【現地取材】彦根城を歩く——井伊直弼の十五年と、赤備えが官軍になった日

滋賀県彦根市の彦根城。国宝の天守が建ち、堀が残り、ひこにゃんが歩いている。全国でも指折りに整った城跡です。

そして幕末歴史ガイドとしては、ここは避けて通れない城です。日米修好通商条約を勅許なしで結び、安政の大獄で志士を斬り、桜田門外で首を取られた大老——井伊直弼の城だからです。

ただ、この記事でいちばん書きたいのは直弼本人ではありません。その後です。直弼が討たれたあと、彦根藩がどうなったか。譜代筆頭のこの藩が、最後に何をしたか。——そこがこの城の、いちばん幕末らしいところだと思っています。

中堀のほとりに立つ「琵琶湖八景 月明 彦根の古城」の石碑
中堀のほとりに立つ「琵琶湖八景 月明 彦根の古城」の石碑
目次

佐和山を壊してできた城

井伊直政公像の説明板。城の来歴が簡潔にまとめられている
井伊直政公像の説明板。城の来歴が簡潔にまとめられている

駅前の銅像の脇に立つ説明板が、この城の成り立ちを端的に語っていました。

井伊直政は永禄四年、いまの静岡県井伊谷の生まれ。徳川四天王の一人として関ヶ原で功をあげ、石田三成の居城だった佐和山城を与えられて十八万石の大名となります。

ところが直政は、佐和山に住み続ける気がありませんでした。城を彦根山へ移そうとしたのです。——三成の城に入りたくなかった、という理由がよく語られます。

しかし慶長七年、直政は四十一歳で病没。子らがその遺志を継ぎ、二十年の歳月をかけて元和八年に彦根城を完成させました。

つまり彦根城は、佐和山城を徹底的に壊してその石材まで運んで築かれた城です。いま佐和山に登っても、あるのは山と削平地だけ。三成の城は、目の前の彦根城になって残っている——そう考えるほうが正確です。

天守にも移築の伝承があります。大津城の四重五階の天守を、江戸城より低くするためにあえて三重に縮めて移したと。そして長浜の城からは、天秤櫓が運ばれたと『井伊年譜』は伝えています。近江じゅうの城を解体して、その部材で建てた城なのです。

幕末——埋木舎の、十五年

十四男に生まれて

井伊直弼は文化十二年、彦根藩十一代藩主・井伊直中の十四男として生まれました。

十四番目です。家を継げる見込みはまずない。他家へ養子に出るあてもなかった彼は、父の死後、城の佐和口御門の外にある屋敷に移され、三百俵の部屋住みとして暮らすことになります。

彼はその屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名づけました。埋もれ木、つまり土に埋まって花の咲かない木。十七歳から三十二歳まで、十五年をここで過ごします。

その十五年で、直弼は茶を極め、居合を修め、和歌を詠み、鼓を打ち、禅を組み、国学を学びました。茶書『茶湯一会集』で「一期一会」という言葉を世に定着させたのも、この人です。

——大老としての苛烈さと、この文人としての厚みが同じ人物のなかにある。私は彦根城を歩くとき、いつもそこで立ち止まります。

大老、そして条約

ところが兄が死に、弘化三年に養子となり、嘉永三年、三十五万石の藩主になってしまう。埋もれ木は、いきなり幕政の中枢へ引き出されました。

安政五年四月二十三日、大老就任。

そして同年六月十九日、日米修好通商条約に、勅許を得ないまま調印します。アメリカ総領事ハリスは、清国がアロー戦争で英仏に叩かれたことを持ち出して、「イギリスが来る前にアメリカと結んでおけ」と迫っていました。——ペリーが久里浜に上陸してから、わずか五年後のことです。

