上田藩/松平家5万3千石:松平忠礼 新政府軍に与して北越戦争や会津戦争に参戦した上田藩

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上田藩の歩み

安政六年(1859年)、「松平忠固」が死去するとその嫡子「松平忠礼」が跡を継ぎました。ところが父「忠固」が幕政に参与して藩政を顧みなかったために藩財政は悪化し、藩内では藩政の主導権をめぐって政争が起こるなどの混乱が続きました。

上田藩/場所・アクセス・地図 松平家5万3千石:松平忠礼 新政府軍に与して北越戦争や会津戦争に参戦した上田藩【幕末維新写真館】

幕末の「戊辰戦争」では新政府側に与して北越戦争や会津戦争に出兵しました。明治二年(1869年)、忠礼は「版籍奉還」を行なって上田藩知事となったが、同年に領内で大規模な騒動が起こりました。明治四年(1871年)の「廃藩置県」で上田藩は廃藩となり上田県となります。そして同年十一月、上田県は長野県に吸収されました。

真田氏ゆかりの城・上田

上田藩は、信濃国(現在の長野県上田市)に置かれた五万三千石の藩で、かつて真田氏が徳川の大軍を二度も退けた名城・上田城を居城としました。幕末の藩主は松平(藤井松平)家で、信州の要地を治める譜代大名でした。

新政府方として各地を転戦

戊辰戦争において上田藩は新政府軍に与し、北越戦争や会津戦争に兵を送って各地を転戦しました。その前の慶応四年二月には、小諸藩とともに、偽官軍とされた赤報隊を追分宿で攻めています(追分の戦いとは)。譜代でありながら早くに新政府方を選び、その戦力として動乱の各地で戦った、信州の藩の一例です。

開国を推し進めた老中がいた

上田藩の幕末を語るなら、松平忠固(ただかた)という人物を知らないわけにいきません。

忠固は二度、老中を務めています。一度目が嘉永元年(1848年)十月から安政二年(1855年)八月まで、二度目が安政四年(1857年)九月から安政五年(1858年)六月までです。当初は忠優と名乗り、安政四年に忠固と改めました。

その立場は一貫して開国でした。ペリーが来航したとき、老中首座の阿部正弘が諸大名や朝廷に意見を諮ろうとしたのに反対し、幕府の当事者能力の喪失を印象づけるだけだと警告しています。攘夷を唱える水戸藩の徳川斉昭とは激しく対立しました。

日米修好通商条約では勅許は不要だと主張します。安政五年六月十九日の城中の評議で、長袖の望みに適うようにと議論していては果てしがないと述べ、即時調印を強く求めました。堀田正睦も井伊直弼も勅許を取ろうとしていたなかで、忠固はそれを無視して押し切ろうとしたのです。

四日後の六月二十三日、忠固は堀田正睦とともに老中を免じられます。井伊直弼は松平慶永あての書状で、小身者の分際でこのごろは権威を誇り傍若無人だ、と忠固を罵っています。そして翌安政六年九月十四日、四十八歳で急死しました。表向きは病死ですが、暗殺説も残ります。

なぜ蚕と生糸だったのか

忠固の開国論には、上田という土地の事情が重なっています。

天保二年(1831年)、忠固は領内の冷涼な気候が稲作に向かないと見て養蚕を奨励しました。翌天保三年には「上田産物改会所」を設け、絹糸と織物の品質を検査して課税する仕組みをつくります。さらに安政四年(1857年)、江戸と上田に産物会所を置いて生糸の輸出体制を整えました。

その二年後に横浜が開港します。開港と同時に生糸の輸出を始めたのが上田藩でした。明治三年には全国の蚕種輸出百三十九万枚あまりのうち、上田からのものが六十二万七千枚、実に四割五分を占めています。「蚕都上田」の言葉はここから来ています。千曲川が氾濫しても桑は根が縦に張るので流されず、山から吹く風が害虫を防いだといいます。

忠固の評価が高くない理由の一つは、将軍継嗣問題で南紀派にも一橋派にも与せず、両派から黄金の贈呈を申し入れられても受け取らなかったことにあるとされます。どちらの側からも悪く言われ続けたわけです。墓は江戸の天徳寺にあり、上田の願行寺には遺髪と遺歯を納めた墓があります。

松平忠礼と、北越・会津

安政六年に忠固が没すると、嫡子の松平忠礼が跡を継ぎました。父が幕政に忙殺されて藩政を顧みなかったため財政は悪化し、藩内では主導権をめぐる政争が続きます。

慶応四年(1868年)の戊辰戦争では新政府側に立ち、北越戦争と会津戦争に出兵しました。翌年に賞典禄三千石を受けています。明治二年六月に上田藩知事となりますが、八月には巳年騒動と呼ばれる農民一揆が起きました。明治五年からは米国のラトガース大学に留学しています。帰国後は外務省に勤め、明治十七年に子爵、明治二十八年に四十六歳で没しました。

