長浜藩の歩み
長浜は今浜と呼ばれていたが「羽柴秀吉」が「織田信長」から浅井氏の旧領を与えられた際に、信長の一字を取って長浜と改めました。秀吉の後は「柴田勝豊」や「山内一豊」「石田三成」らが城主を治めました。

関ヶ原の戦い後の慶長十一年(1606年)、豊臣秀頼の動静を監視するために「内藤信成」が駿河国府中から移封されて長浜藩が立藩されました。
この転封にあたり長浜城の修築費として江戸幕府より白銀5千枚を与えられました。元和元年(1615年)、信成の子「内藤信正」の時代に大坂に近い摂津国高槻へ転封となり長浜藩は廃藩となりました。
※長浜城本丸跡
秀吉が初めて城主となった城
長浜は、羽柴秀吉が初めて一国一城の主となった地です。天正元年(1573)に浅井長政が滅んだあと、秀吉は浅井氏の旧領を信長から与えられ、小谷城に代わる新しい城を琵琶湖のほとりの今浜に築きました。地名を信長の一字をとって「長浜」と改めたのもこのときです。秀吉はここで城下町を整え、町の人々の年貢を免除して商工業を盛んにしました。長浜で子どもが生まれたことを祝って町衆に贈った金をもとに、のちに曳山(ひきやま)がつくられたという話が伝わり、いまも長浜曳山まつりとして受け継がれています。
秀吉のあとの長浜城には、柴田勝豊、そして山内一豊が入りました。一豊の妻・千代が嫁入りの持参金で夫に名馬を買わせたという「内助の功」の話も、長浜時代のこととして語られることがあります(一豊のことは尾張黒田藩も参照)。
長浜を出た内藤家の幕末—越後村上藩
長浜藩を開いた内藤信成は、家康の異母弟とも伝えられる譜代の重臣で、大坂の豊臣秀頼をにらむ役目を負って長浜に置かれました。その子・信正は大坂の陣のあと摂津高槻に移り、家はのちに越後の村上五万石に落ち着いて、明治を迎えます。幕末の村上藩は、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟に加わりましたが、藩内は恭順派と抗戦派に割れ、新政府軍が迫ると抗戦派の藩士たちは城に火を放って庄内へ逃れました。豊臣家への備えとして長浜に置かれた家は、二百五十年後、越後で徳川の時代の終わりの混乱を迎えたのです。
同じころの日本—方広寺の鐘銘事件
大坂の陣の前夜 長浜藩の内藤家は、大坂の豊臣家への備えとして長浜に置かれた家でした。慶長十九年(1614)、豊臣秀頼が再建した京都の方広寺の大仏殿の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字が、家康の名を引き裂き豊臣の繁栄を願うものだとして問題にされます。方広寺鐘銘事件です。
大坂の陣 この事件をきっかけに、徳川家と豊臣家の対立は決定的となり、同じ年の冬に大坂冬の陣、翌年の夏に大坂夏の陣が起きて、豊臣家は滅びました。豊臣家への備えという役目を終えた長浜藩は、まもなく廃藩となっています。
長浜藩をもっと詳しく
先祖の戦国武将—内藤信成
長浜藩を開いた内藤信成(1544年〜1612年)は、松平広忠の子、つまり徳川家康の異母弟とされる人物です。『藩翰譜』では、母は家康の家臣・内藤清長の娘で、清長が信成を養子として育てたと記されています。一方『寛永諸家系図伝』には内藤家長の養子とする説も見られ、出自には諸説があります。
信成は永禄元年(1558年)に初陣を果たし、永禄五年(1562年)ごろの三河一向一揆で手柄を立てて六百石を与えられたと伝わります。元亀三年(1572年)の一言坂の戦い・三方ヶ原の戦いでは本多忠勝とともに退却する味方の殿(しんがり)を務め、天正三年(1575年)の長篠の戦いでは先手の侍大将として働きました。
天正十八年(1590年)の小田原征伐のあと、家康の関東入りにともなって伊豆韮山で一万石を領し、関ヶ原の戦いでは駿河の三枚橋城(沼津)を守りました。慶長六年(1601年)には駿河府中(駿府)四万石の城主となり、慶長十一年(1606年)に長浜へ移っています。信成は慶長十七年(1612年)、長浜城で亡くなりました。
長浜を出たあとの内藤家
