徳川慶喜とは何をした人物か—最後の将軍、大政奉還と大坂城からの脱出。小栗忠順を罷免し、明治を45年生きた十五代

夜、ひそかに大坂城を抜け出す将軍一行(イメージ)

この記事は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

「幕末のもしも」について
史実をふまえたうえで、「もしあのとき別の道を選んでいたら」を管理人なりに考えるシリーズです。前半は史料にもとづく史実、後半の「もしも」の部分は管理人の考え(推測)です。
将軍時代の徳川慶喜の肖像写真
将軍時代の徳川慶喜。フランスから贈られた軍服姿の写真も残る、写真好きの将軍だった(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、江戸幕府の15代、そして最後の将軍です。将軍だったのは、わずか1年足らず。そのあいだに大政奉還で政権を朝廷に返し、鳥羽伏見の戦いのあとは大坂城から江戸へ引き上げ、戦わずに新政府に従いました。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では、主人公・小栗忠順が仕え、そして最後に小栗を罷免する主君として登場するはずです。「最後の将軍は何をして、何をしなかったのか」を、小栗との関わりも含めてたどります。

目次

徳川慶喜は何をした人?—先に答え

項目内容
身分江戸幕府15代将軍(最後の将軍)。水戸藩主・徳川斉昭の七男で、一橋家を継いだ
生没年天保8年(1837年)〜大正2年(1913年)。数えで77歳
いちばん大きな仕事慶応3年(1867年)10月、大政奉還。260年あまり続いた幕府の政権を朝廷に返した
よく言われること鳥羽伏見の戦いのさなか、兵を残して大坂城から軍艦で江戸へ帰った
小栗忠順との関係将軍として小栗にフランス式の改革を任せたが、慶応4年正月、徹底抗戦を説く小栗を罷免した
その後静岡で30年近く趣味に生きる。のちに公爵となり、東京で亡くなった

生い立ち—水戸の斉昭の子、一橋家へ

慶喜は天保8年(1837年)、水戸藩主・徳川斉昭の七男として、江戸の水戸藩邸で生まれました。幼名は七郎麻呂。斉昭の方針で、幼いころから水戸で育てられ、藩校・弘道館で学問と武芸を仕込まれます。

水戸藩は『大日本史』の編さんで知られ、天皇を尊ぶ「水戸学」の本場でした。慶喜がのちに朝廷と戦うことをためらった理由の一つに、この水戸の教えを挙げる人は少なくありません。

弘化4年(1847年)、11歳で御三卿の一橋家を継ぎます。名前の「慶」の字は、12代将軍・徳川家慶からもらったものです。

梅の咲く偕楽園を背に立つ水戸藩主・徳川斉昭のイラスト
梅の咲く偕楽園を背に立つ父・徳川斉昭(イメージ)。攘夷派の旗頭で、慶喜を将軍にしようと動いた

▶ 徳川斉昭とは何をした人物か/徳川家慶とは何をした人物か

将軍になるまで—「英明」と期待されながら

慶喜は若いころから頭の切れる人物として評判で、13代将軍・家定の跡継ぎに推す声が高まりました(将軍継嗣問題)。父の斉昭や越前の松平慶永、薩摩の島津斉彬らが慶喜を推す「一橋派」です。しかし大老・井伊直弼ら「南紀派」が推した紀州の徳川家茂が14代将軍に決まり、慶喜は安政の大獄で隠居・謹慎を命じられます。

桜田門外の変で井伊が倒れると、慶喜は文久2年(1862年)、将軍の補佐役である将軍後見職に就き、政治の表舞台に戻りました。その後は京都に腰をすえ、朝廷の警護を指揮する禁裏御守衛総督として、元治元年(1864年)の禁門の変では自ら兵を率いて長州軍と戦っています。

年年齢できごと
1847年11歳一橋家を継ぐ
1858年22歳将軍継嗣問題で家茂に敗れる
1859年23歳安政の大獄で隠居・謹慎
1862年26歳将軍後見職に就く
1864年28歳禁裏御守衛総督。禁門の変で長州軍と戦う
1866年30歳家茂の死後、12月に15代将軍となる
1867年31歳10月、大政奉還
1868年32歳鳥羽伏見の戦いのあと江戸へ。恭順・謹慎

