【現地取材】国友鉄砲の里を歩く——鉄砲鍛冶が日本で初めて宇宙を見た村

滋賀県長浜市の国友町。姉川のほとりの、ごく静かな集落です。

ここは日本を代表する鉄砲鍛冶の里でした。種子島に鉄砲が伝わったすぐあと、幕府の命でこの村が国産化に取り組んだと『国友鉄砲記』は伝えます。信長も秀吉も家康も、この村の鉄砲を使いました。

ただ、幕末歴史ガイドとしてここで書きたいのは、鉄砲の話ではありません。この村の鉄砲鍛冶が、日本で最初に望遠鏡で宇宙を覗いたという話です。

国友鉄砲ミュージアム(国友鉄砲の里資料館)。集落のなかにある小さな博物館
国友鉄砲ミュージアム(国友鉄砲の里資料館)。集落のなかにある小さな博物館
目次

姉川のほとりの、鉄砲の村

集落に掲げられた「くにともマップ」。鍛冶の家々や記念碑が細かく記されている
集落に掲げられた「くにともマップ」。鍛冶の家々や記念碑が細かく記されている

集落に入ると、まず「くにともマップ」が目に入りました。狭い範囲に、国友一貫斎生家、国友九兵衛生家、国友源右衛門生家、辻宗範屋敷跡、鉄砲試射場跡、螺子発明の地——そんな地名がびっしり並んでいます。

実際に歩くと、ふつうの民家の前に標柱が立っているのです。「鍛冶師 國友与五郎屋敷」。塀の脇に、なんの飾りもなく。ここは観光地として整備された場所ではなく、いまも人が住んでいる集落です。

「鍛冶師 國友与五郎屋敷」の標柱。民家の門先に立っている
「鍛冶師 國友与五郎屋敷」の標柱。民家の門先に立っている
「国友駐在所跡」。鍛冶の里の標柱に混じって、こんなものも残る
「国友駐在所跡」。鍛冶の里の標柱に混じって、こんなものも残る

国友は江戸幕府の御用鉄砲鍛冶の村でした。年寄と呼ばれる四家が村をまとめ、幕府や諸藩の注文を受ける。最盛期には数十軒の鍛冶と、数百人の職人がいたといわれます。

ところが、太平の世は鉄砲を必要としません。関ヶ原から大坂の陣が終われば、注文は細り、村は静かになっていく。——鉄砲の里の江戸時代は、基本的にゆるやかな衰退の二百年でした。

その二百年の終わりごろに、この村から異様な人物が出ます。

★国友一貫斎——鉄砲鍛冶が、宇宙を見た

国友一貫斎(くにとも いっかんさい)。本名は国友藤兵衛重恭、御用鉄砲鍛冶の年寄家の九代目です。安永七年に生まれ、九歳で父に代わって藤兵衛を名乗り、十七歳で年寄脇の職を継ぎました。

彦根事件と、江戸の六年

転機は文化八年。一貫斎が彦根藩の御用掛になったことに、村の年寄四家が異議を唱えて紛争になります。彦根事件です。

訴訟は江戸に持ち込まれ、一貫斎は江戸に呼び出されました。決着がついたのは文政元年、一貫斎の勝訴。しかし裁判のために、足かけ六年を江戸で過ごすことになったのです。

この六年が、彼を変えました。国学者の平田篤胤をはじめ多方面の人と交わり、大名家に出入りして舶来の品を見る機会を得ます。——訴訟に巻き込まれなければ、彼は近江の村の鍛冶で終わっていたかもしれません。

この時期、彼は『大小御鉄炮張立製作』を著しています。近世を通じてほぼ唯一の、まとまった鉄砲技術書です。「見て覚えろ」の職人世界にいながら、この人は書いて残した。——それが後年、決定的な意味を持ちます。

空気に重さがあることに気づいた男

文政元年、医師の山田大円がオランダ渡りの風砲——空気銃を見せます。翌文政二年、一貫斎はそれを上回る実用的な気砲を自作しました。のちには二十連発の早打気砲まで完成させています。

驚くのはここからです。彼は圧縮空気の原理を突き詰めるうちに、空気そのものに重さがあることを、計測によって確かめたといわれます。日本で初めて「空気には重量がある」と気づいた人物とされる所以です。

