茨城県つくば市の小田城跡を歩いてから、筑波山に登りました。麓の平城から山へ、という順番です。この順で回ったのは偶然でしたが、結果としてこれが正解でした。元治元年、天狗党が挙兵したのはこの筑波山。麓の田んぼの中に広がる城跡から山を見上げ、それから同じ山を登ったことで、あの事件の地理が体に入ってきた気がします。
小田城跡——「弱小」のイメージが崩れた
正直に告白すると、小田氏には「常陸の弱小戦国大名」というイメージを持っていました。何度も城を落とされては取り返す、という印象が強かったからです。ところが現地に立った瞬間、その先入観は音を立てて崩れました。

説明板の数字がまず効きます。史跡範囲は南北550メートル、東西450メートル、面積21万7千平方メートル。国の史跡指定は昭和10年6月7日で、これは平城跡としての保存状況の良さが評価されてのことでした。復元整備された本丸跡だけでも東西約135メートル、南北約145メートルあり、その周囲を幅10〜30メートルの堀で仕切られた曲輪がいくつも取り囲んでいた。弱小どころか、堂々たる大規模平城です。


歩いてみると、この城が「山に頼らない城」だったことがよくわかります。筑波山地から続く宝篋山の南西の裾、南に開けた桜川左岸の低い段丘上。守りは地形ではなく、人が掘った堀と積んだ土塁が担っている。だから規模がものを言うのです。雨あがりで堀跡には水がたまり、かえって当時の水堀の姿が想像しやすくなっていました。




小田氏の来歴も、説明板を読むと納得がいきます。初代は八田知家。藤原北家の流れをくむ宇都宮氏と同系の氏族で、源頼朝の信任が厚く常陸守護職に任じられた人物です。鎌倉時代後半には北条氏の進出で所領を減らし、守護職も鎌倉末期には完全に失いますが、南北朝時代には7代治久が南朝方の重臣北畠親房を小田城に迎え、南朝の関東拠点として戦った。親房が『神皇正統記』を執筆したのがこの城だというのですから、日本史の教科書に出てくる書物の現場に立っていることになります。
室町時代には、関東で最も格式の高い名家を指す「八屋形」の一つに数えられました。千葉氏や小山氏と同格です。戦国期の14代政治も常陸南部で最大の勢力。ただし16世紀半ば、相模の後北条氏、越後の上杉氏、常陸北部の佐竹氏に三方から挟まれ、小田城は何度も戦いの舞台になります。15代氏治は永禄12年(1569)の手這坂の合戦に敗れて城を奪われ、以後は佐竹氏の城館となりました。そして関ヶ原後の慶長7年(1602)、佐竹氏の秋田移封により廃城。
負け続けた人という評価は、たしかにあります。けれども実際の縄張りを歩けば、これだけの城を維持し、何度も戻ってこられた家の底力のほうが見えてくる。「弱小」という言葉は、勝敗の記録だけを追った人の言葉なのだと思いました。
この城跡には、はっきりした幕末の接点がある
小田城は慶長7年に廃城ですから、幕末には城ではありません。それはこの記事でも正直に書いておきます。ところが説明板をよく読むと、幕末の人物がひとり顔を出すのです。
板に並ぶ古い絵図「慶長小田城蹟図」の添え書きに、こうあります。江戸時代の終わり頃に小田村の農政学者が模写したと考えられている絵図である、と。この人物が長島尉信(ながしま やすのぶ)です。
尉信は天明元年(1781)に常陸国新治郡小田村に生まれ、慶応2年(1866)に没しました。まさに幕末を生き切った世代です。土浦藩領だった小田村の名主をつとめながら、田制史——田んぼの制度と土地の所持権の歴史——を独学で究め、『田法大意』などの著述を残した在野の学者でした。そして天保期には、水戸藩の地方巧者(じかたこうしゃ)として招かれています。地方巧者とは、農政と検地の実務に通じた専門家のことです。
ここが面白いところです。土浦藩領の村の名主が、隣の水戸藩に技術者として呼ばれていた。斉昭の藩政改革が、こういう在野の実務家まで動員していたことがわかります。しかもその人物が、廃城から二百年以上たった小田城の絵図を写し取り、後世に城の姿を伝えた。いま私たちが小田城の縄張りを知っているのは、幕末の村の学者のおかげなのです。
尉信が世を去った慶応2年は、天狗党が敦賀で処刑された翌年にあたります。水戸藩に出入りしていた彼が、あの事件をどう聞いたのか。記録は追えませんでしたが、静かな城跡でしばらくそれを考えていました。
筑波山へ——ここが天狗党の挙兵地
小田城跡から筑波山は目の前です。車で山へ向かい、筑波山神社の境内に入ってすぐ、探していたものが見つかりました。

