和歌山市の中心に、緑の小山がひとつ残っています。虎伏山(とらふすやま)といい、その上に和歌山城の天守が立っています。まちなかを歩いていても、ふと目に入ります。
この城を訪ねるとき、私の頭にあったのは徳川の御三家ではなく、雑賀衆でした。鉄砲で織田信長を苦しめた雑賀孫一(鈴木孫一)の本拠は、この和歌山の平野です。雑賀好きとしては、その土地に秀吉の城が建ち、やがて徳川の城になったという重なりが、どうにも考え深いのです。

雑賀の土地に、秀吉が城を築かせました
史跡和歌山城の公式サイトは、この土地の中世をこう説明しています。「中世後期の和歌山平野では、雑賀衆と呼ばれる地縁的共同体が自治をおこない、戦国大名は生まれませんでした」。大名がいなかった土地、というのが出発点です。
その自治が終わったのが天正十三年(1585年)の紀州攻めでした。同じ公式サイトによれば、紀州を平定した羽柴秀吉は弟の秀長に命じて、紀ノ川河口部の「岡山」(現在の虎伏山)に城を築かせました。文化庁の文化遺産オンラインは、このとき藤堂高虎が工事を監したと記しています。築城の主体を秀長とするか、普請奉行の高虎を挙げるかで、資料の書き方が違います。
雑賀衆の終わりについては、資料によって日付も兵力も揃いません。太田城の落城を三月末とするものと四月二十二日とするものがあり、秀吉方の兵力も六万とするものと十万とするものがあります。はっきりしているのは、この平定のあとに雑賀衆が集団として消えたことと、その土地の真ん中に城が建ったことです。
顕如が大坂の本願寺から移った鷺森本願寺(本願寺鷺森別院)は、いまの南海和歌山市駅から歩いて数分のところにあります。天正八年(1580年)から十一年までの三年ほど、ここが浄土真宗本願寺派の中心でした。和歌山城とは、同じ市街地の中で歩ける距離です。城と寺と、鉄砲を持った人びとの土地が、いまは一枚の市街図におさまっています。
天守は昭和二十年の空襲で焼けました
いま見上げている天守は、江戸時代のものではありません。史跡和歌山城の公式サイトによれば、天守は昭和二十年(1945年)七月九日の和歌山大空襲で焼失し、昭和三十三年(1958年)に、空襲前の外観そのままの姿で鉄筋コンクリートによって再建されました。
城跡そのものは昭和六年(1931年)三月三十日に国の史跡に指定されています。近年も追加指定が続いており、和歌山県の文化財データベースは平成三十年から令和五年九月二十八日までの追加指定を列挙しています。城跡の面積は約二十一万平方メートルです。

城内には、藩主が御殿と西の丸庭園を行き来するために架けられた御橋廊下が、江戸時代の図面をもとに平成十八年(2006年)に復元されています。西之丸庭園(紅葉渓庭園)は、初代藩主徳川頼宣の入国にともなって整えられたと考えられており、昭和六十年(1985年)十一月二十七日に国の名勝となりました。
岡口門は空襲をくぐり抜けた建物です
城内で、旧藩時代のまま残っている数少ない建物が岡口門です。和歌山県の文化財データベースによれば、昭和三十二年(1957年)六月十八日に国の重要文化財に指定されました。時代は江戸前期、元和の再興のときに建てられたとみられる櫓門で、正面三間、二階は一室です。門に続く土塀は延長四十メートルあります。

県のデータベースは指定の員数を「一棟」とし、市の公式サイトは「北側の土塀とともに」指定されたと書いています。土塀を本体に数えるか、附として扱うかで表現が分かれているようです。いずれにしても、石垣の上にのった白壁と、そこへ続く土塀は、焼ける前の城の手ざわりを残す数少ない部分です。

