武田信玄の娘婿でありながら、主家を裏切って生き延びた大名がいる。木曽義昌。信濃木曽谷を治めた木曽家の当主でありながら、天正十年(一五八二)に武田勝頼を見限り、その果てにたどり着いたのは、木曽谷から遠く離れた下総国網戸——いまの千葉県旭市だった。
この同じ旭市には、もう一人、よそから流れ着いて名を残した男がいる。幕末の侠客・飯岡助五郎。義昌の死から二百年余りのちに相模国から漁師として流れ着き、網元としてこの地一帯を束ねた人物だ。時代も身分もまったく異なる二人が、同じ土地に「よそ者」として根を下ろした。その接点をたどりに、木曽家の菩提寺・東漸寺を訪ねた。

東漸寺——木曽家の菩提寺
東漸寺は千葉県旭市網戸にある真言宗智山派の寺院で、殿玉山西徳院と号し、本尊は大日如来。文禄二年(一五九三)、下総網戸の領主となった木曽義昌が開基となり、木曽谷から招いた僧・悦堂を開山として創建された。桜の名所としても知られ、四月には多くの参拝者を集めるという。
木曽義昌とはどんな武将か——信玄の娘婿から、織田方への転身
義昌は信濃木曽谷を治めた木曽家の当主で、天文十九年(一五五〇)生まれの武田信玄の三女・真理姫を正室に迎え、武田家に従属していた。しかし信玄の死後、高天神城の戦いでの敗北や新府城造営の重税への不満から、天正十年(一五八二)、遠山友忠を介して織田信長方に転じる。実弟を人質に差し出しての離反だった。
この裏切りの代償は大きかった。人質としていた我が子は武田方に処刑され、正室の真理姫は悲しみのあまり自ら義昌と離別し、木曽の山中に隠遁したと伝えられる。夫婦は、すでにこの時から離れ離れになっていた。
三万石から一万石へ——木曽を追われ、下総網戸へ
信長の死後、義昌は豊臣秀吉に恭順し、小牧・長久手の戦いでは徳川方を撃退する働きも見せた。ところが天正十八年(一五九〇)、徳川家康の関東移封にともなう国替えで、義昌は先祖代々の地・木曽谷を離れることになる。与えられたのは下総国阿知戸(網戸)一万石。信濃の山国から一転、太平洋に面した下総の海辺である。秀吉が木曽の山林資源に目をつけて没収したとする説もある。
網戸で迎えた最期と、椿海への水葬
義昌は網戸で城下の整備や灌漑に取り組んだと伝わるが、その治世は長く続かなかった。文禄四年(一五九五)三月十七日、病のため五十六歳で没する。遺体は網戸城の北西にあった椿海(のちに干拓されて陸地となった内海)に水葬された。水葬の地には「木曽左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」と刻まれた石塔が立てられ、明治四十四年(一九一一)に改修されて現存する。この一帯はいま「木曽義昌公史跡公園」として整備されている。
供養塔に刻まれた、離れて逝った夫婦
東漸寺の境内には、義昌と真理姫の供養塔がある。中央に五輪塔、両脇に宝篋印塔、傍らに遺徳碑という構成で、毎年三月十七日の命日には供養が営まれているという。

ただし、ここで注意しておきたいことがある。真理姫はこの網戸で義昌と暮らしたわけではない。前述のとおり二人は天正十年の悲劇を境に離別しており、真理姫は木曽黒沢に隠棲したまま、正保四年(一六四七)、九十八歳でその地に没した。武田信玄の子女の中でもっとも長命だったとされる。木曽町三岳黒沢には彼女の墓と伝わる石塔が、福島の大通寺には供養塔がそれぞれ残っている。つまり真理姫は、木曽と網戸の両方で弔われていることになる。東漸寺の観音堂には、義昌の妻の守り本尊だったという十一面観音が祀られているとも伝わり、この寺が義昌個人だけでなく、離れて生きた夫婦をともに記憶しようとしてきた場所だったことがうかがえる。

東漸寺から飯岡へ——もう一人の「流れ着いた者」
義昌の死から二百年以上のち、網戸と同じ旭市の一角に、まったく異なる出自の男が流れ着く。飯岡助五郎、本名・石渡助五郎。寛政四年(一七九二)、相模国の生まれとされる。
助五郎は若くして力士を志したが、師匠の急死で廃業し、九十九里浜での漁の仕事を経て下総国飯岡に住みついた。玉崎明神の祭礼で奉納相撲に名を上げ、この地の網元として台頭する。文政五年(一八二二)ごろには飯岡一帯を束ねる立場となり、台風で被害を受けた漁村の復興や護岸工事にも力を入れたという。のちに岡っ引(地域の治安を預かる役目)にも任じられている。
天保水滸伝——侠客としての助五郎、悪役としての助五郎
助五郎の名を全国に知らしめたのは、講釈・浪曲『天保水滸伝』である。当初は良好だった、十五歳年下の笹川繁蔵との関係は、助五郎が岡っ引になったことでこじれていく。天保十五年(一八四四)、助五郎は繁蔵の捕縛に動くが失敗、弘化四年(一八四七)には配下の手により繁蔵が闇討ちされ、笹川一家は事実上瓦解した。
この経緯が講釈師の手にかかると、助五郎は繁蔵を陥れる「悪役の親分」として語られるようになる。実際には地域の漁業とインフラに功績を残した人物だったが、物語の評判はいまも先行しがちだ。安政六年(一八五九)、六十七歳で病没。「畳の上で死んだ侠客」と評された。墓所は旭市飯岡の光台寺にある。
木曽義昌と飯岡助五郎——二百五十年を隔てた二人の共通点
一人は信濃の名門大名、一人は相模から流れてきた力士くずれ。身分も生きた時代もまったく違う二人だが、どちらもこの下総の海辺の町に、よそから流れ着いて根を下ろした人物である。義昌は戦国の主家争いに敗れた末の一万石で、助五郎は縁もゆかりもない土地での網元稼業から、この地に自分の居場所を切り開いた。なお、網戸と飯岡は現在は同じ旭市だが、平成十七年(二〇〇五)の合併までは別々の町だったことは付け加えておきたい。
東漸寺を訪ねて
東漸寺は住宅と田畑に囲まれた、静かな集落の中にある。桜の名所として知られるだけに、参道や境内には桜の木が多い。本堂の奥に進むと、義昌と真理姫の供養塔が静かに並んでいる。戦国の敗者と、幕末の「悪役」——奇しくも同じ町に集まった二人の記憶を、この寺は今も守り続けている。
東漸寺・木曽義昌公史跡公園へのアクセス・地図
東漸寺は千葉県旭市網戸にある。木曽義昌公史跡公園(水葬跡石塔)は東漸寺から北西方向、脇道の奥にあり、駐車場はない。飯岡助五郎の墓がある光台寺は、同じ旭市内の飯岡地区にあり、JR旭駅から銚子方面行きバスで「玉崎神社前」下車、徒歩約十分。
この記事の情報源について
本記事は、現地で撮影した写真に加え、以下の資料を参照して執筆しました。裏の取れない事柄はその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はご指摘ください。
- 東漸寺公式サイト(義昌公の生涯ほか)
- Wikipedia「木曾義昌」「真竜院」「東漸寺 (旭市)」「飯岡助五郎」
- 旭市公式ホームページ「飯岡助五郎の墓」
- 城旅・史跡紹介サイト「下総・網戸城(阿知戸城)の解説」
- 「武田家の史跡探訪」東漸寺のページ
- 歴史探索ブログ「東漸寺と木曽義昌公 水葬跡石塔」