藤田小四郎の銅像です。右腕をまっすぐ天に突き上げ、左手には抜き身ではない刀。腹巻をつけ、脚絆を巻いた出で立ちで、視線は上を向いています。号令をかけている一瞬を切り取った像でした。
小四郎は天保13年(1842)生まれ。父はあの藤田東湖——水戸学の中心人物で、斉昭の側用人をつとめ、安政の大地震で母をかばって圧死した人です。その四男が、父の死から9年後にこの山で兵を挙げました。
元治元年3月27日(1864年5月2日)、筑波山に集結した62人。目的は、幕府が約束しながら実行しない攘夷の即時決行、とりわけ横浜の鎖港を迫ることでした。ただし小四郎自身はまだ23歳。自分が若すぎることを自覚していた彼は、水戸町奉行の田丸稲之衛門を口説いて主将に立てています。名を捨てて実を取る判断でした。
その後の動きは速い。4月3日には日光へ向かい、東照宮の占拠を狙うも近隣諸藩に阻まれる。6月には幕府が筑波勢の追討令を出し、常陸と下野の諸藩に出兵を命じ、幕府陸軍まで動員した。7月7日、諸藩連合軍との戦闘が始まります。このとき筑波勢は機先を制し、下妻近くの多宝院で夜襲をかけて成功。士気の低い諸藩軍は敗走しました。挙兵からわずか三か月半で、彼らは幕府の正規軍を破っているのです。

像の背後にはマンションが建ち、電線が横切っています。史跡の中の像というより、町なかの像です。それが妙に良かった。この人の挙兵は、遠い伝説ではなく、この山のこの場所で実際に起きたことなのだと、その日常感が逆に教えてくれました。
彼らが挙兵した山は、いまとは違う顔をしていた
ここで、現地に立たなければ気づかなかったことを書きます。小四郎たちが集まった元治元年の筑波山は、神社の山ではありませんでした。

石段を上がった先に構える大きな門。これが随神門です。県内随一の規模といわれ、つくば市の文化財に指定されています。寛永10年(1633)11月に三代将軍家光が寄進したのが最初で、宝暦4年と明和4年の二度の火災を経て、文化8年(1811)に再建されたのが現在の門。つまり天狗党が挙兵したとき、この門はすでにここに立っていました。

ただし、当時この門は仁王門でした。左右の間には仁王像が立っていたのです。江戸時代の筑波山は知足院中禅寺という寺の霊山であり、神と仏が一体になった「筑波大権現」として信仰されていました。延暦元年(782)に徳一上人が山頂の二社を再建し、千手観音を本尊として中禅寺と号したのが始まりと伝わります。1400年近く、この山は寺と神社が分かちがたい場所でした。
それが崩れたのが明治元年(1868)の神仏分離令です。中禅寺は廃寺に追い込まれ、大御堂をはじめとする多くの堂宇、知足院や衆徒の寺坊は、破壊され、焼かれ、あるいは売却されて姿を消しました。本尊の千手観音像は護国寺が買い取り、明治15年にようやく筑波へ戻ってきます(現在の大御堂は昭和36年の再建)。そして仁王門の仁王像は、桜川から筏で流され、つくば市松塚の東福寺へ移されました。空いた場所には倭健命と豊木入日子命の随神像が納められ、門の名は随神門に変わったのです。
ここに、この記事でいちばん考え込んだ点があります。天狗党が挙兵したのが元治元年、仁王が川に流されたのがその4年後。彼らが掲げた尊皇攘夷は、王政復古という形で勝ちました。そして勝った思想は、彼らが兵を挙げたまさにこの山から、仏を追い出したのです。小四郎はその結末を見ていません。門をくぐりながら、勝敗とはいったい何なのかと思いました。

ついでに小さな発見をひとつ。参道脇の社号標には、揮毫者として子爵・小笠原長生の名がありました。海軍中将で著述家としても知られた人ですが、その父が小笠原長行——第二次長州征討や戊辰戦争にかかわった幕末の老中です。幕府の中枢にいた男の息子の筆が、幕府に反旗をひるがえした志士の像のすぐそばに立っている。狙ったわけでもないのに、こういう取り合わせに出会えるのが現地歩きの面白さです。
山頂から——雲海の下に、彼らが下りていった平野

