岐阜県恵那市の岩村町。日本三大山城のひとつ、岩村城があった町です。標高は七百十七メートル(岐阜県の公式資料は七百二十一メートル)、江戸時代の諸藩の城のなかで最も高い場所に築かれた城とされます。

正直に書きます。この日は、登れませんでした。登城口の石碑の前まで来て、看板の「本丸まで八百五十メートル、徒歩二十分」という文字を見ながら、しばらく迷いました。ほかにも回る予定があり、しかも月曜。楽しみにしていた資料館まで休館日です。山城好きとしては、目の前に道があるのに引き返すのは相当こたえました。
ところが、麓を歩いているうちに考えが変わりました。幕末の岩村藩の中心は、山頂ではなかったのです。

案内板の右側にあるのが岩村城の古絵図です。山の上に本丸、六段壁、長局埋門と続き、麓に藩主邸が描かれています。本丸まで八百五十メートル、徒歩二十分とありました。
殿様は、山を下りていました
ここが幕末を読むうえで大事な点です。戦国時代、城主は山頂に住んでいました。ところが慶長六年(一六〇一年)、城主の松平和泉守家乗が山麓に藩主邸を造営します。平和な時代になり、殿様が山頂に住む必要がなくなったためです。
以後、幕末までの二百七十年近く、政治の中心はこの山麓にありました。


石段を上がると門があります。ここが幕末の岩村藩の入口でした。

この門と、次に出てくる太鼓櫓は、平成二年(一九九〇年)に復元されたものです。
城下に時を知らせた櫓

太鼓櫓です。

説明板に、この建物の意味が書かれていました。

江戸の平和な時代になり、城主が山頂に住む必要がなくなった。山麓に藩主邸を造営し、ここは政治の中心としての機能を果たす一方、太鼓櫓を設けて城下に時を知らせ続けた——と。そして説明板は、櫓をこう位置づけています。
「櫓」は、庶民と殿様との深い絆を象徴する建物であり
時を知らせる音は、城下のすべての人に届きます。殿様のためだけの建物ではなかった、ということです。

いまも「岩村城女太鼓」として、その音が受け継がれています。

そして、この人の像がありました

佐藤一斎(さとう いっさい)。恥ずかしながら、私はこの人を知りませんでした。調べて驚きました。この人は幕末の学問の、いちばん上にいた人です。
昌平坂学問所の儒官でした
明和九年(一七七二年)、江戸浜町の岩村藩邸に生まれました。父は岩村藩の家老・佐藤信由。藩校・知新館の初代儒員だった佐藤勘平の曾孫にあたります。そして天保十二年(一八四一年)、七十歳で昌平黌の儒官——つまり幕府の学問所の総長格になりました。安政元年には八十三歳で、日米和親条約の外交文書の作成にも関わっています。
門下から出た人が、すごいのです
一斎に学んだ人の名前を並べます。
- 佐久間象山——天保四年に入門。その門下から吉田松陰が出ます
- 渡辺崋山——蛮社の獄で処罰された蘭学者
- 山田方谷——備中松山藩の財政を立て直した人
- 横井小楠——福井藩に招かれ、勝海舟が「二人の恐ろしい人物」の一人に挙げた人
- 安積艮斎——十七歳で江戸に出て一斎に学びました
門下生は三千人といわれます(この数字の一次的な裏付けは確認できませんでした)。
飯田城の石碑と、つながりました
右から二番目の安積艮斎の名前に、私は覚えがありました。先日飯田城を訪ねたとき、本丸跡の「観耕亭碑」の説明板に、この人の名があったのです。安政六年に建てられたその碑の文章を書いたのが、昌平黌教官の安積信(艮斎)でした。そして艮斎は、江戸の神田駿河台で私塾「見山楼」を開いています。そこに八歳で入門したのが小栗忠順でした。
つまり——岩村の佐藤一斎から、安積艮斎へ。そして小栗忠順へ。学問の系譜が、飯田と岩村という二つの城跡の石碑でつながっていたことになります。ちなみに昌平坂学問所を幕府直轄にした林述斎は、岩村藩主の三男です。幕府の官学のトップが、岩村藩主の子から岩村藩家老の子へと続いたわけです。二人は「生まれながらの主従」と記されています。
「三学戒」の碑
座像のそばに、二つの石碑が並んでいます。

