彦根藩/井伊家23万石:井伊直憲 桜田門外の変以降徳川幕府から離れ新政府に従った彦根藩

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彦根藩の歩み

徳川譜代大名の筆頭でもある彦根藩の幕末藩主となったのが「井伊直弼」です。嘉永三年(1850年)、兄「井伊直亮」の死去により藩主となりました。13代将軍「徳川家定」の将軍継嗣問題で南紀派(紀州藩)に属し、「一橋慶喜」ら一橋派と対立し紀州出身の「徳川家茂」の第14代将軍就任に貢献します。

藩主の井伊直弼は安政五年(1858年)に大老となり、朝廷の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印しました。これを責めた一橋派の大名たちを隠居させ、さらに「安政の大獄」と呼ばれる厳しい弾圧を行います。強い反発を招いた直弼は、万延元年(1860年)、桜田門外で水戸藩と薩摩藩の浪士に討たれました。同じ年に次男の井伊直憲が藩主を継ぎましたが、文久二年(1862年)には直弼の政治の責めを問われ、十万石を削られています。

彦根藩/場所・アクセス・地図 井伊家23万石:井伊直憲 桜田門外の変以降徳川幕府から離れ新政府に従った彦根藩【幕末維新写真館】

元治元年(1864年)、「禁門の変」の戦功により旧領のうち三万石を回復します。また「天誅組の変」「天狗党の乱」「長州征討」にも参戦し幕府の軍事活動に協力しました。しかし長州征伐では旧式の軍制や装備などが災いし大敗しました。将軍家茂が死去したあとを継いだ「徳川慶喜」は彦根藩を快くは思っておらず多くの戦功を軽視しました。桜田門外の変以降の報われない扱いを意識したことが「大政奉還」以降、彦根藩が薩長中心の新政府支持へ繋がったともいわれています。

慶応三年(1867年)の大政奉還ののち、彦根藩は譜代大名の筆頭でありながら、新政府の側に立つことを選びました。翌年の鳥羽伏見の戦いでは、家老の岡本半介が旧幕府軍とともに大坂城にいた一方で、主力は東寺に近い四塚や大津で薩長の軍を後ろから支えています。大垣城へ兵を出す際には先鋒を務めました。戊辰戦争では新政府軍として北関東の小山や奥羽の本宮などを転戦し、下総の流山では近藤勇の捕縛にもかかわりました。大老を出した藩が、わずか八年後には幕府を討つ側にいたことになります。

これらの戦功により明治維新後は賞典禄二万石を朝廷から拝領しています。明治四年(1871年)、廃藩置県により彦根県となり、長浜県・犬上県を経て滋賀県に編入されました。

※彦根駅前に建つ井伊直政像

彦根城は、明治十一年に八百円で売られるところでした

いまや国宝の天守を持ち、世界文化遺産の国内推薦にも内定した彦根城ですが、明治のはじめには壊されかけていました。

滋賀県の県政史料室が公開している公文書に、明治十一年(1878年)九月七日の「彦根城売却に付、入札告知」があります。天守が八百円で売却される予定だったという記録です。県の解説は、廃藩置県後の彦根城が「旧体制の『遺物』として破壊される運命が目前にせまっていました」と書いています。

これを止めたのが明治十一年の明治天皇行幸でした。県の記述によれば「供奉していた参議 大隈重信の熱意により、天守や櫓の保存が決定した」とされています。天皇の命令というより、行幸に随行していた大隈の進言だったという整理です。県自身も「とされています」と伝聞の形で書いているので、断定はできません。

そのあとの所管も転々としました。陸軍省の所管から皇室附属地「彦根御料所」となり、明治二十七年(1894年)五月十八日に井伊直憲へ下賜されます。彦根市が井伊家から城とその一帯の寄付を受けるのは、昭和十九年(1944年)のことです。

そして令和八年、世界遺産の国内推薦に内定しました

彦根城が世界遺産の暫定一覧表に載ったのは平成四年(1992年)です。そこから三十四年、五回目の挑戦で動きました。

令和八年(2026年)九月三日、文化庁の文化審議会世界文化遺産部会が、彦根城を世界文化遺産として推薦することを内定する答申を出しました。彦根市の発表によれば、この先は令和八年九月三十日までに推薦書の暫定版をユネスコへ提出し、令和九年(2027年)に閣議了解を経て二月一日までに正式版を提出、イコモスの審査を受けて、令和十年(2028年)の世界遺産委員会で決定という日程です。

