相馬主計【新選組隊士 函館新撰組隊長 幕末】

相馬主計
職名 函館新撰組隊長
出身 常陸笠間
終焉場所 東京
終焉方法 自刃
常陸笠間藩士の子です。 流山で近藤勇の助命を嘆願し、自らも捕らえられますが釈放されました。 箱館で土方歳三の戦死後に新選組の隊長となり、降伏の書状に署名しました。明治になって東京で自刃したと伝わります。
目次

相馬主計をもっと深く—新選組「最後の隊長」

近藤勇でも土方歳三でもなく、新選組の最後の隊長として降伏の書状に名を記したのがこの人です。そして明治になってから、誰にも知られない死に方をしています。

笠間藩士の子

常陸国笠間藩の藩士・船橋平八郎の子として生まれました。生年は天保六年とも天保十四年ともいわれ、はっきりしません。いつ入隊したかも分かっていませんが、慶応四年正月の鳥羽伏見の戦いにはすでに加わっていました。

近藤の助命を願い、近藤に助けられた

流山で近藤勇が新政府軍に出頭すると、相馬は板橋の総督府を訪ね、近藤の助命を嘆願します。願いはかなわず、相馬自身も捕らえられました。

ところが近藤が処刑される際、近藤は相馬と野村利三郎の助命を願い、二人は命を救われます。相馬は出身の笠間藩に預けられ、謹慎することになりました。

箱館で隊長に、そして降伏の署名

その後、相馬は旧幕府軍に合流して箱館へ渡ります。明治二年五月、土方歳三が戦死すると、弁天台場に立てこもる新選組の隊長に就きました。そして降伏にあたり、恭順の書状に名を記します。新選組は、この人の署名で終わったことになります。

新島への流罪、そして自刃

明治三年十月、伊東甲子太郎殺害に関わった疑いで、伊豆の新島へ流罪となりました。同じ日、大石鍬次郎が伊東殺害の罪で斬首されています。

新島では大工の棟梁の娘・マツと結婚し、明治五年に赦されて東京へ戻ります。一時は豊岡県に出仕しましたが、明治八年に職を免じられて東京に帰りました。そしてその後、自宅で自ら腹を切って亡くなったと伝えられます。理由は分からず、墓の場所も分かっていません。

相馬主計を読み解く

近藤と相馬、たがいに命を願った二人

流山で近藤勇が出頭したあと、相馬は近藤の助命を願い出て捕らえられました。その近藤が処刑の前に、相馬と野村利三郎の命乞いをして、二人は助かります。局長が最後に残した願いによって生きのびた相馬が、一年後には新選組の最後の隊長として降伏の書状に名を記すことになりました。近藤の最期から新選組の終わりまでをつなぐ人だったといえます。

なぜ「最後の隊長」になったのか

箱館で土方歳三が戦死したとき、弁天台場の新選組には、京都時代からの古参の島田魁や、仙台で加わった大野右仲らもいました。その中で相馬が隊長に就いたのは、近藤の助命に動き、近藤に命を救われた人として、隊の中で特別に見られていたからかもしれません。降伏の書状に名を記すことは、敗軍の責任を負うことでもあります。相馬はその役を引き受けました。

大石鍬次郎と同じ日の判決

明治三年十月、相馬は伊東甲子太郎殺害に関わった疑いで新島へ流罪となり、同じ日に大石鍬次郎は斬首されました。同じ疑いで裁かれながら、一人は島流し、一人は死罪です。明治政府が新選組の隊士を裁くとき、何を重く見たのかを考える手がかりになります。

語られなかった最期

相馬は赦されて東京へ戻り、豊岡県にも勤めましたが、職を解かれたあと、自宅で自ら命を絶ったと伝えられます。新選組のことをほとんど語らず、理由も書き残しませんでした。墓の場所も分かっていません。新選組の最後の隊長の最期が、いちばん謎に包まれているのは皮肉なことです。箱館の降伏までの流れは箱館の新選組にまとめています。

相馬主計と「新選組の終わり」をさらに掘り下げる

弁天台場の指揮官は、近藤を広島へ連れて行った人だった

明治二年五月、相馬が新選組を率いて立てこもった弁天台場の総指揮をとっていたのは、箱館奉行の永井尚志でした。永井は幕府の大目付・若年寄などを務めた人で、慶応元年十一月、長州の処分を問いただすために広島へ赴いた幕府の使者でもあります。このとき一行に加わっていたのが、近藤勇でした。