まず建立の趣意を刻んだ碑。「幕末最高の思想家佐藤一斎は『志こそが人間のレベルを決める』といい、志を養うべきことを説き」と始まります。全国各地三百余名の賛同者の浄財によって建てられた、とありました。平成八年十月十九日。
ここで一つ気づいたことがあります。一斎が亡くなったのは安政六年九月二十四日——西暦に直すと一八五九年十月十九日です。建立日と同じ日付でした。(意図してその日を選んだという記録は確認できていませんので、偶然かもしれません。)

そしてこちらが「三学戒」の碑です。『言志晩録』の一節です。
少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り
壮にして学べば、則ち老いて衰えず
老いて学べば、則ち死して朽ちず
若いうちに学べば、働き盛りに成すことがある。働き盛りに学べば、老いても衰えない。老いて学べば、死んでも朽ちない。恵那市はこれを「三学のまち恵那宣言」として掲げ、生涯学習の理念にしています。
『言志四録』を、西郷隆盛が持ち歩いていました
一斎が四十二歳から八十二歳まで、四十年かけて書き継いだ随想録が『言志四録』です。
| 書名 | 執筆期 | 年齢 | 条数 |
|---|---|---|---|
| 言志録 | 文化10〜文政7 | 42〜53歳 | 246条 |
| 言志後録 | 文政11〜天保9 | 57〜67歳 | 255条 |
| 言志晩録 | 天保9〜嘉永2 | 67〜78歳 | 292条 |
| 言志耋録 | 嘉永4〜6 | 80〜82歳 | 340条 |
| 合計 | — | — | 1133条 |
この千百三十三条から、百一条を選んで手元に置いていたのが西郷隆盛です。これは伝説ではありません。西郷の手抄本を秋月種樹が借り出し、評語を加えて、明治二十一年に『南洲手抄言志録』として刊行しています。いまも岩波文庫の『西郷南洲遺訓』に収められていて、誰でも読めます。
(島流しの最中に書き抜いたと語られることが多いのですが、時期を裏づける一次史料は確認できませんでした。「島での愛読書だったと伝えられる」という程度に留めておきます。)
表は朱子学、裏は陽明学
一斎には「陽朱陰王」という評語があります。幕府の官学である朱子学の頂点にいながら、私的には陽明学を修めていた——という意味です。本人がそう名乗ったのではなく、周囲の学者たちが付けた呼び名でした。実際、文政四年に五十歳で、日本の陽明学の祖・中江藤樹の学舎である藤樹書院を訪ねています。
官学の総長でありながら、裏では異なる学問を修めていました。この二重性が、幕末の志士たちに響いたのかもしれません。

幕末の岩村藩は、佐幕から勤王へ転じました
最後の藩主は松平乗命(のりとし)。三万石。安政二年、わずか八歳で家督を継いでいます。そして幕末、この藩は難しい立場に置かれます。慶応三年十月に大政奉還があった、その翌月——十一月に、乗命は幕府の陸軍奉行に任命されました。八月には奏者番になったばかりです。徳川が政権を返上した直後に、その徳川の軍事の要職に就いたことになります。
乗政寺の会議で、藩論が変わりました
藩内は割れました。江戸家老の澤井市郎兵衛は「徳川家と存亡を共にする外情義他にみるべきなし」と佐幕を主張します。一方で勤王を説いた藩の文学者・原田文嶺は蟄居を命じられ、平尾鍒蔵も幽閉されました。決着したのは慶応三年十二月二十日。乗政寺で開かれた藩臣会議で、藩論が勤王に決まりました。澤井市郎兵衛父子は蟄居を命じられ、小田原で脱走しています。
そして官軍の道案内を務めます
慶応四年一月、東山道軍が京都を発ちました。二月十九日、岩村藩は官軍の先導——嚮導役を命じられます。その後は飯田藩や岩村田藩の兵とともに庚申塚に駐屯し、四月末には忍城の反乱分子の鎮圧に加わり、信州の防衛と江戸城の警備にあたりました。八月二十日、乗命は上洛して参内し、京都鞍馬口の警衛を命じられています。
陸軍奉行だった人が、その年のうちに官軍として京都を警衛する。幕末の小藩が、どういう舵の切り方をしたかがよく分かります。