推薦での価値づけは「天守」ではありません。江戸時代の「大名統治システム」を示す遺構として、大名の御殿跡・重臣屋敷跡・堀・石垣・天守・櫓が一体として最も良好に保存されている点が挙げられています。八百円で売り払われかけた城が、城下の屋敷跡ごと評価される日が来たということです。

石高が「二十三万石」「二十万石」「二十五万石」に分かれる理由

当ページは表題に二十三万石を掲げていますが、この数字については出典ごとに書き方が違うので、整理しておきます。

井伊直政が佐和山へ入ったのは慶長六年(1601年)、近江十五万石と上野三万石の計十八万石です。二代直孝が元和元年に五万石、元和三年に五万石、寛永十年(1633年)に五万石と加増され、表高三十万石になります。これに幕府の城付米(預かり地)五万石を加えて、彦根城博物館の表現では「三十五万石の格式を有する譜代大名」でした。内訳は近江に二十八万石、武蔵世田谷と下野佐野に二万石です。

そこから減封されます。時期は桜田門外の変の直後ではありません。彦根城博物館は「文久二年(1862年)には、桜田事変の処罰として十万石が召し上げられ、二十万石となっています」と明記しています。事件から二年後です。滋賀県も「彦根藩は、幕府から京都守護の任と藩領十万石を取り上げられ、未曾有の藩難に陥」ったと書いています。

つまり、表高三十万石から十万石を引いた「二十万石」が彦根城博物館の数え方、格式三十五万石から十万石を引いた「二十五万石」が世界大百科事典の数え方です。当ページ本文にある元治元年の三万石回復を加えた「二十三万石」という数字は、自治体や博物館の資料では確認できません。三つの数字はそれぞれ基準が違う、というのが実情です。

大老を出す家でした

井伊家について押さえておきたいのは、直弼が突然大老になったのではないという点です。

世界大百科事典は、井伊氏を「溜間詰で、土井、酒井、堀田の諸氏とともに大老に任ぜられる家柄」とし、直澄・直興・直幸・直亮・直弼が大老として幕政の枢機に参与したと記しています。在任は直澄が寛文八年から延宝四年、直興が元禄十年から元禄十三年と正徳元年から正徳四年、直幸が天明四年から天明七年、直亮が天保六年から天保十二年、そして直弼が安政五年から安政七年です。

大老という役職そのものが特殊でした。常置の職ではなく、必要に応じて老中の上に置かれる定員一名の最高職で、日常的な幕政への関与は免除され、ごく重要な政策決定のみに関与し、官位も老中より高い。酒井・堀田・井伊家などが独占し、十万石以上の譜代大名から選ばれました。譜代筆頭という家格は、こういう形で制度に組み込まれていたわけです。

十七歳から三十二歳まで、埋木舎にいました

直弼が藩主になったのは嘉永三年(1850年)、兄の直亮の死去によってです。それまでの長い不遇が知られています。

直弼は父直中の十四男でした。兄の直亮は三男で、両者は異母兄弟です。直亮の後継とされていた直中の十一男直元が弘化三年に早世したため、直弼が直亮の養嗣子として入ることになりました。血筋では兄弟、家督では養父子という二重の関係です。

埋木舎(うもれぎのや)に入ったのは天保二年(1831年)十月、十七歳のとき。出たのは弘化三年(1846年)一月、三十二歳。約十五年間の部屋住み生活でした。この間に石州流の茶を学んで一派を立て、『茶湯一会集』『閑夜茶話』を著し、号を宗観としています。「一期一会」を茶の湯の根本として説いたのは『茶湯一会集』の冒頭です。

なお代数については注意が必要です。彦根城博物館・彦根市・世田谷区はいずれも直弼を十三代、直憲を十四代と数えています(直政を初代、直孝を二代とし、直継=直勝を彦根藩主に数えない数え方)。日本人名大辞典は直弼を十五代、直憲を十六代とし、直興・直定の再任を別代に数える資料では直憲を十七代とします。