年齢は数え年です。

▶ 井伊直弼とは何をした人物か/徳川家茂とは何をした人物か

将軍として何をしたのか—慶応の改革と、小栗・ロッシュ

慶応2年(1866年)7月、家茂が大坂城で亡くなり、12月、慶喜は15代将軍となります。慶喜が取り組んだのは、フランスの力を借りた幕府の立て直しでした(慶応の改革)。

  • 軍の改革—フランスから軍事顧問団を招き、歩兵・騎兵・砲兵を西洋式に訓練
  • 政治の改革—老中に陸軍・海軍・外国・会計などの担当を持たせ、今の内閣のような形に近づけた
  • 横須賀製鉄所—フランスの技術で造船所の建設を進めた
  • パリ万博—弟の徳川昭武を将軍の名代としてパリ万国博覧会に送った

この改革の実務を担ったのが、勘定奉行の小栗忠順と、フランス公使レオン・ロッシュでした。慶喜は大坂城でロッシュとたびたび会い、助言を受けています。

1867年、大坂で撮影された徳川慶喜
慶応3年(1867年)、大坂で撮影された慶喜(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

▶ 横須賀製鉄所とは/勘定奉行とは何をする仕事?小栗忠順の役職を解説

大政奉還—政権を朝廷に返す

慶応3年(1867年)、薩摩と長州は武力で幕府を倒す準備を進めていました。そこへ土佐藩の山内容堂が、「政権を朝廷に返してしまえば、倒す理由がなくなる」という案を慶喜に出します。

慶喜はこれを受け入れ、10月13日、京都の二条城に諸藩の重臣を集めて意見を聞き、翌14日、朝廷に政権の返上を申し出ました。これが大政奉還です。

大政奉還を描いた絵(二条城)
二条城で諸藩の重臣に大政奉還を告げる場面を描いた絵(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

慶喜のねらいは、政権を返しても、日本一の大名である徳川家が新しい政治の中心に残ることでした。しかし12月9日、薩摩などは朝廷で「王政復古の大号令」を出させ、慶喜に官位と領地の返上(辞官納地)を求めます。慶喜の計算は、ここで崩れました。

鳥羽伏見と、大坂城からの脱出

慶応4年(1868年)正月3日、京都へ向かった旧幕府軍と、薩摩・長州の軍が京都南郊の鳥羽と伏見でぶつかります。兵の数では旧幕府軍が上回っていましたが、新政府軍に「錦の御旗」が掲げられ、旧幕府軍は「朝敵」とされました。戦いは3日で旧幕府軍の敗北に終わります。

鳥羽伏見の戦いを描いた錦絵
鳥羽伏見の戦いを描いた錦絵(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

1月6日の夜、慶喜は「最後の一兵になっても戦う」と兵に告げたその夜に、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、老中らわずかな供とともに大坂城を抜け出し、大坂湾の開陽丸に乗って江戸へ向かいました。艦長の榎本武揚は城に上がっていて、置き去りにされています。

夜、ひそかに大坂城を抜け出す将軍一行(イメージ)
慶応4年1月6日の夜、ひそかに大坂城を抜け出す慶喜の一行。沖には開陽丸が待っていた(イメージ)

城に残された兵は、将軍がいないことを知って散り散りになりました。「総大将が兵を見捨てて逃げた」という評価は、この夜から始まります。

旧幕府海軍の旗艦・開陽丸
慶喜が江戸へ帰るのに使った開陽丸(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

なぜ逃げたのか。朝敵になることを何よりも恐れたから、という説が有力です。水戸学で育った慶喜にとって、天皇の軍と戦うことはできなかった、というのです。ほかに、戦いを長引かせればイギリスとフランスが介入し、日本が分断されることを心配した、という見方もあります。

