新選組の墓所めぐり—隊士たちはどこに眠っているのか(京都・東京・多摩・会津・函館)

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新選組の隊士たちは、京都で、東京で、会津で、そして函館で命を終えました。そのため墓や供養塔も、日本のあちこちに散らばっています。なかには、墓がいくつもある人や、墓の場所がまったく分からない人もいます。この記事では、隊士たちの墓所を地域ごとにまとめます。お参りの計画を立てるときの手がかりにしてください。

目次

京都—壬生と東山

場所眠っている隊士
壬生寺(中京区)芹沢鴨・平山五郎・田中伊織(新見錦と同じ人ではないかといわれる)・河合耆三郎ほか
光縁寺(下京区)山南敬助・松原忠司・柴田彦三郎ほか、隊の規律で命を落とした隊士の墓碑
戒光寺(東山区・泉涌寺の塔頭)伊東甲子太郎・藤堂平助・服部武雄・毛内有之助ら御陵衛士、会津藩邸で自刃した佐野七五三之助ら四人(戒光寺が墓碑として案内しているのは伊東・藤堂・服部・毛内の四基で、佐野らの改葬については資料による説明です)

壬生寺と光縁寺は歩いて回れる距離にあり、屯所だった八木邸・前川邸とあわせて一日で巡れます。光縁寺については光縁寺に眠る新選組隊士たちで詳しく紹介しています。戒光寺の御陵衛士については油小路事件とはもあわせてどうぞ。

東京—板橋・三鷹・元麻布

場所眠っている隊士
近藤勇・土方歳三の供養塔(北区・JR板橋駅前)近藤勇・土方歳三。永倉新八らが建て、永倉の墓もここにあります
龍源寺(三鷹市大沢)近藤勇。生家近くの寺で、胴体が移されたと伝わります
専称寺(港区元麻布)沖田総司。墓所はふだん非公開で、毎年六月の「沖田総司忌」のときにお参りできます

板橋の供養塔と刑場跡は、近藤勇の墓と板橋刑場跡(現地取材)で歩いています。

多摩—日野・府中

場所眠っている隊士
石田寺(日野市石田)土方歳三。土方家の菩提寺で、墓碑があります
宝泉寺(日野市)井上源三郎。井上家の墓所で、境内に「井上源三郎之碑」が立ちます
本宿共同墓地(府中市本宿)松本捨助。土方の縁者で、大正まで生きた隊士

日野には土方歳三資料館や井上源三郎資料館もあり、新選組の故郷として一日かけて回れます。

会津—若松

場所眠っている隊士
天寧寺(会津若松市)近藤勇。土方歳三が建てたと伝わる墓があります
阿弥陀寺(会津若松市七日町)斎藤一(藤田五郎)。東京で亡くなりましたが、墓は会津にあります

北海道—函館・札幌・小樽

  • 碧血碑(函館市・函館山のふもと)—箱館戦争で亡くなった旧幕府軍の人々を弔う碑。土方の遺骨が納められたという説もあります。
  • 土方歳三最期の地碑(函館市若松町)—墓ではありませんが、土方が倒れたとされる一本木関門の跡。
  • 永倉新八—晩年を過ごした北海道の小樽と札幌にも墓があり、板橋とあわせて三か所に墓があります。

箱館の新選組については箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏にまとめています。

墓がいくつもある近藤勇

近藤勇は慶応四年四月、板橋で斬首されました。首は京都の三条河原にさらされたのち行方が分からなくなり、胴体は板橋に葬られたあと、親族が掘り起こして故郷近くへ移したと伝えられます。そのため、板橋の供養塔、三鷹の龍源寺、会津の天寧寺、そして首を葬ったという伝承のある愛知県岡崎市の法蔵寺と、「近藤勇の墓」とされる場所がいくつもあります。どれが本当の墓なのかは、確かめようがありません。