直弼の没日も一言添えておきます。桜田門外の変は安政七年三月三日(1860年3月24日)で、享年四十六。万延への改元は同年三月十八日ですから、「万延元年三月三日」という表記は改元を遡って当てたものです。

粛清と、二十六人の戦死者

直弼が死んだあと、彦根藩の内側で何が起きたか。滋賀県の説明は端的です。直弼暗殺後に「勤王派」が台頭し、長野・宇津木を粛清する大きな政変が起こり、文久二年(1862年)七月に長野主膳と宇津木六之丞が斬首の刑に処された。直弼が国学の師として重んじた長野主膳が、主君の死から二年で斬られています。

藩論を新政府へ転換させたのは、滋賀県の記述では岡本半介・谷鉄臣・外村省吾らです。そして滋賀県公文書館の展示は、慶応四年一月に鳥羽伏見の戦いが始まると彦根藩は大津で京都防衛の任に就き、譜代大名の中で最も早く新政府への帰順を表明したとしています。展示のタイトル自体が「幕末を駆け抜けた彦根藩士 ― 官軍となった井伊の『赤備え』 ―」です。

戊辰戦争での彦根藩の足跡は、滋賀県によれば桑名藩の征討に加わり、江戸開城後は下野国で旧幕臣の大鳥圭介隊と数度にわたって交戦し、その後白河へ向かって会津攻撃にも参加したというものです。甲州勝沼の戦いに彦根藩が参加したという記述は確認できず、箱館までの出兵も確認できません。

そして戦死者の数と内訳が残っています。戊辰戦争の戦没者は二十六名。うち半数近くの十五名は、下野国での大鳥圭介軍との戦闘での死者です。年齢は十六歳から五十二歳まで幅があり、平均は二十七歳でした。赤備えの藩が官軍になった、という語り方の下に、この二十六人がいます。

藩校は稽古館です

彦根藩の藩校は稽古館。寛政十一年(1799年)、国産方の設置と同じころに開校しました。稽古館と弘道館は別の学校ではなく、稽古館 → 弘道館 → 文武館と改称した同一校です。

城と、城下に残っているもの

彦根城の文化財は数が多いので、指定日を並べておきます。

彦根城天守、附櫓及び多聞櫓は昭和二十七年(1952年)三月二十九日に国宝(その前年、昭和二十六年九月二十二日に重要文化財)。天守・附櫓・多聞櫓の三つで一棟として指定されています。天守は隅木の墨書などから少なくとも慶長十一年(1606年)には完成していたとされます。

重要文化財は太鼓門及び続櫓、西の丸三重櫓及び続櫓、二の丸佐和口多聞櫓、天秤櫓がいずれも昭和二十六年(1951年)九月二十二日の同日指定。馬屋だけが遅れて昭和三十八年(1963年)七月一日です。

城跡そのものは昭和二十六年六月九日に史跡、昭和三十一年(1956年)七月十九日に特別史跡(追加指定 平成二十八年三月一日)。玄宮楽々園は玄宮園と楽々園を一括した一件で、昭和二十六年六月九日に名勝。城跡の史跡指定と同日です。

築城は慶長八年に彦根山への築城が決定し、慶長九年(1604年)からの一期工事で慶長十二年までに主要部が完成、二期工事は元和元年(1615年)以降。石田三成の佐和山城は関ヶ原後に廃城となり、彦根観光協会は「石垣や建物の多くが彦根城へと運ばれました」としています。三成の城を解体した材料で、譜代筆頭の城が建てられたことになります。

彦根城博物館は昭和六十二年(1987年)、特別史跡のなかに「表御殿」を復元して開館しました。井伊家伝来の美術工芸品や古文書を収蔵し、朱漆塗の「井伊の赤備え」の具足、刀剣・武具、能面・能装束、茶道具を展示しています。赤備えの成立は天正十年(1582年)で、武田の旧臣「七十四名と伝えます」が直政に配属されたことに始まります。

城の外では旧井伊神社本殿・相の間及び拝殿が弘化二年(1845年)の建立で、彦根市指定文化財、平成二十五年(2013年)二月二十八日指定。祭神は井伊家の始祖井伊共保です。春と秋に特別公開されます。

