【現地取材】喜連川城跡と喜連川藩 ― 五千石で「十万石格」、幕末を生きた足利家の城下町

幕末の日本に、石高が一万石に満たないのに大名として遇され、しかも十万石の格式を認められていた家がありました。下野国の喜連川藩です。栃木県さくら市の喜連川、その町並みを見下ろす丘が、藩の名の由来になった喜連川城の跡、いまのお丸山公園です。

この丘を歩いてまず驚くのは、規模のことです。五千石といえば大名ですらなく旗本の水準ですが、丘に刻まれた空堀と土塁は、とてもそんな石高の城下町のものとは思えません。南北に長い尾根を何本もの堀が断ち切り、公園として均された芝地の下に、中世の山城の骨格がそのまま横たわっています。

その違和感こそが、喜連川という土地の幕末を解く鍵になります。この藩は、石高と格式が徹底的に食い違っていた、江戸時代でただひとつの藩でした。

喜連川の町なかから見上げたお丸山。この丘の全体が喜連川城の跡です
喜連川の町なかから見上げたお丸山。この丘の全体が喜連川城の跡です
目次

五千石の大名——江戸時代でただひとつの例外

喜連川家は足利氏の血筋です。室町幕府を開いた足利尊氏の子孫のうち、関東を治めた鎌倉公方が分かれて古河公方となり、その末裔がこの地に落ち着きました。

小田原征伐のあと、豊臣秀吉は名族足利氏が絶えることを惜しみ、天正十八年(一五九〇)に足利国朝へ喜連川の地を与えます。四百貫、およそ三千五百石という小さな所領でした。国朝の姉の嶋子が秀吉の側室で、その取りなしがあったとも言われますが、ここは諸説あります。

国朝の弟の頼氏が家を継ぎ、関ヶ原の戦いでは結城秀康に従いました。慶長七年(一六〇二)、徳川家康は頼氏に千石を加増します。これで四千五百石。さらに寛政元年(一七八九)に五百石が加えられて五千石となり、幕末までこの石高で通しました。

ところが幕府の記録のうえでは、喜連川家の表高は「無高」、つまりゼロとして扱われていました。石高がないのですから、石高に応じて課される軍役も普請の負担も生じません。そのうえで家格だけは十万石の国主並みと定められていたのです。

特権を並べてみると、その異様さがよく分かります。参勤交代の義務がなく、妻子を人質として江戸に置く必要もありません。江戸城で控える部屋は大廊下で、これは加賀前田家や越前松平家と同じ格です。左兵衛督や左馬頭といった官位を称しましたが、これは幕府から授けられた武家官位ではなく、自ら名乗っていたものでした。「公方」「御所」という呼び方も許されています。

喜連川家は将軍と主従の関係を結んでおらず、自らを「天下の客位」「無位の天臣」と称したと伝えられます。江戸屋敷さえ幕府から与えられておらず、元禄年間に自前で下谷池之端に購入しました。将軍の家臣ではなく、客人という建前だったわけです。

もっとも、参勤交代が免除されていたにもかかわらず、実際には毎年十二月に江戸へ参府していたという記述もあります。義務ではないけれども顔は出す、という微妙な立場だったのかもしれません。

そして格式には金がかかります。五千石の収入で十万石の大名らしい体裁を保つのは、単純に無理な話でした。荒川と内川の氾濫、天保の大飢饉が追い打ちをかけ、藩の財政は幕末まで苦しいままです。天保十年(一八三九)から九代の煕氏が藩政改革に取り組みますが、家中の上士と下士の対立と、財政基盤そのものの弱さに阻まれて挫折しました。

幕末の当主は、徳川斉昭の子でした

幕末の喜連川家をたどると、意外な名前に行き当たります。十代の喜連川宜氏が文久二年(一八六二)に早世し、跡を継いだ十一代の縄氏は、水戸藩主徳川斉昭の十一男でした。宜氏の死があまりに急だったため、末期養子というかたちで迎えられたのです。

斉昭の子といえば、十五代将軍の徳川慶喜が七男です。つまり幕末の喜連川藩主は慶喜の弟にあたります。足利氏の名跡を、水戸徳川家から入った当主が継いでいた——このねじれ方が、いかにも幕末らしいところです。