ここが県庁だった時期があります
藩主邸跡の説明板に、こう書かれていました。
明治二年(1869年)版籍奉還により岩村県となり藩主が知事となると、ここを県庁とした
ただしここは、正確に整理しておきます。
- 明治二年六月——版籍奉還。乗命は岩村藩知事に。藩はまだ存続しており、ここは藩庁です
- 明治四年七月十四日——廃藩置県で岩村県が成立。ここが県庁になります
- 明治四年十一月二十日——府県統合で岐阜県に編入され、岩村県は消滅
県だったのは、わずか四か月余りでした。
そして説明板によれば、明治十四年十月三十日の夜、失火によって藩主邸は全焼しています。東西三十三間、南北三十六間。ほかに土蔵や番所など二十三の建物があったといいます。いま私たちが見ている門と櫓は、そのあと百年以上たってから復元されたものです。
登れなかった山の上には
結局この日は、麓を歩いただけで帰ることになりました。ですが調べていくうちに、登らなかったことが余計に悔しくなってきました。山頂近くに六段壁と呼ばれる石垣があります。これが面白いのです。
もともとは最上部の一段だけの高石垣でした。ところが崩落を防ぐため、前面に補強の石垣を積み足すことを繰り返しました。その結果——幕末には、六段に及ぶ石垣になっていたのです。下の段ほど新しい技法が使われていて、築かれた年代の差が石に現れているそうです。つまり写真で見るあの姿は、幕末になってようやく完成したものということになります。
本丸まで八百五十メートル、徒歩二十分。次は必ず登ります。資料館が開いている日を選んで。
訪ねるなら
- 岩村城跡——岐阜県恵那市岩村町城山。岐阜県指定史跡(昭和三十二年十二月十九日指定)。日本三大山城のひとつ。本丸まで登城口から約八百五十メートル、徒歩二十分
- 岩村藩主邸跡——復元された表御門・太鼓櫓、佐藤一斎の座像と三学戒の碑。藩校・知新館の正門も移築されています(岐阜県指定文化財)
- 岩村歴史資料館——恵那市岩村町98番地。佐藤一斎自讃画像軸(岐阜県指定重要文化財)や岩村城の絵図を所蔵。月曜休館、そして祝日の翌日も休館です(私はここで失敗しました)。四月〜十一月は九時〜十七時、十二月〜三月は九時半〜十六時。入館料三百円
- 岩村の城下町——国の重要伝統的建造物群保存地区(平成十年選定)。本通りと呼ばれる東西一・四キロの道の両側に、江戸時代からの町家が並びます。城下町には『言志四録』の言葉を刻んだ碑が十五か所、各家の軒下には約二百枚の木板が掲げられています
- 佐藤一斎學びのひろば——恵那市岩村町545-1。令和七年十月にオープンした新しい施設です
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の説明板「太鼓櫓のいわれ」「岩村藩主邸跡」(恵那市教育委員会)、「佐藤一斎翁顕彰碑建立趣意」の碑文
- 恵那市/岐阜県の公式サイト(岩村城跡、岩村歴史資料館、重要伝統的建造物群保存地区、佐藤一斎學びのひろば)
- 文化庁 重要伝統的建造物群保存地区一覧/国立国会図書館 レファレンス協同データベース
- 青空文庫『南洲手抄言志録』
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