大洞弁財天(長寿院)は四代井伊直興が元禄八年(1695年)の発願で建てたもので、彦根城の鬼門の鎮守として佐和山西麓に置かれました。弁才天堂附棟札は昭和四十八年(1973年)六月二日に重要文化財、伽藍は昭和四十一年(1966年)七月四日に滋賀県指定。直興が元禄元年に日光東照宮修復の奉行を命じられていたため、権現造など日光の影響が見られます。二天門の門扉が額縁になって、彦根城天守を正面に望む位置です。

その後

井伊直憲は嘉永元年(1848年)生まれ。万延元年四月二十八日、十三歳で家督を継ぎ、彦根藩最後の藩主となりました。戊辰のときは二十歳です。明治二年七月八日に彦根藩知事、明治四年七月十四日の廃藩で知事を免ぜられます。その後は欧米に留学し、明治十七年(1884年)に伯爵、明治二十三年に貴族院議員となりました。

県の変遷は、日本大百科全書が「藩域は、彦根、長浜、犬上県を経て、滋賀県に編入」と整理しています。彦根市の記述では明治五年二月二十七日に長浜県を犬上県と改称し、同年六月に滋賀県となったとあります。

彦根藩をもっと詳しく

先祖の戦国武将・井伊直政

井伊家は、もとは遠江(今の静岡県西部)の国人で、一時は家が傾いていました。その家を立て直したのが井伊直政です。直政は徳川家康に重く用いられ、「徳川四天王」の一人に数えられます。関ヶ原の戦いの手柄で十二万石から十八万石に加増され、石田三成の居城だった佐和山城に入りました。これが彦根藩の始まり(佐和山藩)です。

直政は琵琶湖のほとりの磯山に新しい城を築く計画を立てましたが、工事が始まる前の慶長七年(1602年)、戦で受けた傷がもとで亡くなりました。城は次の代に、場所を彦根山に移して築かれることになります。

家を継いだ兄と、継がなかった兄

直政の跡を継いだのは嫡男の直継でした。直継は彦根山に新しい城を築き、慶長十一年(1606年)に入城しています。ところが元和元年(1615年)、直継は病弱を理由に大坂の陣に出なかったとされ、名を直勝と改め、三万石を分けられて上野の安中藩へ移りました。代わって弟の直孝が藩主となります。このため直継は藩主の代数から外され、直孝が二代目とされました。本文で触れた代数の数え方の違いは、ここから生まれています。

本家と分家

直勝の家はその後も大名として続き、遠江の掛川藩主となりました。しかし藩主の直朝が心の病を理由に掛川を取り上げられ、本家(掃部頭家)から養子に入った直矩が、領地を減らされたうえで家名の存続を許されます。宝永二年(1705年)、直矩は越後の与板に二万石で移りました。これが与板藩です。与板藩最後の藩主・直安は、大老・井伊直弼の四男で、本家から養子に入った人でした。与板藩は廃藩置県で与板県となり、柏崎県を経て明治六年(1873年)に新潟県に入りました。藩主家は明治十七年(1884年)に子爵となっています。

このほか、正徳四年(1714年)には四代直興の十四男・直定が一万石を分けられて「彦根新田藩」が立てられました。ただ直定が兄・直惟の養子となって本家を継ぐことになったため、享保十九年(1734年)に新田藩はなくなっています。

領地のようす

彦根藩の主な領地は、犬上郡をはじめとする近江国の北部でした。これに加えて幕府領から城付米として五万俵(五万石相当)を預かり、三十五万石の格式を持つ藩となりました。譜代大名の中で石高はもっとも高く、一度も国替え(転封)がなかった藩でもあります。明治維新のあとには、蒲生郡・神崎郡・愛知郡・坂田郡・浅井郡・伊香郡にあった旧幕府領の村々も預かっています。

変わったところでは、明治のはじめに北海道の千島国択捉郡と日高国沙流郡の一部も、彦根藩が管轄しています。

この石高で動員できた兵の目安

江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、表高三十万石のこの藩はおよそ七千五十人が目安です(文久二年の減封後の二十万石で数えると、およそ四千七百人)。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。

参考:Wikipedia「彦根藩」「与板藩」

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彦根の現地を歩いた記録

彦根藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。

残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。

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