そして慶応四年(一八六八)の戊辰戦争を迎えます。喜連川藩は新政府側につきました。当時の縄氏は病がちで、藩は病身の当主に代わって重臣を差し向けたいと願い出て、兵糧の献上を許され、肥前藩の兵とともに白河へ藩兵を送っています。

五千石の藩ですから、送れた兵の数はごくわずかだったはずです。白河口の戦いを記した記録に喜連川藩の名は目立ちません。それでも、奥州街道に沿ったこの土地で奥羽越列藩同盟に加わらなかったという選択は、決して軽いものではありませんでした。北の会津と南の新政府軍にはさまれた小藩にとって、どちらにつくかは家の存亡に直結します。

明治元年(一八六八)、縄氏は足利への復姓を果たします。喜連川という土地の名を家名としてきた二百七十余年ののち、ようやく本来の姓に戻ったわけです。

縄氏は明治二年五月に病で隠居し、十二代の足利聡氏が版籍奉還で知藩事となりました。しかし明治三年七月、聡氏は知藩事を返上します。廃藩置県を待たず、喜連川藩は自ら幕を引き、日光県に編入されました。のちに子爵を授かったのは聡氏ではなく、縄氏の長男で聡氏の養子となった足利於菟丸です。

お丸山を歩く——空堀は残り、石碑は少ない

お丸山公園に立つ城は、正確には大蔵ヶ崎城、あるいは倉ヶ崎城とも呼ばれます。文治年間に塩谷氏が築いたと伝わり、以後およそ四百年、十七代にわたって塩谷氏の本拠でした。喜連川に足利家が入る天正十八年に廃城となっています。

ですから、この丘そのものは足利家の城ではありません。足利家の館は麓に置かれました。それでも、山上の遺構が江戸時代を通じてそのまま残されたことが、いまの公園の異様なスケールを生んでいます。

市の指定史跡になっているのは本丸から続く一帯で、荒川と内川に挟まれた丘陵の突端という立地です。一の堀から四の堀まで、いくつもの空堀が尾根を横切り、そのあいだに土塁が走ります。公園として草が刈られているぶん、堀の断面がむしろよく見えるという皮肉な状態です。

芝生の広場に出ると、なだらかな高まりが弧を描いているのに気づきます。土塁です。そのすぐ外側が堀で、境目に立つと、遊具のある公園の風景が一瞬で城の縄張りに切り替わります。堀に架かる朱塗りの橋は現代のものですが、橋の下をのぞくと、堀の深さがよく分かります。

ただ、遺構の残りのよさに対して、それを説明するものが決定的に足りません。本丸跡はここです、二の丸はここです、この堀は何の堀です——そう教えてくれる石碑や標柱が、歩いても歩いてもほとんど現れないのです。地形は雄弁なのに、名前がついていない。城好きにはこれがいちばんもどかしいところでした。

大手門だけは、立派に建っています

その代わりというべきか、麓の大手門だけは堂々たる姿で建っています。石張りの袖を左右に従えた二階建ての櫓門で、屋根には金色の飾りが載り、遠目にもよく目立ちます。

麓に建つ大手門。石張りの袖をともなう二階建ての櫓門です
麓に建つ大手門。石張りの袖をともなう二階建ての櫓門です

門のかたわらの解説板には、こう記されています。

喜連川は源平の合戦以来、塩谷氏が治めていました。その後足利尊氏の分家古河公方の末えいの足利国朝を初代とし、弟の頼氏と治世が変わり、2代頼氏の代になって、現在の町役場の位置に館が建てられました。館は明治9年に焼失し、門は平成3年に復活しました。

足利家の館があったのは、山の上ではなく、いまの支所のあたりだったということです。そして館は明治九年に焼けました。廃藩からわずか数年後のことで、藩の建物としては最後の姿を、この土地の人はほとんど見ていないことになります。

