【現地取材】佐和山城跡を歩く——壊した井伊家が、三枚の絵図を幕末まで伝えた山

「佐和山城で幕末の記事は書けますか」と聞かれました。

書けます。ただし、城の話としてではありません。この城を壊した側が、壊した城をどう記録したかという話としてです。

ヒントは、山の上の説明板そのものにありました。「彦根藩主井伊家に伝来した三枚の佐和山城絵図」——この一行が、佐和山と幕末をつないでいます。

登山口の大看板。「佐和山城跡」の五文字が、これでもかと大きい
登山口の大看板。「佐和山城跡」の五文字が、これでもかと大きい
目次

三成に過ぎたるもの

佐和山城。石田三成の城です。

近江の東、中山道と北国街道が交わる要衝に立つ、標高二百三十メートルほどの山。ここを押さえれば、東国から京へ向かう道を扼せる。戦国の近江でもっとも大事な山の一つでした。

「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」——家臣の島左近と、この城。三成にはもったいない、という川柳です。裏を返せば、それだけこの城が立派だったということでもあります。

そして慶長五年、関ヶ原。三成は敗れ、佐和山城は落ちました。

井伊直政が入り、そして山を捨てた

「佐和山史跡略図」。本丸跡を中心に、太鼓丸・千貫井・大手門跡などが描かれている
「佐和山史跡略図」。本丸跡を中心に、太鼓丸・千貫井・大手門跡などが描かれている

戦後、この城に入ったのが井伊直政でした。徳川四天王の一人として関ヶ原で功をあげ、十八万石を与えられて佐和山城主となります。

ところが直政は、この城に住み続ける気がありませんでした。城を彦根山へ移そうとしたのです。

理由はいろいろ語られます。三成の城に入りたくなかった、山城では城下町を広げられない、琵琶湖の水運を使いたかった——。いずれにせよ直政は慶長七年に四十一歳で病没し、子らが遺志を継いで彦根城を築きました。

そのとき、佐和山城は徹底的に壊されます。建物は解体され、石垣の石まで運び出されて、彦根城の材料になった。略図にある大手門は、彦根城下の宗安寺の表門に移されたと伝えられています。——いま「赤門」と呼ばれている、あの門です。

つまり佐和山城は消えたのではなく、彦根城と城下町に分解して移されたのです。私はその前日、北ノ庄城で「柴田勝家の石垣は福井城築城の際に取り除かれた」という説明板を読んだばかりでした。——近江でも越前でも、同じことが起きている。

★ここが幕末 ― 井伊家に伝わった、三枚の絵図

「西の丸跡」の説明板。井伊家に伝来した絵図の話が書かれている
「西の丸跡」の説明板。井伊家に伝来した絵図の話が書かれている
「西の丸(塩櫓)」の説明板。瓦片の散乱や土坑のことまで記されている
「西の丸(塩櫓)」の説明板。瓦片の散乱や土坑のことまで記されている

西の丸跡の説明板に、こうありました。

「彦根藩主井伊家に伝来した三枚の佐和山城絵図を見ると、西の丸には三段の曲輪が描かれ、いずれも上段に『焔硝櫓』、下段に『塩櫓』と記されている」

——立ち止まりました。

彦根藩は、自分たちが壊した城の絵図を、幕末まで大切に持っていたのです。

考えてみると、これは当たり前ではありません。佐和山は敵将・石田三成の城です。徳川の世で、三成は長く「秀吉に取り入って天下を乱した奸臣」として語られました。その城の詳細な絵図を、譜代筆頭の井伊家が三枚も伝来させている。

しかも説明板は、こう続けます。「ただ、現在は下段を『焔硝櫓』と通称しており、名称の混乱が見られる」

つまり——いま現地で使われている呼び名のほうが間違っていて、井伊家の絵図が正しい。四百年前に城を壊した家の記録が、いまになって現地の誤りを正す資料になっている。

私はこれが、佐和山という山のいちばん幕末らしいところだと思いました。この山は、彦根藩にとって「敵の城跡」ではなく「自分たちの前史」だった。だから絵図を残し、麓に寺を置き、山を抱え込んだ。——彦根藩の二百六十年は、佐和山を背負ったままの二百六十年だったのです。

麓に置かれた、二つの寺

その「抱え込み方」が、麓の寺によく出ています。

龍潭寺(りょうたんじ)。慶長五年、井伊直政が佐和山城主になったときに創建された寺で、遠江・井伊谷の龍潭寺を分けたものです。井伊家は、はるばる遠州から自分の家の寺を近江へ持ってきた。方丈には佐和山城の陣鐘が吊られていると伝わります。

そしてその南三百メートルほどに清凉寺。こちらは彦根藩主井伊家の菩提寺で、歴代藩主の墓石が並んでいます。——そして面白いのが、この寺の建つ場所です。石田三成の家老・島左近の屋敷跡と伝えられ、左近の屋敷門が山門に使われたという話まで残っている。

