幕末の黒羽藩には、小藩には不釣り合いな人物がいました。十五代藩主大関増裕。一万八千石の外様大名でありながら、幕府の陸軍奉行と海軍奉行を務め、最後は若年寄まで昇った人です。
栃木県大田原市の黒羽城跡に立つ解説板は、その増裕をこう評しています。幕末に当たり肥後守増裕は出仕して陸海の重職を奉じ、勝海舟と並びて偉名を天下に轟かせた、と。
そして戊辰戦争では、黒羽藩はいち早く新政府軍につきました。兵士三百二十九人、軍夫六百八十二人を動員し、大小あわせて二十度あまりの戦闘をくぐり抜けています。白河、棚倉、二本松、三斗小屋、そして会津若松。この一万八千石の藩は、奥羽越列藩同盟軍と正面から戦った藩でした。
その城跡は、県北で最大の規模を誇る山城です。空堀も土塁もよく残っています。ただ、そこで何が起きたのかを教えてくれるものが、あまりにも少ないのです。

幕府の陸軍奉行・海軍奉行になった小藩の藩主
大関増裕は天保八年(一八三七)の生まれです。遠江横須賀藩の系統から入った養子で、文久元年(一八六一)に十四代の大関増徳の跡を継ぎました。
そこからの昇進が異例でした。文久二年に講武所奉行、同じ年の十一月に陸軍奉行。いったん病で退いたのち、慶応元年(一八六五)には新設された海軍奉行に就任します。慶応三年正月には若年寄。幕府の軍事を陸と海の両方で預かった人物です。
藩に戻ってからも改革の手を緩めませんでした。文久三年に初めて国入りした際、家臣に全権の委任を認めさせたうえで西洋式の砲術を導入します。兵装の洋式化を進め、藩兵にスペンサー銃を持たせたと伝えられます。連発が利く後装式の銃で、当時の日本ではきわめて先進的な装備でした。
一万八千石の藩が、なぜそこまでできたのか。増裕が幕府の軍政の中枢にいたからこそ、最新の兵器と知識に手が届いたのだと考えると腑に落ちます。
慶応三年十二月九日、藩主が死んだ日
ところが増裕は、幕府が倒れる直前に死にます。慶応三年十二月九日、狩猟中に猟銃が暴発しての事故死とされました。享年三十一。
ただし、この死には事故死説・自殺説・他殺説の三説があります。事件性を疑わせる状況があったと指摘する研究もあり、決着はついていません。地元の町誌も、増裕の真意を推し量るには史料が乏しいと慎重な書き方をしています。
ここで注目したいのは日付です。慶応三年十二月九日は、京都で王政復古の大号令が発せられたその日にあたります。幕府の若年寄が死んだ日と、幕府そのものが終わりを告げられた日が、同じ一日でした。偶然かどうかは分かりません。ただ、この符合が自殺説を呼ぶ土壌になっているのは確かでしょう。
城跡の解説板は、増裕がひそかに開国勤皇の志を抱いていたと記し、大正七年に朝廷が生前の功を賞して贈位したことを伝えています。幕臣として最高位まで昇った人が、死後五十年を経て新政府の側から顕彰された——そのねじれもまた、幕末という時代のかたちです。
増裕には子がすべて早世していたため、その死はしばらく伏せられました。跡を継いだのが大関増勤で、家督相続は慶応四年三月です。つまり黒羽藩は、戊辰戦争がはじまる時点で当主を失ったばかりだったことになります。
「いち早く」の中身——三月十一日の出兵願書
黒羽藩がいち早く新政府についた、とよく言われます。その「いち早く」を日付で追うと、動きの速さがはっきり見えてきます。
慶応三年十二月二十八日以降、藩は恭順の立場を固めます。慶応四年二月二十九日には五月女三左衛門を京都へ派遣。そして三月十一日、奥州への出兵願書を大総督府に提出しました。まだ江戸城の無血開城すら済んでいない段階で、自分から東北へ出ると申し出たわけです。四月には奥羽鎮撫使に拝謁し、四月十八日には藩として官軍支持を決議しています。
この決断は結果的に城を守りました。隣の大田原藩は新政府側についたために城下を攻められ、三の丸を焼かれています。黒羽城が戦場にならなかったのは、開戦のはるか前に態度を決め、前線へ兵を出す側に回っていたからでした。
白河から会津へ——二十度あまりの接戦
閏四月二十日、会津兵と新選組が白河小峰城を占領します。黒羽藩は翌二十一日、重臣の村上一学が二小隊を率いて領境の寒井村へ出陣しました。
五月二十一日、藩主増勤が白河口への出兵を命じます。二十二日午後に出発、二十三日の夜遅くに旗宿へ到着して本陣を設けました。二十四日には白坂へ転進します。白河口の戦いを記録した資料にも、五月二十四日に黒羽藩の歩兵三小隊と大砲一門が白坂に着いたと残っています。
五月二十六日の朝七時、白坂で東天王山の方角から発砲を受け、大垣藩とともに応戦しました。正午には白坂の宿が焼け落ちています。この日、黒羽藩は討死二名、負傷五名を出しました。
六月二十四日には三小隊と大砲二門が棚倉へ向かいます。この日、板垣退助の率いる部隊が棚倉城を即日で落としました。七月に入ると三春、そして二本松。七月二十九日の二本松城攻撃は、わずか二時間で落城しています。