さらに将軍継嗣問題では、一橋慶喜を推す一橋派を退けて紀州の徳川慶福(家茂)を立てました。この二つで、直弼は朝廷と水戸を同時に敵に回します。

安政の大獄

反対派への処断は、容赦のないものでした。

福井藩橋本左内、長州の吉田松陰頼三樹三郎——処刑された者だけでも幕末思想史の中心人物が並びます。公卿も大名も隠居・謹慎に追い込まれた。安政の大獄です。

面白いのは、この弾圧をめぐって幕閣自体が割れていたことです。掛川の太田資始は直弼に起用されながら、志士弾圧に反対して罷免されました。逆に鯖江藩間部詮勝は京に上って弾圧の現場を仕切り、——その次男が吉田城(豊橋)の最後の藩主になります。

桜田門外

安政七年三月三日。雪の朝でした。

登城の行列が桜田門の前にさしかかったところを、水戸浪士十七名と薩摩藩士一名が襲います。雨合羽を掛けた刀は抜けず、供の彦根藩士は反撃もままならなかった。直弼は駕籠のなかで銃弾を受け、引きずり出されて首を取られました。四十六歳

——天下の大老が、白昼、江戸城の門前で殺された。この一件で幕府の権威は決定的に折れます。幕末という時代の加速は、この朝から始まったと言っていい。

★そして井伊家は、徳川を見限った

ここからが、この記事のいちばん書きたかったところです。

直弼が討たれた直後、彦根藩は藩主がまだ存命であるかのように装いました。当主が横死したと届ければ、家が咎めを受けかねなかったからです。そのうえで万延元年四月二十八日、十三歳の井伊直憲が家督を継ぎます。

それでも幕府の処断は下りました。文久二年十一月二十日、「父・直弼の専横」を糾弾され、三十五万石から二十万石へ減封。——十五万石です。譜代筆頭の家が、父の政治を理由に、幕府自身の手で削られた。(元治元年に三万石が戻され、二十三万石になります)

この仕打ちを、彦根の家中がどう受け取ったか。答えは六年後に出ます。

慶応四年正月、鳥羽・伏見。彦根藩は最初から新政府軍として動きました。藩兵は東寺や大津を固め、旧幕府軍の側には立たなかった。井伊の赤備え——徳川の先鋒として二百六十年、戦場の一番槍を務めてきたあの赤備えが、官軍になったのです。

そのあとの働きも徹底しています。彦根藩兵は東山道鎮撫総督に属し、流山近藤勇を捕らえる功をあげ、さらに白河口から会津へ転戦しました。

——直弼が水戸の激派に殺された。その水戸を生んだ思想と同じ流れが、天狗党として敦賀で三百五十人斬られている。そして直弼の息子は、新選組の局長を捕らえ、会津を攻めた。

誰が誰の仇を討ったのか、途中でわからなくなります。それが幕末という時代の、いちばん正直な姿かもしれません。

明治二年七月八日、直憲は藩知事となり、明治四年七月十四日の廃藩置県で職を解かれました。その後は米英へ遊学し、貴族院伯爵議員をつとめ、教育の支援に力を注いでいます。

城を歩く

表門橋を渡る。ここから登城が始まる
表門橋を渡る。ここから登城が始まる
中堀。城下の町と城域を隔てる水が、いまも満々と残っている
中堀。城下の町と城域を隔てる水が、いまも満々と残っている

彦根城の面白さは、「敵を殺す設計」がほとんど手つかずで残っているところです。

橋を渡って坂を登っていくと、頭上に石垣がのしかかってきます。斜面を這うように石垣が延びていて、これが登り石垣。斜面を横切って攻め上がることを封じる仕掛けで、日本の城では珍しい遺構です。

斜面を這う石垣。横移動を封じるための登り石垣
斜面を這う石垣。横移動を封じるための登り石垣
太鼓門櫓と、その下の高石垣
太鼓門櫓と、その下の高石垣

そして天秤櫓。中央の門を挟んで左右に櫓が張り出し、天秤のような形をしています。その真ん中に架かるのが廊下橋——非常時には落とせる橋です。

橋の下から見上げると、この構造の意地の悪さがよくわかります。橋を落とされたら、堀切の底に取り残されて、左右の櫓から狙い撃ちにされる。見上げながら、ここで死ぬのは嫌だなと素直に思いました。

天秤櫓と廊下橋。橋は非常時に落とせる
天秤櫓と廊下橋。橋は非常時に落とせる
廊下橋の下から見上げる。落とされたら逃げ場のない堀切である
廊下橋の下から見上げる。落とされたら逃げ場のない堀切である