墓の場所が分からない隊士

  • 土方歳三—函館で戦死したあと、遺体がどこに葬られたかは今も分かっていません。五稜郭の中とする説など、四通りの説が伝わります。
  • 原田左之助—上野戦争で撃たれたとされますが、墓の場所は分かっていません。組長を務めた幹部で墓所が分からない人として、よく名が挙がります。
  • 相馬主計—新選組最後の隊長(最後の局長とも呼ばれます)。明治になって東京で自刃したと伝わりますが、墓は分かっていません。
  • 平間重助—芹沢暗殺の夜に逃げ、その後の消息がはっきりしません。

墓所から見える新選組

墓を建てたのは誰か

新選組の隊士の墓は、隊が自分で建てたものばかりではありません。誰が墓を建てたのかをたどると、隊士たちが死んだあとも、どんな人々に思われていたのかが見えてきます。

墓・碑建てた人(伝えを含む)
近藤勇・土方歳三の供養塔(板橋)明治九年、永倉新八が中心となり、幕府の医師だった松本良順らの力を借りて建てる
近藤勇の墓(会津・天寧寺)土方歳三が建てたと伝わる
河合耆三郎の墓(壬生寺)実家の親が、隊の墓とは別に建てたと伝わる
御陵衛士の墓(戒光寺)生き残った衛士の仲間が、光縁寺から移した
碧血碑(函館)明治八年、箱館戦争で死んだ旧幕府軍の人々をしのんで、生き残った旧幕臣らが建てる
斎藤一の墓(会津・阿弥陀寺)本人の望みにより、東京で亡くなったあと会津に葬られたと伝わる

近藤の墓を土方が建て、近藤と土方の供養塔を永倉が建てた。敵味方に分かれた御陵衛士も、自分たちの仲間の墓は自分たちで整えました。新選組の墓の多くは、生き残った者たちが死者に果たした「義理」の形でもあるのです。

京都には「隊の内」、北には「戦い」の墓

地域ごとに眠る人を見比べると、はっきりした違いがあります。京都の壬生寺や光縁寺に眠るのは、芹沢鴨や山南敬助、河合耆三郎、柴田彦三郎など、隊の内側の争いや規律で命を落とした人が中心です。ただし壬生寺の壬生塚には、池田屋事件で死んだ奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門や阿比原栄三郎の墓碑も並んでおり、内側の死者だけの場所ではありません。戒光寺の御陵衛士も、新選組との争いで死んだ人たちでした。

これに対して、会津や函館に眠る人、あるいは墓の場所さえ分からない人の多くは、戊辰戦争の戦いで命を落としました。京都時代の新選組は隊の中の敵と戦い、江戸へ下ってからの新選組は外の敵と戦った—墓の分布は、隊の歩みの前半と後半の違いを、そのまま地図の上に写し出しています。

墓が語るものと、語らないもの

墓碑に刻まれた日付や名前は、隊士の生涯を知る大切な手がかりです。芹沢鴨の暗殺の日付に「十八日説」があるのは、壬生寺の墓碑に九月十八日と刻まれているためでした。新見錦と同じ人ではないかといわれる田中伊織の墓も、墓碑そのものが研究の手がかりになっています。

その一方で、墓碑は建てた人の思いや事情によって書かれるものでもあります。墓に刻まれたことがそのまま事実とは限りません。お参りの折には、墓の前で手を合わせるとともに、「誰がどんな思いでこれを建てたのか」を思い浮かべてみると、隊士たちの物語がいっそう身近に感じられるはずです。

お参りの前に

  • 寺院の墓所は、檀家の方のための場所でもあります。拝観の決まりや公開の状況を、訪ねる前に寺の案内で確かめてください。
  • 専称寺(沖田総司)のように、ふだんは墓所を公開していない寺もあります。
  • 京都・東京・多摩・会津・函館と離れていますので、一度に回るより、地域ごとに旅を組むのがおすすめです。

近藤勇・土方歳三・井上源三郎のふるさと(調布の近藤勇生家跡、日野宿本陣、井上源三郎資料館、石田寺、高幡不動)は、【現地取材】新選組のふるさとを歩くで写真とともに紹介しています。

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参考にした資料:各寺院・自治体の案内、新選組研究の諸資料。墓所の公開状況は変わることがあります。

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