2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。
慶応四年(1868年)閏四月、小栗上野介忠順は、隠居先の上州権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町)で、新政府軍に取り調べもなく斬られました。理由として挙げられたのは、「砲台を築き、陣屋を厳重に構えて、容易ならざる企てがある」というものでした。
では、小栗は本当に村に砲台や陣屋を築いていたのでしょうか。手元にあったとされる大砲や鉄砲は、何のためのものだったのでしょうか。この記事では、小栗の日記と、新政府側の命令の文面を突き合わせて考えます。
大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、松坂桃李さんが主人公の小栗忠順を演じます(主演、2025年3月3日発表)。
小栗は権田村に砲台や陣屋を築いていたのか?—先に答え
| 砲台・陣屋 | 築いていたことを示す確かな記録はありません。小栗の日記に残るのは、村の観音山に住まいを建てる工事と、用水路の整備です |
|---|---|
| 持っていた武器 | 大砲二門・小銃二十挺ほどとする説があります。江戸から連れてきた家臣二十人ほどの、旗本の家としての武装です |
| 何のための武器か | 治安が乱れた戊辰戦争のさなかの、自衛と警備のためとみられます。実際に三月四日、二千人ともいわれる「世直し」勢に村を囲まれ、撃退しています |
| なぜ疑われたか | 一揆を撃退したことが「小栗は大量の武器を持っている」という噂になり、新政府軍の追捕令には「砲台を築き」「陣屋を厳重に構え」と書かれました |
| その後 | 三藩の使者が検分して「疑いはない」と了解し、小栗は大砲・小銃を自ら引き渡しました。それでも閏四月六日、取り調べもないまま斬られています |
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追捕令には何と書かれていたか
慶応四年四月二十二日、新政府の東山道総督府から、高崎・安中・吉井の三藩の藩主に、小栗を捕らえるよう命じる達が出されました。高崎市立中央図書館の『市史のひろば』第七号によれば、その理由は、自宅に砲台を据えて城郭を構え、前将軍・徳川慶喜が恭順しているのに背いて不届きである、というものでした(小栗を斬らずに済ませたかった三藩)。
閏四月一日に三藩の使者が権田村に持ってきた回文にも、「砲台を築き不容易企有之」(砲台を築いて容易ならざる企てがある)と書かれていました。東善寺の紹介では、追討令に「陣屋等厳重に相構え」という文言もあったとされます。
注意したいのは、命令が「捕らえよ」であって「斬れ」ではなかったことです。罪状の根拠となる調書や判決文は、いまも一つも見つかっていません(小栗上野介を斬ったのは誰か)。
観音山で建てていたのは「住まい」だった
新政府軍が「砲台」や「城郭」と見たのは、小栗が村の観音山に建てていた住まいのことだと考えられます。小栗の日記には、その工事の様子が日付とともに残っています。
- 三月六日:観音山の建設予定地を視察し、神社に参詣
- 三月十一日:土木工事を黒鍬(土木の職人)に頼み、手付金五両を渡す
- 三月十三日:水路を開く工事の手付金三両を渡す
- 四月二十五日:「来る二十八日に居宅の建前になる」
小栗はこの地で村の若者のための塾を開く構想も持っていました。三藩の使者に問われたときも、観音山は自分の持ち山で、建てているのは雨露をしのぐ程度の家だと答えています。上棟の予定日は閏四月二十八日。その二十二日前に、小栗は斬られました。
観音山の小栗邸跡はいま高崎市の指定史跡で、残っているのは礎石と、小栗が整えた用水路です。砲台や堀、土塁の跡は伝わっていません。

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大砲二門・小銃二十挺は何のための武器だったのか
小栗が権田村に持っていた武器は、大砲二門・小銃二十挺ほどとする説があります(逮捕の理由として、この武器の所持と農兵の訓練が挙げられたとする説もあります)。正確な数を記した一次史料は確認できていません。
小栗が江戸から連れてきたのは、家族と家臣を合わせて十数人から二十人ほどでした。家臣たちはフランス式の調練を受けていたとされます。二千五百石の旗本の家として、家臣が武器を持つこと自体は特別なことではありません。
しかも慶応四年の春、関東は戊辰戦争のさなかでした。旧幕府の支配がゆるんだ村々では、困窮した農民が豪農や役人を襲う「世直し一揆」が相次いでいました。家族を連れて山あいの村に移った小栗が、身を守る備えを持っていたのは、むしろ当然のことだったといえます。
三月四日、武器が「役に立った」日
その備えが実際に使われたのが、権田村に着いてわずか三日後の三月四日でした。隣村の博徒が近在の農民をたきつけ、二千人ともいわれる「世直し」勢が小栗のいる東善寺に押し寄せたのです(千人前後とする資料もあります)。
小栗は女性たちを裏山に逃がし、家臣と、加勢した権田村の若者たちを指揮して、これを追い払いました。翌日には周りの六か村から詫び書を取っています。押し寄せたのは権田村の人々ではなく、権田村ではこのとき十一戸が焼かれました。村はむしろ被害者の側でした。

