、ロッシュは帰国しました

はっきりしているのは、計画がどうであれ、支え手のほうが先に消えたということです。フランス本国の政策は、極東でイギリスとの摩擦を避ける方向に転換しました。ロッシュは本国から帰国命令を受け、幕府が倒れた明治元年に日本を去っています。着任から四年、幕府に肩入れした外交官の退場でした。

この間、軍事面の協力は形になっていました。国立国会図書館によれば、フランスから軍事顧問団を招くことは慶応元年に決まり、慶応二年にパリで契約が結ばれ、同年十二月にシャノワーヌ大尉ら二十名が来日しています。金を借りる話は宙に浮いても、人と技術は先に日本へ入ってきていたわけです。

借金も造船所も、次の政府へ引き継がれました

幕府が消えても、工事現場と借金は残ります。担保に入った製鉄所は接収されず、新政府の手で続けられました。横須賀市によれば、明治四年に第一号ドックが完成し、名称は製鉄所から造船所に改められ、同じ年の十一月には明治天皇が行幸して視察しています。計画を立てた小栗は、その三年前にすでに世を去っていました。

資金の調達方法をめぐっては、借款に頼ったという説明と、年賦払いであって借款ではないという説明が並び立っており、顕彰にたずさわる側からは借款説を誤りとする指摘も出ています。どちらの言い分にも根拠があり、決着はついていません。ただ、金の出どころが何であれ、施設が残って動き続けたことだけは動きません。小栗忠順はなぜ斬られたのかという問いを考えるときにも、この未払いの五十万ドルは頭の片隅に置いておきたい数字です。計画を立てた人がどこへ行き着いたのかは、【現地取材】東善寺と小栗上野介の墓をご覧ください。

参考にした資料

  • 国立国会図書館『近代日本とフランス——憧れ、出会い、交流』
  • 国立国会図書館『レファレンス協同データベース』
  • 横須賀市『横須賀の誇り!横須賀製鉄所(造船所)』
  • 神奈川県立図書館『郷土神奈川』第五十四号
  • 山口大学学術機関リポジトリ『小栗忠順と兵庫商社』
  • 高崎市『大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公 小栗上野介忠順』
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