紀州藩は明治のはじめに、四民皆兵の兵制をつくりました
ここからが幕末の話です。紀州藩(和歌山藩)は、幕末から維新にかけての軍制改革でよく知られています。中心にいたのが津田出(つだ いずる)です。和歌山県の文化情報アーカイブによれば、津田は天保三年(1832年)に生まれ、明治三十八年(1905年)に亡くなりました。
同じ県の公式アーカイブは、改革の流れを慶応二年(1866年)に着手、いったん中断し、明治元年に再開、明治二年に改革綱領を発表と整理しています。内容は「兵制改革に力点を置き、財政再建のために藩士の禄高を減らし、農兵を用いて西洋式火器で装備した近代的軍隊を作ろうとする」もので、県は「四民皆兵の徴兵制を実現したこの藩政改革」が明治政府のモデルになったと書いています。
史跡和歌山城の公式年表も、「1869(明治2):藩政ならびに兵制の大改革を行い全国に率先して徴兵制に取り組む」と記しています。実際の制度としては、明治三年(1870年)一月に「兵賦略則」が布達され、同年三月に徴兵検査に関する布達が出た、という記述もあります(Wikipedia)。綱領が明治二年、施行が明治三年、と読むと辻褄が合います。
新政府の徴兵令は明治六年(1873年)ですから、紀州藩の徴兵は三年から四年ほど先んじていたことになります。コトバンク収録の『新訂 政治家人名事典』は、「日本陸軍の徴兵制度を最初に発案実施したのが津田」とまで書いています。
ただ、「大村益次郎より早かった」と言い切れるかというと、そこは慎重にしたいところです。大村は明治二年に兵部大輔として藩兵解散と徴兵制を立案し、その年の十一月に亡くなっています。立案の時期は重なっていて、違うのは実施です。紀州藩は藩の中で実際に徴兵検査を始めました。記事として書けるのは、そこまでだと思います。
プロイセンから来た教官、カール・ケッペン
この兵制を支えたのがプロイセン人のカール・ケッペンです。1833年に生まれ、1907年に亡くなった人で、明治二年(1869年)五月に来日しました。はじめは「銃工」という名目での採用でしたが、のちに「陸軍教師」と改められ、新兵の採用から訓練、士官教育までを統括し、ドイツ人教官たちの首席となりました。明治四年にはプロイセン代理公使の推薦で陸軍少尉に進み、明治五年一月に解雇されて和歌山を離れています。
この軍隊の規模は、資料によってかなり差があります。和歌山県の公式アーカイブは「当時としては全国最大級である2万人規模の精鋭軍」とし、ケッペン側から見た記述では訓練した兵は約六千人、五個歩兵大隊・二個砲兵中隊・騎兵約百五十人という編成になっています。徴兵の対象として数えるか、常備の実員として数えるかの違いかもしれませんが、断定はできません。
視察者の顔ぶれも残っています。明治三年十一月にはイギリス公使パークスらが和歌山を訪れ、ドライゼ銃で装備された兵を見ています。兵部大亟の山田顕義も視察し、西郷隆盛の弟の西郷従道は、最初の伝習生として送り込まれました。新政府が、この小さくない実験を見に来ていたわけです。
法福寺の住職が、民兵を率いていました
和歌浦に法福寺という浄土真宗本願寺派の寺があります。その住職だった北畠道龍(きたばたけ どうりゅう)は、文政三年(1820年)に生まれ、明治四十年(1907年)に亡くなりました。和歌山県立図書館のデジタルアーカイブによれば、道龍は僧侶や町人を集めて「法福寺隊」を組織しています。
この隊が戦ったのは、同館の解説では天誅組の変と長州討伐です。コトバンク収録の『デジタル版 日本人名大辞典』も「幕末には民兵を組織して幕長戦争などに参加」とします。和歌山県の文化情報アーカイブは、部隊を「日本体育共和軍隊(法福寺隊、義烈隊、遊撃隊とも称される)」と呼んでいます。僧侶と町人、農民や漁民からなる民兵の集まりでした。
ひとつ書き添えておくと、戊辰戦争への参加については、確かな裏づけを見つけられませんでした。県の公式ページにも辞典類にも記述がありません。確認できるのは文久三年(1863年)の天誅組の変と、慶応元年(1865年)の長州征討です。装備についても、具体的な記述は見当たりませんでした。道龍は津本陽の小説の主人公にもなった人なので、話がどこまで史料に基づくかは切り分けておいたほうがよさそうです。
維新後の道龍は、ドイツ語を学び、法律学校(講法学舎、講法学社とも表記されます)を開き、明治十一年には西本願寺に入って宗門の改革を唱えました。教法家として日本十傑の一位に選ばれた年もあります。城下の寺の住職が、幕末には民兵を率い、明治には学校を作っていたことになります。
陸奥宗光は、この城下で生まれました
和歌山市公式の「和歌山市の偉人・先人」によれば、陸奥宗光は1844年に、紀州藩の重臣・伊達千広の六男として和歌山に生まれました。父の千広(県の公式ページでは伊達宗広と表記されます)は、藩の勘定奉行と寺社奉行を務めた人です。陸奥ははじめ伊達を名乗り、のちに源二郎、陽之助、宗光と名を変えました。
幕末は勝海舟や坂本龍馬のそばで動き、維新後は津田出らとともに和歌山藩の藩政改革を実現させたと県の公式アーカイブは記しています。さきほどの兵制改革と、陸奥宗光はつながっています。そののち兵庫県知事や地租改正局長を務め、駐米公使として日本で最初の対等条約となる日墨修好通商条約を結び、外務大臣として日英通商航海条約で治外法権の撤廃を実現しました。
和歌山市の岡公園には陸奥宗光の全身像が立っています。生誕地の碑は市内の吹上にあり、没後百二十年にあたる2017年に建てられたものです。城の南の公園に銅像があり、その先の町に生誕地の碑がある、という並びになります。
訪ねるときのこと
和歌山城は、天守だけを見て帰るにはもったいない城でした。焼けなかった岡口門、復元された御橋廊下、山麓の西之丸庭園と、時代の違うものが同じ敷地に並んでいます。石垣についても、豊臣秀長の時期は自然石を積んだ野面積み、浅野幸長の時期は打込みハギ、徳川の時期は切込みハギと、築かれた時期で積み方が違うという整理があります(Wikipedia)。
そして、ここは雑賀衆の土地でした。鉄砲で名をはせた人びとの平野に秀吉が城を築き、徳川の御三家がそれを継ぎ、その城下で育った藩が明治のはじめに四民皆兵の軍隊を作り、そこから陸奥宗光が出ていった。雑賀の平野、秀吉の城、徳川の藩、そして明治の軍隊が、同じ一か所に折り重なっています。雑賀孫一が好きな人ほど、この城は面白いと思います。
場所・アクセス・地図
和歌山城/和歌山県和歌山市一番丁三。JR和歌山駅からバスで約十分、南海和歌山市駅からは徒歩圏です。城内に天守(有料区域)、岡口門、御橋廊下、西之丸庭園。南に岡公園、北西の和歌山市駅寄りに本願寺鷺森別院があります。
