登り口に「くま注意」の掲示が出ていました。そして山を登りきったあたりには「スズメバチ注意!!」の黄色い札。小谷城跡は史跡として整備されてはいますが、要するにいまも山です。
幸い、途中までは林道で車を上げられます。それでどうにか主要な曲輪までたどり着きました。歩いて登り切る自信はありませんでした。

この眺めを見ると、なぜここに城が築かれたのかがすぐ分かります。北国街道が足元を通り、琵琶湖の水運が目の前にある。人と物の流れを、まるごと見下ろせる場所なのです。
この山は、幕末と三本の線でつながっている
幕末の歴史を扱うサイトで戦国の山城を取り上げるのですから、最初に断っておきます。小谷城は幕末には城ではありません。天正元年(1573年)に落ちて、それきりです。
それでもこの山を歩いて書くのは、ここから幕末へ届く線が三本あるからです。
- 徳川将軍家の血。この城で生まれた三姉妹の末娘・江が徳川秀忠に嫁ぎ、三代将軍・家光を産みました。十五代慶喜まで続く血の、出発点がここにあります
- 長浜という町。落城後、城も城下町も寺も、秀吉によって今浜(現在の長浜)へ運ばれました。その長浜で秀吉が出した年貢免除は、形を変えながら幕末まで続いています
- 京極家。浅井氏がこの地で自立した相手である京極家は、幕末には讃岐丸亀藩五万一千石として残り、鳥羽・伏見のあと官軍に加わりました
三本とも記事の後半で詳しく書きます。まずは、山を歩くところから。
大永四年、京極氏から自立した城

現地の案内板にはこうあります。小谷城址は戦国乱世の大永四年(1524年)、浅井亮政が京極氏より自立して築城してから、二代久政を経て三代長政が織田信長に抗して敗れる天正元年(1573年)までの五十年——。
五十年です。三代で終わりました。戦国の大名家としては短い部類でしょう。それでも小谷の名がこれほど知られているのは、この城で生まれた娘たちのせいです。
案内板は続けて、この城は信長の妹・お市の方が住したところであり、その子である淀殿や徳川秀忠夫人らの誕生の地でもある、と書いています。
尾根の上に、曲輪が一列に並ぶ

案内板によれば、城は典型的な山城で、下から尾根の上に出丸・金吾丸・番所・お茶屋・御馬屋・大広間・本丸・中丸・京極丸・小丸・山王丸と続きます。山王丸の頂上は標高三九五メートル。ほかに刀洗池、桜馬場、黒金門、大野木屋敷、赤尾屋敷、そして谷を隔てて大嶽の城跡があります。
曲輪の名前に「京極丸」があるのが面白いところです。浅井家がそこから自立した相手の名前が、城の中枢近くに残っています。そして落城のとき、秀吉が最初に攻め込んだのがこの京極丸でした。ここを押さえられたことで、小丸にいた二代・久政と、本丸にいた三代・長政が分断されます。

御馬屋跡には馬洗池があります。説明板は、この池が湧水でないとすれば雨水を貯えたものか、といったことを慎重に書いていました。四百五十年前の水回りの話です。分からないことは分からないと書く姿勢が、かえって信用できます。
首据石——家臣の首をさらした石

黒金門跡の手前に、平らな大きな石があります。首据石といいます。
説明板によれば、天文二年(1533年)一月、初代・亮政は六角氏との合議の際に、家臣の今井秀信が敵方に内通していたことを知り、その首をここにさらしたと伝えられる——とあります。
城を築いてから十年も経っていません。自立したばかりの家が、内側を固めるために何をしたか。石はただの石ですが、名前がついてしまうと、そこで起きたことを四百九十年ぶん背負い続けることになります。
赤尾屋敷——長政が自刃した場所

本丸から少し下ったところに、赤尾屋敷跡があります。重臣・赤尾清綱の屋敷があった場所で、天正元年(1573年)の落城のとき、浅井長政はここで自刃したと伝えられています。
本丸ではありません。家臣の屋敷です。京極丸を奪われて父と分断され、本丸も維持できなくなったあと、長政はここまで下りてきて果てました。二十九歳でした。
落ち葉の積もった斜面に、説明板と石柱が立っているだけです。何もないと言えば何もありません。ただ、ここだけは足を止めて長く立っていました。