さらに登ると太鼓門櫓、そして本丸の国宝天守です。三重三階、破風を組み合わせた装飾的な外観で、大きくはないのに堂々として見える。昭和二十七年に国宝となりました。天秤櫓・太鼓門及び続櫓・西の丸三重櫓及び続櫓・佐和口多聞櫓・馬屋の五棟が重要文化財で、とくに馬屋は、城の馬屋としては全国でほぼ唯一の現存例です。

明治十一年、解体の直前で止まった

この城が残ったのは、幸運としか言いようがありません。

明治初年、彦根城も他の城と同じく民間へ売却され、壊される予定でした。伊勢亀山城田中城も、そうやって消えています。

ところが明治十一年、明治天皇が巡幸の途中で彦根を通りました。このとき随行していた参議大隈重信が天皇に働きかけ、天守と櫓の保存が決まったのです。城はいったん皇室付属地となり、のちに最後の藩主・井伊直憲に下賜されました。

——父を殺された家が、明治の政府によって城を返してもらう。ここにも、ひとひねりあります。

歩いてみて

本丸にて。国宝天守の前に、ひこにゃんが出てくる
本丸にて。国宝天守の前に、ひこにゃんが出てくる

本丸に着くと、ひこにゃんがいました。

言うまでもなく、あの兜は井伊の赤備えです。関ヶ原でも大坂でも、真っ赤な具足で一番に突っ込んでいったあの井伊。それが白い猫になって、天守の前でゆっくり手を振っている。妻は喜んで並んでいました。

この落差を、私は悪いものだとは思いません。——ここまで天狗党を処刑した殿様の城や、兵糧攻めで城兵が全滅した山を歩いてきました。そういう場所のあとで、猫が手を振っている本丸に立つと、ずいぶん遠くまで来たものだと思うのです。

直弼は十五年を埋木舎で過ごし、五年ほど幕政を握り、雪の朝に首を取られました。その息子は十三歳で家を継ぎ、十五万石を削られ、そして徳川を見限って会津まで攻め上がった。——この城のなかで、たった十年ほどのあいだに起きたことです。

城下には、直弼が十五年を過ごした埋木舎がいまも建っています。私が訪ねたのは冬で、堀の水が冷たく澄んでいました。「世の中を よそに見つゝも埋もれ木の 埋もれておらむ 心なき身は」——あの屋敷で詠まれたという歌を思い出すと、この城の見え方が少し変わります。

JR彦根駅前に立つ井伊直政公之像
JR彦根駅前に立つ井伊直政公之像
像の足元には「彦根城を世界遺産に」の看板が並ぶ
像の足元には「彦根城を世界遺産に」の看板が並ぶ

駅前には井伊直政の騎馬像が立ち、その足元に「彦根城を世界遺産に」の看板が並んでいました。

世界遺産の看板の下にいるのが直弼ではなく初代の直政である、というのが、この街の距離の取り方なのかもしれません。直弼は、いまも評価の定まらない人です。開国の英断者として讃える見方もあれば、弾圧者として断罪する見方もある。横浜の掃部山公園に立つ直弼の銅像も、建立をめぐって長く議論がありました。——それでいいのだと思います。幕末の人物を一言で片づけないことが、このサイトを書いている私のいちばんの方針です。

アクセスと地図

彦根城/滋賀県彦根市金亀町。JR彦根駅から徒歩十分ほど。駅前に井伊直政像があるので、そこから中堀に向かって歩けば迷いません。入場は有料で、天守・玄宮園の共通券があります(時間・料金は要確認)。

本丸までは坂と石段です。歩きやすい靴で行ってください。見学は最低でも一時間半、玄宮園と埋木舎(佐和口御門の外・別料金)まで回るなら半日みておくと安心です。ひこにゃんの登場時刻は日によって決まっているので、会いたい人は当日の掲示を確認してから登城の順路を決めるといいです。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説板・碑文の記載をもとに書いています。史実にあたる部分は、あわせて公開されている文献資料で確認しています。

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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