噂はどうやって「謀反の疑い」に変わったのか
皮肉なことに、この一揆を見事に撃退したことが、小栗にとって裏目に出ました。「小栗は大量の武器と兵を持っている」という噂が広がったのです。
さらに三月八日、東山道総督府が高崎に入ったとき、周辺の藩主たちが出迎えて恭順の意を示すなか、小栗は出頭しませんでした。小栗自身は、職を辞して帰農した隠居のつもりでした。しかし新政府の側から見れば、旧幕府で勘定奉行や陸海軍の要職を務め、江戸城で徹底抗戦を説いた人物が、武器を持って山の上に屋敷を建てている、と映ったのです。
家族と村を守るための備えと、住まいの普請。それが噂と探索を経て、「砲台」と「陣屋」という言葉に置き換えられていきました。防犯程度の武器が、逆手に取られたといってよいでしょう。
三藩は「疑いはない」と認め、小栗は武器を引き渡した
閏四月一日、追捕令を受けた三藩の使者が権田村を訪れました。小栗は観音山の家が住まいにすぎないことを説明し、使者たちは「疑いはない」と了解しています。それでも恭順の証がほしいと言われると、小栗は所持していた大砲と小銃を、すべて三藩に預けると申し出ました。
三藩の兵は大砲を受け取って引き揚げました。高崎市の史料紹介によれば、このとき三藩は、小栗が恭順・謹慎し、謝罪の嘆願をしたいと望んでいることを総督府に取り次いでいます。武器はすでに手放しました。この時点で、小栗の側は嫌疑が晴れたと考えていました(小栗を斬らずに済ませたかった三藩)。
それでも斬られた
ところが閏四月五日(四日とする資料もあります)、東山道総督府の軍監・原保太郎と豊永貫一郎が三藩の兵を率いて東善寺に踏み込み、小栗を捕らえました。翌六日、小栗は烏川の水沼河原で、家臣三人とともに斬られます。取り調べは一度も行われませんでした。斬首は「罪状明白につき」として行われたと伝わりますが、その罪状を裏づける文書はありません(小栗上野介はなぜ殺されたのか)。

結局、小栗は「逆手に取られた」のか
確かな史料から言えることを整理すると、次のようになります。
- 小栗が砲台や陣屋を築いていたことを示す記録はない。建てていたのは住まいで、日記にその工事の様子が残っている
- 武器を持っていたのは事実だが、家臣の数に見合う程度で、治安の乱れた時期の自衛のためと考えられる
- 一揆を撃退した実績、新政府への不出頭、旧幕府の要人という立場が重なり、「武装して抵抗する構え」という見方につながった
- 三藩の検分では疑いは晴れ、武器も引き渡したのに、取り調べなしに斬られた
なぜ現地の軍監が斬首に踏み切ったのかは、命令の文書が残っていないため、いまも分かりません。小栗の能力を恐れたという説、徳川の御用金を隠したという噂(のちの埋蔵金伝説)を信じたという説などがあります(小栗上野介の埋蔵金伝説とは)。ただ少なくとも、「砲台」や「陣屋」が実在しなかった以上、小栗が防犯のために持っていた武器と、住まいの普請が、処刑の口実として使われたことは確かでしょう。
昭和七年、最期の地に建てられた碑には、「偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。
訪ねるなら
- 観音山の小栗邸跡(群馬県高崎市倉渕町権田):礎石と用水路が残る。高崎市指定史跡
- 東善寺(高崎市倉渕町権田169):小栗が身を寄せた寺。小栗父子の墓(県指定史跡)と胸像
- 小栗上野介忠順終焉の地(高崎市倉渕町水沼):「罪なくして此所に斬らる」の碑

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参考資料
高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号(令和八年三月)、小栗忠順の日記(東善寺の紹介による)、東善寺「幕末変革の時代を駆け抜けた小栗上野介」、高崎市「小栗上野介の関連史跡」「小栗上野介忠順終焉の地」、PHP「歴史街道」の記事。大砲・小銃の数は、確かな一次史料を確認できていない説として紹介しています。