三斗小屋——那須の峠を越えた戦い
八月に入ると、黒羽藩は自分たちの領地の背後にある山へ向かいます。三斗小屋です。
三斗小屋は那須連山のなか、標高およそ千百メートルにある宿場でした。会津藩が元禄八年(一六九五)に開いた会津中街道の要衝で、国境の大峠を越えれば会津です。幕末には三十四軒ほどの家がありました。
八月二十二日に白河を発った黒羽藩の三小隊と大砲二門は、翌二十三日に三斗小屋で激戦となり、一番隊長の益子四郎が戦死します。二十二歳でした。二十四日には大峠に一小隊を置いて会津領へ侵入。二十六日には中峠、駒返での戦闘を報告しています。
三斗小屋の宿は、この戦いで焼かれました。会津藩が駐屯していたため、黒羽藩と館林藩の攻撃を受けて十四棟が失われています。山中の小さな宿場が国境の戦場になったわけです。明治十三年には戦死者の墓が建てられました。
九月に入ると会津本土へ進みます。二日に大内峠で敵を破り、三日に関山を攻略。五日には若松城下の河原町口まで迫りました。この日が黒羽藩にとって最大の損害を出した日で、七名が戦死しています。そして九月十四日の若松城攻めで、一番隊長の高橋亘理が戦死しました。三十五歳です。
会津が降伏したあと、黒羽藩に与えられた任務は三斗小屋の警備でした。九月十九日のことです。自分たちが焼いた峠の宿を、こんどは守る側として預かることになります。
最後の戦闘は領内で起きました。九月二十七日、佐良土村。水戸を脱した市川三左衛門の率いる諸生党六百余名と交戦し、これを撃ち破ります。新江新吾(四十六歳)、小室未蔵(二十五歳)が戦死し、佐川久治郎(二十歳)も重傷ののち亡くなりました。水戸藩の内訌が、那須の川べりまで流れてきていたわけです。
十月十三日、黒羽藩の全軍は城中に収容され、凱旋しました。
戦功に対して新政府が与えた賞典禄は、永世一万五千石。本高一万八千石の藩に、本高に迫る額です。同じ一万五千石を受けたのは徳川家や前田家、浅野家といった大藩でした。この数字ひとつで、黒羽藩の働きがどう評価されたかが分かります。