山を登り、頂上付近から関東平野を見下ろしました。この日は低い雲が平野に横たわり、切れ間から田と集落がのぞく状態。雲海の下に関東平野があるという、なかなか贅沢な景色でした。
そして思ったのは、天狗党もこの高さから同じ平野を見たはずだ、ということです。挙兵した62人は、やがて千を超える規模にふくれ上がります。しかし山を下りたあとの道のりは過酷でした。那珂湊での敗戦を経て挙兵勢力は大混乱に陥り、11月1日に大子を出発、京都を目指して下野・上野・信濃・美濃と、約二か月かけて主に中山道を進軍。頼みは、一橋慶喜に嘆願を届けることでした。同じ水戸の血を引く慶喜なら話が通じるはずだ、と。
12月11日、敦賀に到達。前方を封鎖していた加賀藩の監軍・永原甚七郎に嘆願書と始末書を提出し、慶喜への取次ぎを乞います。そして12月17日(1865年1月14日)、加賀藩に投降しました。
そして敦賀——ニシン蔵の話
筑波山で像を見上げながら、頭に浮かんでいたのは敦賀のことでした。あの結末を知っていると、腕を突き上げたこの姿がいっそう重く見えます。
投降した党員823名は、12月23日から25日にかけて敦賀の本妙寺(346名)、本勝寺(387名)、長園寺(90名)に収容されました。加賀藩の扱いは丁重でした。ところが翌年1月27日、幕府の役人に引き渡された瞬間、状況は一変します。
彼らが押し込められたのはニシン蔵。窓は塞がれて薄暗く、便所代わりの桶が部屋の中央に置かれ、足枷をはめられたまま。食事も粗末で、病死者が続出したと伝えられます。攘夷という国の大義を掲げて京都まで千数百里を歩いた者たちに対する扱いとしては、あまりに酷い。ここを思い出すたび気持ちが重くなる、というのが正直なところです。
永覚寺での簡略な取り調べのあと下された処分は、斬首353名、追放188名、流罪137名。2月4日に武田耕雲斎ら25名が斬られたのを皮切りに、来迎寺の刑場で五回に分けて処刑が行われました。藤田小四郎の番は元治2年2月23日(1865年3月20日)。享年24。挙兵からわずか11か月です。
救いがあるとすれば、その後の顕彰でしょうか。処刑された353名の遺骸は埋葬されて方形の墳墓となり、明治元年に15基の墓碑が建てられました。明治8年(1875)には411名を祀る松原神社の建立が許可され、明治11年10月10日には明治天皇が祭祀料を下賜。以後この日が例祭日になっています。墓所は昭和9年12月28日に国の史跡に指定されました。
ただ、名誉が回復されたのは全員が死んだあとです。筑波山のあの像が腕を上げているのは、まだ何も終わっていなかった元治元年の春の一瞬なのだと思うと、余計に胸に来ます。
歩いてみて
小田城跡と筑波山、この二つを一日で回って残ったのは、「常陸南部という土地の重さ」でした。
小田城は鎌倉から戦国まで四百年、この平野の中心にあり続けた城です。北畠親房が『神皇正統記』を書いた場所でもある。南朝の正統論を説いたその書物は、のちに水戸学が繰り返し参照した古典です。そして幕末、水戸で燃え上がった尊皇の思想が、その城跡を見下ろす筑波山で兵を挙げさせた。土地が思想を呼び、思想が兵を呼ぶ。この連なりを、地図ではなく足で確かめられたのが今回の収穫でした。
小田氏を弱小だと思っていた自分の先入観が、堀の幅ひとつで崩れたのも良かった。史跡は、行ってみないとわからないものだとつくづく思います。
アクセスと地図
小田城跡歴史ひろば/茨城県つくば市小田。本丸跡が復元整備され、案内所も併設。旧筑波鉄道の廃線跡を利用した自転車道「りんりんロード」が城跡を貫いており、自転車で訪れる人も多い。駐車場あり、見学無料。
筑波山神社/茨城県つくば市筑波。藤田小四郎の像は境内にあり、参道からすぐ。随神門、御神橋、拝殿はいずれも寛永10年に家光が寄進したもので、随神門は文化8年の再建。山頂へはケーブルカーとロープウェイが使えます。