山を歩いていると、ところどころに石垣が残っています。大きくはありません。信長や秀吉の城のような、見せるための石垣ではないのです。それでも、四百五十年前に人がここで石を積んだという事実が、そのまま地面に残っています。
浅井氏及家臣供養塔

桜馬場のあたりに、浅井氏及家臣供養塔があります。落城のとき、この山で死んだ人々のためのものです。
戦国の城跡はどこも似たようなものですが、小谷の場合、供養される側の家が三代で絶えています。子孫が絶えた家の供養塔が、四百五十年後もきちんと掃かれて花を供えられている——それは地元の人が続けてきたということでしょう。
この山から、徳川将軍家へ

浅井長政とお市の方のあいだに生まれた三人の娘——茶々、初、江。三姉妹はこの山で生まれ、幼い日々をここで過ごしました。落城のとき、いちばん上の茶々でまだ数え五、六歳です。
その後の三人の行方は、あまりにも有名です。茶々は豊臣秀吉の側室となって秀頼を産み、大坂城で死にました。初は京極高次に嫁ぎます。江は徳川秀忠の正室となり、三代将軍・家光の母となりました。
つまり江戸幕府の将軍家の血は、この山で生まれた娘から続いています。十五代慶喜まで、二百六十年。幕末の江戸城にいた将軍たちの祖先の一人が、湖北のこの山で育ったのです。
三姉妹の「その後」を刻んだ像が、越前にあります。北ノ庄城址・柴田神社の三姉妹像です。お市が柴田勝家とともに死んだ場所で、三人は再び母を失いました。あの像の前半生が、この山にあったことになります。
独立した家は滅び、独立された家は幕末まで残った
もうひとつ、幕末まで届く線があります。京極家です。
浅井亮政が自立した相手——近江守護の京極氏は、そのまま消えたわけではありません。初が嫁いだ京極高次の家は大名として存続し、幕末には讃岐丸亀藩五万一千石として残っています。最後の藩主・京極朗徹は、鳥羽・伏見のあと、隣の高松藩を追討する官軍に加わりました。
自立した浅井は三代で滅び、自立された京極は幕末まで大名で在り続けた。戦国の勝ち負けと、家が続くかどうかは、別の話なのです。
城下町ごと、長浜へ運ばれていった
案内板の最後の一段が、この城のいちばん大事なところを書いています。
落城後、木下藤吉郎秀吉によって城楼・城下町・寺院などが今浜(現・長浜)に移され、今は空しく松籟のみが昔の悲劇を物語っている——。
小谷城を落とした功で、秀吉は浅井の旧領を与えられました。そして山を降り、琵琶湖のほとりの今浜に新しい城と町を作り、自分の主君の名から一字をもらって「長浜」と改めます。建物も、町も、寺も、この山から運ばれていったといいます。
私は長浜城も歩いています。あの町で秀吉が出した年貢免除は、形を変えながら幕末まで続きました。彦根城も佐和山城跡も安土城跡も、近江を歩いていると同じことに何度も出会います。城は壊されて、次の城になる。石垣の石は運ばれ、町は移され、人も移っていきます。
小谷城は、その連鎖のいちばん最初にあります。ここが壊されたから長浜ができ、長浜があったから秀吉が育ち——と考えていくと、この静かな山が急に落ち着かない場所に見えてきます。
幕末には、もちろんここに城はありません。三百年近く、ただの山でした。それでも将軍家の血と、長浜という町と、丸亀の京極家は、この山から出て幕末まで届いています。
【小谷城跡・場所・アクセス・地図】
小谷城跡は滋賀県長浜市湖北町伊部。JR北陸本線・河毛(かわけ)駅から徒歩でおよそ三十分で登り口に着きます。番所跡の手前までは林道が通じていて、シーズン中はシャトルバスも出ます。麓には小谷城戦国歴史資料館があります。
山道は舗装されていません。落ち葉の季節は特に滑りやすいので注意が要ります。登り口にはクマ、山上にはスズメバチの注意書きが出ているので、装備と時間には余裕を持ったほうがいいと思います。国指定史跡であり、日本五大山城のひとつに数えられています。
あわせて読みたい(現地取材)
この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「国指定史跡 小谷城址」
- 小谷城戦国歴史資料館
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