火薬ではなく空気で弾を飛ばす銃を作りながら、その空気の重さを量ってしまう。職人の手つきで、物理をやっているのです。

天保四年、国産初の反射望遠鏡

文政三年、一貫斎はイギリス製のグレゴリー式反射望遠鏡を見る機会を得ます。

そして天保三年ごろから製作に着手し、天保四年、国産初の反射望遠鏡を完成させました。

その中身が尋常ではありません。口径六十ミリ、倍率六十倍。鏡は銅と錫の配合を追い込んだ青銅製で、錆びにくく反射率が高い。——この鏡の精度は、現代の市販品に匹敵する水準だったと評価されています。百九十年前の近江の鍛冶が、手作業でそこまで磨いた。

六台ほど作られ、四台が現存します。一号機は上田市立博物館(重要文化財)、二号機は長浜城歴史博物館、三号機は彦根城博物館、四号機は国友家。——同じ日にまわった彦根と長浜に、それぞれ一台ずつある勘定です。

太陽の黒点を、一年間

望遠鏡を作った彼は、それで空を見ました。

月のクレーターを詳細にスケッチし、木星の衛星を二つ確認しています。そして天保六年から翌年にかけて、太陽の黒点を連続観測しました。

——一年です。晴れた日に望遠鏡を向け、黒点の位置と形を写し取り、それを一年続けた。その観測図は、いま見てもきわめて正確で、日本の天文学史における第一級の資料とされています。

ここが好きなのですが、彼は誰かに命じられてやったわけではありません。幕府の天文方でもなければ、藩の学者でもない。近江の村の鉄砲鍛冶が、自分で鏡を磨き、自分で筒を組み、自分で毎日空を見たのです。

飢饉と、望遠鏡を売った話

そのあとの一節が、この人を語るのにいちばんいいと思います。

天保の大飢饉のとき、一貫斎は村人を救うために、望遠鏡を各地の大名に売りました。

自分の代表作を、飢えた村のために手放した。——それまで彼を目の敵にしていた村の年寄たちも、このあとは異議を唱えなくなったといいます。

彼はほかにも、油が自動で供給される灯明「玉燈」、携帯用の筆「御懐中筆」、鋼製の弩弓、光を反射させると像が浮かぶ魔鏡を作りました。さらに人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行器の設計図まで残しています。これは国内最古の飛行機設計図とされ、近年その詳細図面が新たに見つかりました。

一貫斎は、ペリーの十三年前に死んだ

正直に書いておきます。国友一貫斎は幕末の人ではありません。天保十一年に没しています。ペリーが久里浜に来る十三年前です。

それでも私がこの村を幕末の記事として書きたいのは、彼が独りでやったことを、その十三年後から日本が国家規模でやることになるからです。

舶来の器械を見て、原理を考え、自分で作ってみる。できたものを図と文章に残して、人に渡せる形にする。——これは韮山反射炉江川英龍がやったことであり、佐久間象山が、大村益次郎が、開陽丸を学びにオランダへ渡った者たちがやったことです。

そして国友の鉄砲のほうは、幕末に追い抜かれました。黒船が来て軍備の需要は一気に戻ってきたのに、求められたのはもう火縄銃ではなく、ミニエー銃でありエンフィールド銃でした。三百年かけて磨いた技術が、十年で「旧式銃」になってしまった。

幕末とは、そういう残酷さの時代でもあります。国友の村がゆっくり静かになっていったのは、腕が落ちたからではありません。世界のほうが、まったく違う速さで動いてしまったからです。

火縄銃を、構えてみる

「触れてみよう」のコーナーで火縄銃を構える。思っていたより、ずっと重い
「触れてみよう」のコーナーで火縄銃を構える。思っていたより、ずっと重い

国友鉄砲ミュージアムの展示室に、「触れてみよう」というコーナーがありました。本物の火縄銃を、実際に持って構えていいのです。

構えてみて、まず重さに驚きました。

資料で「三キロほど」と読むのと、実際に肩に載せるのとではまるで違います。銃身が長いぶん先が重く、腕を伸ばすと数秒でぷるぷるしてくる。これを構えたまま、火縄の火を保ち、狙いをつけ、号令を待つ。——長篠でも姉川でも、足軽たちはこれを何列も並んでやっていたわけです。

そして引き金を引いてから弾が出るまでに、わずかな間があります。火縄が火皿の口薬に落ち、それが銃身内の火薬に引火して、ようやく弾が飛ぶ。「引いた瞬間に出る」ものではないのです。この一瞬の遅れが命中率をどれだけ下げたか、構えてみるとよくわかりました。