「三成に過ぎたるもの」と謳われた男の屋敷の上に、その三成を滅ぼした側の菩提寺が建っている。幕末の彦根藩主たちは、この寺で先祖を拝んでいたわけです。

——ということは、桜田門外で討たれた井伊直弼にとっても、この山は生涯ずっと目の前にあった風景だったということです。

彼が十五年を過ごした埋木舎からも、彦根城の天守からも、佐和山は北東に大きく見えます。天下を二つに割って敗れた男の山を、毎日見ながら育った。——のちに大老として国を開き、反対派を根こそぎ処断し、そして雪の朝に首を取られる男が、です。

登ってみる

途中の標識。「東山ハイキングコース」と手書きで、いかにも地元の山である
途中の標識。「東山ハイキングコース」と手書きで、いかにも地元の山である

登り口は龍潭寺の脇です。そこからは完全に山道で、標識も手書きの板が針金で留めてある程度。「東山ハイキングコース」「火の用心」——観光地の顔をまったくしていません。

そして、これは書いておかなければいけません。佐和山城跡は民有地です。説明板にもはっきり書かれていました。国の史跡でも公園でもない。だからこそ、四百年間ほとんど手を入れられずに残ったとも言えます。

登っていくと、たしかに曲輪の削平地が次々に現れます。西の丸には三段の曲輪、その北面と西面には土塁が回り、斜面に向かって竪土塁が落ちている。説明板によれば、この曲輪には瓦片がたくさん散乱していて、北西端には用途不明の大きな土坑があるそうです。

——瓦が落ちているということは、ここに瓦葺きの建物があったということです。壊されて、運び去られて、それでも瓦のかけらだけが土に残っている。

本丸跡に立つ「佐和山城跡」の石碑。あるのはこれだけである
本丸跡に立つ「佐和山城跡」の石碑。あるのはこれだけである
本丸から見下ろす彦根の市街。中央を東海道新幹線と国道が貫いている
本丸から見下ろす彦根の市街。中央を東海道新幹線と国道が貫いている

本丸に着いても、あるのは石碑が一本だけです。天守も石垣も、根こそぎ持っていかれている。

ただ、眺めがすばらしい。

眼下に彦根の市街が広がり、新幹線と国道が山裾を貫いていく。その向こうに琵琶湖。——三成がここに城を置いた理由が、説明を読むより先に体でわかります。この山からは、東国から京へ向かう道が全部見えるのです。

「武士の夢」

彦根八景「武士(もののふ)の夢 佐和山」。標識の向こうに琵琶湖が光る
彦根八景「武士(もののふ)の夢 佐和山」。標識の向こうに琵琶湖が光る

本丸の一角に、彦根八景の標識が立っていました。そこに書かれていた四文字が、この山にはあまりに似合っていました。

武士(もののふ)の夢

——夢、です。

「夏草や兵どもが夢の跡」と同じ言い方ですが、ここでは何重にも効きます。

三成の夢は関ヶ原で終わりました。その城を手に入れた井伊直政の夢も、二年で終わっています。——彦根に新しい城を築こうと決めながら、完成を見ずに四十一歳で死んだ。

そして二百六十年後、井伊家の当主が大老として国を開き、桜田門外で首を取られる。その息子は父の政治を理由に十五万石を削られ、最後は徳川を見限って官軍として会津へ攻め上がりました。

この山の上で標識を眺めていると、誰の夢もそれほど長くは続かなかったことがわかります。——それでも山は残り、彦根の街は下に広がり、新幹線が走っている。

歩いてみて

正直に書くと、佐和山城跡には「見るもの」はほとんどありません。石碑と、説明板と、削平地と、瓦のかけら。それだけです。

それでも私は、この山に登ってよかったと思っています。理由は、この山が「壊された側」として残っているからです。

これまで会津筑波山を歩いて、負けた側の史跡を何度も見てきました。佐和山も同じです。ただ一つ違うのは、この山を壊した当の相手が、絵図を三枚も残し、麓に寺を建てて、山を守ってきたということ。

——壊した側が記録者になる。これは太平山の天狗党鎮魂碑を追討した側の人間が建てたのと、たぶん同じ心の動きです。

幕末の記事を書きながら、私はこの「壊した側が残す」という現象に何度もぶつかってきました。日本という国は、そうやって歴史を持ち越してきたのだと思います。

アクセスと地図

佐和山城跡/滋賀県彦根市古沢町ほか。JR彦根駅から徒歩十五分ほどで龍潭寺に着き、その脇が登山口です。彦根城からも歩けます。

登山は片道二十〜三十分ほど。ただし完全な山道です。足元は落ち葉と土で、雨のあとはよく滑ります。スニーカー以上の靴で。看板にハチ・マダニへの注意も出ていました。夏場は避けたほうが無難です。

城跡は民有地ですので、マナーは厳守で。火気厳禁、ゴミの持ち帰り、そして登山道から外れないこと。麓の龍潭寺(方丈と庭園は有料拝観)と清凉寺にも寄ってください。山の上より、麓の寺のほうが幕末に近い——それがこの城跡の面白さです。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「西の丸跡」
  • 現地の案内板「西の丸(塩櫓)」

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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