忠礼は写真を好んだ人で、藩主だった幕末のころに撮られたと伝えられる肖像写真が残っています。

上田城と、暗殺された藩士

上田城は明治七年の廃城で、七棟のうち一棟を残して解体されました。いま現存するのは西櫓だけです。南櫓と北櫓は民間に売られていたものを市民が買い戻し、昭和二十四年に移築復元されました。東虎口櫓門と袖塀は平成六年、古写真をもとに復元されています。国の史跡に指定されたのは昭和九年でした。

東虎口櫓門のわきにある真田石は、真田昌幸が築城のときに太郎山から切り出したと伝わる大石です。城内には真田・仙石・松平の歴代城主を祀る真田神社があります。

長野県上田高校の正門は、上田藩主居館の表門です。寛政元年に焼けたあと翌年に再建された薬医門で、土塀は幕末の文久三年(1863年)に竹矢来に替えて建てられました。上田市の文化財に指定されています。

もう一人、忘れられない上田藩士がいます。赤松小三郎です。坂本龍馬の新政府綱領八策より早く二院制の議会を提唱した「建白七策」で知られる洋学者で、慶応三年九月三日の午後、京都の東洞院通りで薩摩藩士の桐野利秋らに斬られました。数え三十七歳。遺体は金戒光明寺に、遺髪は上田の月窓寺に葬られています。

上田藩をもっと詳しく

藩の成り立ち:真田・仙石・松平の三家

上田城を築いたのは真田昌幸で、天正十一年(1583年)のことです。関ヶ原の戦いで昌幸と次男の信繁(幸村)は西軍につき、敗れて紀州九度山に追われました。東軍についた長男の信之が上田の領地を受け継ぎ、元和二年(1616年)ごろには上州沼田とあわせた上田藩が成り立ちます。その信之も元和八年(1622年)に松代へ移されました。

代わって入ったのが仙石忠政で、関ヶ原の後に壊されていた上田城を修築しました。仙石家は忠政・政俊・政明と三代続き、宝永三年(1706年)に但馬出石藩へ移ります。このとき出石藩主だった松平忠周が五万八千石で上田に入り、仙石家と松平家が領地を入れ替える形になりました。以後、松平家が七代にわたって廃藩置県まで上田を治めます。石高はのちに五万三千石となりました。

藤井松平家と松平忠周

上田の松平家は、徳川家と同じ松平一族の中の藤井松平家(伊賀守流)です。上田に入った松平忠周は丹波亀山藩主松平忠晴の三男で、丹波亀山、武蔵岩槻、但馬出石と移ってきました。五代将軍綱吉のもとで若年寄・側用人を務め、のちには京都所司代、享保九年(1724年)には老中となり、在職のまま享保十三年(1728年)に江戸で亡くなっています。幕末の松平忠固が二度老中を務めたのは、こうした幕府中枢を担う家柄だったことも背景にあります。

二つの大きな一揆

上田藩は、江戸時代の中ごろと明治初めの二度、大きな百姓一揆を経験しています。一度目は宝暦十一年(1761年)十二月の上田騒動(宝暦騒動)です。年貢の取り方が検見法に変わったことに乗じた役人の不正に農民が怒り、およそ一万三千人が上田城下へ押し寄せました。不正を働いた役人は辞めさせられましたが、首謀者とされた夫神村の清水半平と中沢浅之丞は死罪となっています。

二度目が本文にもある明治二年(1869年)八月の騒動で、巳年騒動とも呼ばれます。にせの二分金の通用が止められたことで村の経済が混乱し、八月十六日に入奈良本村で起きた一揆は翌日に城下へなだれ込みました。打ちこわしの被害は五百九十戸に及び、首謀者とされた百姓九郎右衛門は斬首となりました。コトバンクの解説は、この世直し一揆によって藩政は崩壊したとまで述べています。

藩校と特産

文化九年(1812年)に家督を継いだ松平忠学は、翌年に藩校明倫堂と武芸の稽古所(演武場)を設けました。特産としては上田縞・上田紬・蚕種が藩の保護と統制のもとに置かれており、本文にある忠固の養蚕奨励や生糸輸出は、この土台の上に築かれたものです。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、五万三千石のこの藩はおよそ千二百五十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「上田藩」「松平忠周」「上田騒動」、コトバンク「上田藩」

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