二代目の内藤信正(1568年〜1626年)は、大坂夏の陣の慶長二十年(元和元年、1615年)には尼崎城の守りにつき、その年に摂津高槻へ移りました。元和三年(1617年)には伏見城代となって一万石を加えられ五万石となり、元和五年(1619年)からは大坂城代を務めて、寛永三年(1626年)に大坂城で亡くなっています。豊臣家を見張るために長浜に置かれた家が、豊臣家の滅んだあとの大坂城を預かったことになります。
その後、信正の子・信照が寛永四年(1627年)に陸奥棚倉(いまの福島県棚倉町)へ移り、さらに内藤弌信(かずのぶ)の代の宝永二年(1705年)に駿河田中(いまの静岡県藤枝市)、享保五年(1720年)に越後村上(いまの新潟県村上市)へ移りました。以後、村上藩五万石の藩主として廃藩置県まで続いています。
本家と分家・親戚の家
内藤氏は三河以来の徳川家の譜代家臣で、江戸時代には数家に分かれました。信成の家(越後村上藩)のほか、信濃高遠藩、陸奥湯長谷藩、三河挙母藩、日向延岡藩、信濃岩村田藩などの内藤家が譜代大名として続いています。ただし、それぞれが信成とどの系統でつながるかは家ごとに異なり、すべてが信成の子孫というわけではありません。
領地のようす
長浜藩の藩庁は近江国坂田郡の長浜城に置かれました。領地は琵琶湖の北東岸、いまの滋賀県長浜市の一帯にあたります。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、四万石のこの藩はおよそ九百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。なお長浜藩は慶安二年より前に廃藩となっているため、あくまで石高の大きさをつかむための参考です。
参考:Wikipedia「長浜藩」「内藤信成」「内藤信正」「内藤信照」「内藤弌信」「内藤氏」「村上藩」
場所・アクセス・地図
長浜藩をもっと深く—幕末には、この藩は存在しない
はじめにお断りしておきます。当サイトは幕末を扱っているが、長浜藩は幕末には存在しません。この藩が置かれていたのは慶長十一年(1606年)から元和元年(1615年)までの、わずか十年ほどです。
豊臣を見張るための藩だった
関ヶ原ののち、内藤信成が近江長浜に四万石で入って立藩しました。次いで内藤信正が継ぎます。二代で終わりです。
置かれた理由ははっきりしています。大坂の豊臣家への抑えです。だから元和元年、大坂の陣で豊臣家が滅びると、この藩の存在意義もなくなりました。信正は摂津高槻へ移され、長浜藩は廃藩となります。
長浜城も同時に廃城となり、その資材の大半は彦根城の築城に転用されました。豊臣秀吉が最初に城持ちとなった城が、解体されて井伊家の城になっています。
幕末の長浜は「彦根藩領」
では幕末の長浜はどうだったか。彦根藩の領地です。
長浜港は松原・米原とともに「彦根藩の三湊」に数えられ、湖北の年貢米を積み出す港として機能していました。北国街道の宿場町であり、大通寺の門前町であり、そして彦根藩の縮緬機業の中心地でもありました。
つまり幕末の長浜で起きたことを知りたいなら、井伊直弼の彦根藩のページを読むのが正しい。桜田門外の変で藩主を失ったあと、彦根藩がどう動いたか—長浜はその領内です。
なお江戸期の長浜周辺には幕府領や旗本領も混在していた可能性があり、「長浜町の全域が一貫して彦根藩領だった」と断定できる資料は確認できていません。
「長浜県」なら、明治にある
ややこしいことに、幕末のすぐあとに「長浜県」は実在します。
明治四年(1871年)十一月、廃藩置県後の統合で彦根・山上・宮川・朝日山の各県をまとめて長浜県が置かれました。ただし翌明治五年には犬上県と改称され、まもなく滋賀県に併合されています。
藩としての長浜は江戸のはじめに十年、県としての長浜は明治のはじめに一年足らず。この地名が行政単位だった時期は、あわせても十年ちょっとしかありません。
それでも長浜が幕末史に触れるところ
藩がなくても、土地には歴史があります。彦根藩領の湖北は、井伊直弼が大老として安政の大獄を進め、桜田門外で斃れたときも、その年貢と縮緬で藩財政を支えていました。
幕末の長浜を語るということは、彦根藩の懐を語るということです。
あわせて読みたい(現地取材)
長浜の現地を歩いた記録
長浜藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。