黒羽神社——四十七名を祀る、関東で三つの官祭招魂社
城下の黒羽田町に黒羽神社があります。通称を黒羽招魂社といいます。境内の掲示には、こう記されています。
黒羽神社は、明治2年12月(西暦1869年)に慶応戊辰の役で黒羽藩士等47名の戦死者の霊を祀るため、黒羽藩主大関増勤公らにより黒羽田町に官祭黒羽招魂社が創建されました。/明治8年4月(西暦1875年)には関東では館林、宇都宮、黒羽の3つの神社が、太政官達に依り「官祭招魂社」となりました。
関東で三社だけ。館林、宇都宮、そして黒羽です。人口も石高も比べものにならない土地が、宇都宮と並んで国の祭祀を受ける招魂社を持った——それが戊辰戦争における黒羽藩の位置でした。
その後、日清戦争と日露戦争の戦死者が合祀されて百五十柱となり、日中戦争と太平洋戦争を経て、現在までに千九百八十三柱が祀られています。昭和十四年に黒羽護国神社、昭和二十二年に現在の黒羽神社と名を改めました。
掲示によれば、例大祭は毎年十月十三日。これは黒羽藩の全軍が凱旋した日と同じ日付です。祭りの日付が、そのまま戊辰の記憶になっています。


四十七名は、どこで死んだのか
境内を歩いていて物足りなく感じたのは、ここです。四十七名を祀ると書いてあるけれども、その人たちがどの戦に出て、どこで死んだのかが、どこにも書かれていません。碑はあります。名前も刻まれています。けれども、戦の中身がないのです。
そこで、地元の町誌に載る戦死者の記録から、戦場と日付を拾い直してみました。
- 五月二十六日/白坂駅(白河口)——藪智次郎(十七歳)、小室新吉(二十八歳)、後藤勇助(五十三歳)
- 七月二十五日/奥州二本松——佐藤兼治(二十七歳)
- 八月二十三日/野州小谷村(三斗小屋方面)——一番隊長 益子四郎(二十二歳)
- 八月二十六日/奥州中峠——鈴木茂右衛門(二十二歳)、井上鉄次郎(十八歳)、秋元常七(十八歳)
- 八月二十六日/奥州駒返——益子理右衛門(四十二歳)
- 九月三日/奥州関山——佐藤熊太郎(二十二歳)、渡辺啓次郎(二十一歳)
- 九月五日/会津若松城下 河原町口ほか——鮎瀬文蔵(十九歳)、井上金太郎(二十一歳)、平山文之丞(二十歳)、高野忠兵衛(五十歳)ほか軍夫多数
- 九月十四日/会津若松城——一番隊長 高橋亘理(三十五歳)、渡辺治三郎(二十一歳)
- 九月二十七日/野州佐良土村——新江新吾(四十六歳)、小室未蔵(二十五歳)、佐川久治郎(二十歳)
十七歳、十八歳が並びます。五十三歳もいます。彼らが越えた峠と、渡った川の名前が、こうして並べてみるとよく分かります。
なお人数は資料によって食い違います。現地の掲示は四十七名としますが、町誌が兵部省へ届け出た数は士分二十五名と夫卒十二名の合わせて三十七名、市史の論功行賞の章では三十五名です。掲示の「藩士等」という言い方には、正規の藩士以外の軍夫や人足が含まれているのかもしれません。ここは断定を避けておきます。
県北最大の山城——黒羽城跡を歩く
黒羽城を築いたのは大関高増で、天正四年(一五七六)に余瀬の白旗城からここへ移りました。城跡の解説板は、前田川と石井沢村の街道を四神になぞらえ、その地相を選んで城を築いたと記しています。
その解説板でいちばん面白かったのが、慶長五年のくだりです。会津の上杉が家康に叛いたので、家康は備えとして家臣を黒羽城へ遣し、当主の資増に命じて城を修築させ、あわせて鉄砲を与えたというのです。関ヶ原の年、黒羽城は会津に対する徳川方の最前線でした。
この構図は、そのまま二百七十年後に反復されます。慶応四年、黒羽藩はふたたび会津に向かう最前線に立ちました。城の立地がそのまま藩の運命を決めていたことになります。

城の規模は南北およそ千五百メートル、東西二百五十メートル、面積は三十七ヘクタール余り。栃木県北で最大規模の山城です。八溝山地の西の縁にあり、那珂川と松葉川に挟まれた天然の要害でした。複数の郭を空堀と土塁で仕切る構造で、堀の一部には水も入っていたと伝わります。
市の指定史跡になっているのは本丸跡・二の丸跡・会所跡・三の丸跡の市有地部分です。歩いてみると、堀切の深さがとにかく印象に残ります。木橋が架かっている箇所でも、橋の下をのぞくと足がすくむほどの落差があります。