近藤を連れて広島へ向かった幕府の高官が、四年後、新選組の最後の砦で、ともに降伏することになったのです。五月十一日の総攻撃で土方歳三が戦死し、弁天台場は五稜郭から切り離されて孤立しました。水も食べ物も尽きていくなか、永井と相馬らは十五日に降伏します。五稜郭の榎本武揚らが降るのは、その三日後の十八日でした。新選組は、箱館政権そのものよりも一足早く戦いを終えたことになります。

故郷の藩に預けられるということ

相馬の生まれた笠間藩は、常陸の藩で、戊辰戦争では新政府の側に立ちました。流山のあと釈放された相馬が預けられたのは、その笠間藩です。旧幕府方として戦った者が、新政府に従った故郷の藩に身柄を預けられる。相馬はそこから抜け出して、再び旧幕府軍に加わり、箱館へ渡りました。

故郷の藩が新政府の側にいても、自分は旧幕府方として戦い続ける。相馬の選択は、藩の決定ではなく自分の意志で戦った箱館の隊士たちに共通するものでした。同じく藩を離れて主君に従った大野右仲や、藩主を守り続けた森常吉も、箱館の新選組にいました。

流人の島・新島で

相馬が流された伊豆の新島は、江戸時代から罪人を送る流刑の島でした。相馬はここで島の娘と結婚し、島の子どもたちに読み書きを教えたとも伝えられます。京都で刀を振るい、箱館で隊を率いた人が、流された島で子どもの先生になっていたというのは、新選組の隊士の明治の姿として印象深い話です。

明治五年に赦されて東京へ戻ったあと、相馬は豊岡県の役人になりますが、まもなく職を失い、やがて自ら命を絶ったと伝えられます。流罪という罰を終えても、元新選組の隊長という過去は、明治の世で生きる相馬の上に重くのしかかっていたのかもしれません。墓の場所も分からないという結末は、「最後の隊長」の名の重さとは対照的に、あまりにひっそりとしたものでした。

相馬主計と関わりの深い人たち

  • 近藤勇—助命を願った局長。その近藤の願いで、相馬は命を救われました。
  • 土方歳三—箱館で従った副長。土方の戦死後、相馬が隊を率いました。
  • 野村利三郎—流山で近藤とともに捕らえられ、ともに釈放された仲間。
  • 大石鍬次郎—同じ伊東殺害の件で裁かれ、相馬の流罪が決まったのと同じ日に斬首された隊士。

相馬主計のゆかりの地

参考にした資料:高松凌雲の書簡、箱館戦争の降伏関係の記録、明治三年の刑部省関係の記録にもとづく諸研究。

最後の戦場となった箱館については、箱館の新選組—蝦夷地で入隊した隊士たちと、弁天台場の降伏でまとめています。

新選組の隊士たちの墓所は、新選組の墓所めぐりに地域ごとにまとめています。

板橋での最期に至るまでの近藤勇の動きは、近藤勇、最後の百日—甲陽鎮撫隊・勝沼の敗戦から流山の出頭、板橋の刑場までに日付の順でまとめています。

新島に残るもの

相馬が流された新島には、いまも「相馬主計の碑」が建っています。島を離れるときに詠んだ和歌が刻まれた碑です。島では寺子屋を開いて子どもたちに読み書きを教え、村の人たちから師として慕われたと伝わります。新選組最後の隊長が、流刑地で教える人になっていたわけです。

妻となったマツは島の大工の棟梁の娘でした。明治五年に赦されて島を出たあと、一時は豊岡県に出仕しています。ところが明治八年に職を免じられ、そのあと自ら腹を切って亡くなったと伝えられます。理由は分かっておらず、墓の場所も分かっていません。新島の碑は、この人の足跡をたどれる数少ない場所です。

新選組をもっと知る本

相馬が隊を預かった箱館の日々は、京都時代を中心に語る永倉新八『新撰組顛末記』にはほとんど出てきません。隊の終わりまでを追いたいときは、関係者の証言を集めた子母澤寛『新選組始末記』とあわせて読むのが早道です。

楽天ブックス
¥1,012 (2026/10/02 15:30時点 | 楽天市場調べ)

※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。

新選組の隊士を続けて読む(名簿番号順)

◀ 前の隊士:島田魁(諸士取調役兼監察)
次の隊士 ▶:立川主税(会津新撰組機械方頭取下役)

新選組隊士全456名の一覧 / 新選組の年表 / 新選組とは何者だったのか / 隊士名簿はなぜ食い違うのか / 切腹・粛清一覧 / 壬生・八木邸(現地取材) / 池田屋騒動の跡(現地取材)

  • URLをコピーしました!
目次