大手門のかたわらに掲げられた解説板
大手門のかたわらに掲げられた解説板

奥州街道の宿場としての喜連川

喜連川は奥州街道の宿場町でもありました。氏家宿の次に置かれた喜連川宿で、天保十四年(一八四三)の記録では家数二百九十軒、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠十九軒、人口はおよそ千二百人です。

すぐ隣の氏家宿が旅籠三十五軒でしたから、宿場としての規模はむしろ小さいほうです。城下町でありながら宿場としては控えめという、これもまた喜連川らしい食い違いでした。

町なかには喜連川神社があります。永禄六年(一五六三)の創建で、尾張の津島から牛頭天王を勧請したと伝わります。この神社には喜連川藩の絵師である牧野牧陵が描いた神輿渡御の板絵が伝わり、栃木県の指定文化財になっています。五千石の藩がお抱えの絵師を持っていたことじたい、格式の重さを物語ります。

足利家の菩提寺は龍光寺です。足利尊氏の開基と伝わり、境内の歴代墓所はさくら市の指定史跡になっています。藩主と正室の墓碑や石塔など大小およそ六十基が並び、その中央には歴代の室町将軍と鎌倉公方の名を刻んだ供養塔が立つといいます。五千石の墓所に、室町幕府の歴代将軍の名が刻まれている——喜連川家が何を背負っていたのかが、いちばん端的に表れている場所かもしれません。

なお喜連川は温泉地としても知られますが、こちらは昭和五十六年(一九八一)にボーリングで掘り当てられた現代の温泉です。幕末の喜連川に湯はありませんでした。

登れなくなった展望塔と、震災の傷

丘の上には白い展望塔が立っています。高さおよそ五十メートルのスカイタワーで、遠くからでもよく見えるお丸山の目印です。ところが、いつからか登れなくなっていました。

お丸山の頂に立つ白い展望塔。現在は立ち入りできません
お丸山の頂に立つ白い展望塔。現在は立ち入りできません

理由は震災です。東日本大震災の際、お丸山では敷地内に七百メートルにわたる大きな亀裂が生じ、同じ年の台風では土砂崩れも起きました。土地の復旧工事そのものは終わっていますが、山頂部の施設は再開の見通しが立たないままです。麓と山上を結んでいたシャトルエレベーターも動いていません。

市の案内でも、天頂部は一部立ち入りが制限されていると記されています。散策路そのものは歩けますから、城跡としては十分に楽しめるのですが、あの塔に登れないのは残念でした。

現地を歩いて

正直なところ、もったいない、というのが率直な感想です。万石に満たない城下町としては敷地の規模が膨大で、城の遺構もよく残っています。とくに空堀は見応えがあります。それなのに、本丸跡を示す石碑ひとつを探すのに苦労するのです。

御城印を探しましたが、見当たりませんでした。喜連川城は日本百名城にも続日本百名城にも選ばれていませんから、そういうものなのかもしれません。ただ、これだけの遺構があって、大手門があれだけ立派に建っているのですから、門や櫓をもう少し復元してくれたら、と思ってしまいます。

身近にありすぎる史跡は、その土地の人ほど価値が見えにくいのかもしれません。とはいえ維持には費用がかかりますし、震災の傷も抱えています。難しいところなのだろうと思いつつ、この空堀を前にすると、やはり惜しいという気持ちが残ります。

それでも、五千石で十万石を名乗った家の城下町を、その規模のちぐはぐさごと体感できる場所は、そう多くありません。石碑がないぶん、地形そのものを読むしかない。それはそれで、城跡歩きの醍醐味でもあります。

喜連川城跡(お丸山公園)へのアクセス・地図

喜連川城跡は栃木県さくら市喜連川のお丸山公園として自由に歩けます。麓の大手門はさくら市喜連川支所のそばです。山頂部は一部立ち入りが制限されています。

▼ 喜連川藩の歴代藩主や石高など、藩の詳しいデータはこちら
喜連川藩/喜連川家5千石
▼ 藩兵を送った白河口の攻防はこちら
白河藩/阿部家10万石

あわせて読みたい

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の解説板「大手門」(全文を本文に引用)
  • さくら市の史跡解説(大蔵ヶ崎城址・喜連川藩主足利家歴代墓所)

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次