城跡には、天保八年(一八三七)に描かれた黒羽城鳥瞰図が伝わっています。藩主大関増儀の命で絵師の小泉斐が描いたもので、城郭だけでなく藩士の屋敷、城下の町並み、大雄寺、那珂川の黒羽河岸、藩の米倉まで写しています。幕末のわずか三十年前の黒羽が、そのまま一枚に残っているわけです。市の指定文化財で、いまは芭蕉の館が所蔵しています。
三の丸に建つ「芭蕉の館」
三の丸の跡地に黒羽芭蕉の館が建っています。松尾芭蕉は元禄二年(一六八九)の奥の細道の旅で、黒羽に十四日間滞在しました。旅の全行程を通じてもっとも長い逗留です。
芭蕉が身を寄せたのは黒羽藩の城代家老、浄法寺高勝(俳号は桃雪)の屋敷で、これが三の丸にありました。つまり館の建つ場所そのものが、芭蕉のいた場所ということになります。
もっとも、館の展示は俳諧だけではありません。大関家に伝わった領知朱印状や蔵書、そして先ほどの黒羽城鳥瞰図が並びます。藩校の作新館から伝わった蔵書もここに移されました。芭蕉の名で人を呼び、中身では藩の歴史をきちんと見せている施設です。


ちなみに藩校については、嘉永七年(一八五四)に十三代の大関増昭が開いた学問所が起こりで、作新館という名になったのは明治二年以降とする資料があります。増裕が創設したとする説明も見かけますが、学校側の資料とは食い違うため、増裕は既存の学問所を軍制改革とあわせて拡充した、と考えるのが実際に近そうです。宇都宮の作新学院の校名も、この藩校に由来します。
現地を歩いて
遺構はよく残っています。空堀も土塁も、県北最大という看板に偽りはありません。それだけに、説明が足りないと感じました。戦国期でもいいし、幕末でもいい。ここで何があったのかを教えてくれる看板が、もう少しほしいところです。
とくに招魂社です。四十七名を祀ると書いてあっても、その人たちがなぜ犠牲になったのか、どういう戦に参加したのかが分からないままでは、手を合わせようにも手がかりがありません。幕末を追いかけている人間からすると、そこがいちばん知りたいところなのです。
奥羽越列藩同盟軍と戦った藩なのですから、せめて戦闘図が一枚ほしい。白坂、棚倉、二本松、三斗小屋、関山、若松、そして佐良土。この七つの地名を線でつなぐだけでも、黒羽藩がどれだけの距離を歩いて戦ったのかが一目で伝わるはずです。
資料そのものは残っています。大正七年に編まれた黒羽藩の戊辰戦史の資料集があり、国立国会図書館のデジタルコレクションで読めます。芭蕉の館は幕末維新期の黒羽藩をテーマにした企画展の図録も出しています。材料は揃っているのですから、あとは現地に一枚掲げるだけなのですが。
それでも、堀の底に立って空を見上げたときの感覚は、看板では代えられません。この深さを掘った人たちがいて、その子孫が二百七十年後にスペンサー銃を担いで那須の峠を越えていった。そこまで想像が届いたとき、この城跡はぐっと近くなります。

黒羽城跡へのアクセス・地図
黒羽城跡は栃木県大田原市前田の黒羽城址公園として自由に歩けます。三の丸跡に黒羽芭蕉の館があり、あじさいの名所としても知られます。黒羽神社(招魂社)は城下の黒羽田町にあります。
▼ 黒羽藩の歴代藩主や石高など、藩の詳しいデータはこちら
黒羽藩/大関家1万8千石
▼ 会津兵に城下を攻められた隣の藩はこちら
大田原藩/大田原家1万1千石
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の解説板「黒羽城の由来」(大田原市)
- 現地の掲示「黒羽神社(通称・黒羽招魂社)の歴史について」(本文に一部を引用)
- 『黒羽町誌』「二 戊辰の戦いと黒羽藩」、『大田原市史』前編
掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。