展示ケースにずらりと並ぶ火縄銃。銃床の作り方や工具まで展示されている
展示ケースにずらりと並ぶ火縄銃。銃床の作り方や工具まで展示されている
大筒と車輪付きの砲。「御用」の木札が置かれている
大筒と車輪付きの砲。「御用」の木札が置かれている

展示は小さな博物館ながら、かなり本格的です。火縄銃が壁一面に並び、大筒や車輪のついた砲、そして銃床を削る工具まで置かれている。——「どう使ったか」だけでなく「どう作ったか」を見せているのが、さすが鍛冶の村の資料館だと思いました。

大根で、ねじを発明した男

司馬遼太郎『街道をゆく』の一節を刻んだ文学碑。国友の鉄砲鍛冶が題材になっている
司馬遼太郎『街道をゆく』の一節を刻んだ文学碑。国友の鉄砲鍛冶が題材になっている

集落のなかに、司馬遼太郎の文学碑が立っていました。『街道をゆく』の一節で、題は「国友鉄砲鍛冶」。

刻まれているのは、次郎助という若い鍛冶の話です。

鉄砲を作るには、銃身の尾に栓をするためのねじが要ります。ところが当時の日本に、ねじという概念がありませんでした。次郎助はそれを、刃の欠けた小刀で大根をくり抜き、螺旋の溝を彫り出して考えたというのです。できた形をもう一度大根にねじ入れてみて、雄ねじと雌ねじの理を悟った。それを老練な鍛冶たちに説明すると、一同、大いに褒めた——。

司馬遼太郎は碑文のなかで、この次郎助の名が『国友鉄砲記』に残っていることに触れ、その功が語り継がれてきたのだろう、と書いています。碑のある一帯は、マップにも「螺子発明の地」と記されていました。

——大根です。台所にあるもので、機械文明の基礎部品にたどり着いた。一貫斎が空気の重さを量ったのと、根は同じことをやっている。この村には、そういう手で考える伝統があるのだと思いました。

歩いてみて

正直なところ、国友町には「見どころ」らしい見どころはありません。城もなければ、大きな寺もない。あるのは民家と、標柱と、小さな資料館だけです。

それでも私は、この日まわったなかでここがいちばん印象に残りました。

午前中に彦根城を歩いて、国宝天守を見て、ひこにゃんを見て。そのあとに、この何もない集落へ来た。片方は権力の象徴で、片方は技術の現場です。

井伊直弼は三十五万石の大老として国を開き、そして殺されました。国友一貫斎は一介の鍛冶として鏡を磨き、太陽の黒点を一年間記録して、飢饉のときにはその望遠鏡を売って村を食わせました。——同じ近江で、ほとんど同じ時代の話です。(直弼が生まれた文化十二年、一貫斎は三十七歳。江戸で訴訟を戦っていたころです)

幕末という時代を、私はずっと「誰がどちらに付いたか」で追いかけてきました。佐幕か尊皇か、勝ったか負けたか。けれどこの村に立つと、その勝ち負けとは別の水路で、日本の近代が準備されていたことがわかります。

火縄銃を構えた腕のだるさと、大根でねじを彫った次郎助と、村を救うために望遠鏡を手放した一貫斎。この三つが同じ集落の話だというのが、いまだに信じられません。

アクセスと地図

国友鉄砲ミュージアム(国友鉄砲の里資料館)/滋賀県長浜市国友町。長浜インターチェンジから車ですぐ、無料の駐車場があります。公共交通で行くならJR長浜駅からバスかタクシーになります。

入館は有料(一般三百円・小中学生百五十円)、開館は午前九時から午後五時、月曜休館(年末年始も休み)。——このお値段でこの展示は、かなりお得だと思います。火縄銃を実際に構えられるのは、そう多くありません。

集落は歩いて三十分ほどで一周できます。一貫斎の生家、顕彰碑、「星を見つめる少年」像、鉄砲試射場跡、司馬遼太郎と吉川英治の文学碑。マップの前で写真を撮っておくと、あとで迷いません(私はそうしました)。長浜城や姉川古戦場も近く、彦根城と組み合わせて一日で回れます

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「鍛冶師 國友与五郎屋敷」
  • 上田市立博物館
  • 城歴史博物館

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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