▶ 【幕末のもしも】慶喜が大坂城から逃げ帰らなかったら—海を押さえ、四方から京都を囲む

小栗忠順を罷免する

江戸に戻った慶喜は、江戸城で今後の方針を話し合わせます。勘定奉行の小栗忠順は、箱根で新政府軍を迎え撃ち、艦隊で海から背後を突く作戦を示して、徹底抗戦を説きました。

しかし慶喜は恭順の道を選び、1月15日、小栗を罷免します。このとき小栗が慶喜の袖をつかんで思いとどまるよう迫り、慶喜はそれを振り払って奥へ入った、という話が伝わっています。小栗は領地の上野国権田村へ移り、その3か月後、新政府軍に斬られました。

鳥羽・伏見の敗報が届いた江戸城の大広間で徹底抗戦を説く小栗忠順(イメージイラスト)
江戸城の評定(イメージ)。戦うか、恭順するか—小栗は抗戦を説いて退けられた

▶ 小栗忠順の罷免とは/【幕末のもしも】小栗忠順の作戦が採用されていたら/小栗上野介はなぜ殺されたのか

恭順と謹慎—江戸開城、水戸、そして静岡へ

慶喜は2月、上野の寛永寺に入って謹慎し、新政府への恭順を示しました。新政府との交渉は勝海舟らにゆだねられ、4月11日、江戸城は戦わずに明け渡されます。同じ日、慶喜は生まれ故郷の水戸へ移り、7月にはさらに駿府(静岡)へ移りました。徳川家は田安家の亀之助(徳川家達)が継ぎ、駿府70万石の一大名となります。

▶ 勝海舟とは何をした人物か

静岡の30年—写真と狩猟と自転車

明治2年(1869年)に謹慎を解かれたあとも、慶喜は政治に一切かかわらず、静岡で静かに暮らしました。そのかわり、趣味にはとことん打ち込んでいます。写真、狩猟、投網、囲碁、謡、油絵、そして当時めずらしかった自転車。自分で撮った写真も多く残っています。

狩猟服姿の徳川慶喜
狩猟服姿の慶喜。静岡では鷹狩りや銃猟を楽しんだ(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

明治30年(1897年)に東京へ移り、翌年には明治天皇に拝謁して、かつての「朝敵」の汚名は事実上晴れました。明治35年(1902年)には公爵となります。大正2年(1913年)11月22日、数えで77歳で亡くなり、上野の寛永寺の墓地(谷中霊園の隣)に葬られました。

明治の徳川慶喜
明治の慶喜。政治から離れ、45年におよぶ明治を生きた(出典:Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

慶喜はどう評価されているのか

見方中身
逃げた将軍鳥羽伏見で兵を残して江戸へ帰った。旧幕府方の多くが、これを許さなかった
内戦を避けた人戦わずに恭順したことで、江戸が戦場になるのを防ぎ、外国の介入も招かなかった
改革者慶応の改革で、幕府を近代的な政府に作り替えようとした
小栗から見るとせっかくの改革と海軍の力を、最後の場面で使わなかった主君

どの見方を取るかで、慶喜の姿は大きく変わります。大河ドラマで、小栗の目から慶喜がどう描かれるのかは、見どころの一つになりそうです。

徳川慶喜のゆかりの地

  • 二条城(京都市)—大政奉還を諸藩の重臣に告げた二の丸御殿
  • 大阪城(大阪市)—鳥羽伏見の戦いのとき、慶喜がいた城
  • 弘道館(水戸市)—少年時代に学び、江戸開城のあと謹慎した水戸藩の藩校
  • 寛永寺(東京都台東区)—江戸開城前に謹慎した寺。墓所もここにある
  • 浮月楼(静岡市)—静岡時代の屋敷の跡
大坂城(大阪城)の天守
大坂城の天守。慶喜はこの城から、夜ひそかに抜け出した(撮影:幕末歴史ガイド)

参考資料

  • 家近良樹『徳川慶喜』(吉川弘文館)ほか
  • 写真:Wikimedia Commons(パブリックドメイン)

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

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