幕末の那須には、一万石に満たないのに大名と同じように参勤交代をしていた家がありました。栃木県那須町の芦野氏です。石高は三千二十六石。身分は旗本ですが、江戸に常住せず領地に住み、隔年で江戸へ参勤しました。こういう家を交代寄合といいます。
おもしろいのは、すぐ南の喜連川藩がちょうど正反対だったことです。あちらは五千石で十万石の格式を与えられ、参勤交代を免除されていました。万石未満なのに参勤する家と、万石未満なのに大名待遇で参勤しない家。那須という土地には、江戸の身分制度の例外が両方そろっていたことになります。
その芦野氏が拠った丘が、通称御殿山、芦野氏陣屋跡です。奈良川を見下ろす比高六十メートルほどの丘で、空堀と土塁がよく残っています。

交代寄合とは何か
旗本のうち三千石以上で無役の家を寄合といいます。その寄合のなかでも、領地に住み続け、大名と同じように参勤交代を行った家が交代寄合です。
違いは待遇に表れます。ふつうの旗本は若年寄の支配ですが、交代寄合は老中の支配でした。江戸城で控える部屋も与えられ、家格のうえでは譜代大名に准じます。一万石という線を越えていないだけで、扱いはほとんど大名だったわけです。
家の数はそれほど多くありません。幕末で三十三家、おおむね三十家前後とされます。内訳は、江戸城の帝鑑間や柳間に伺候する表向御礼衆が二十家、それに四衆と呼ばれる十二家が続きます。
この四衆というのが、那須衆・美濃衆・信濃衆・三河衆です。いずれも戦国以来その土地に根を張ってきた在地領主で、徳川の家来として召し抱えられたというより、土地ごと家を残された家柄でした。だから領地を離れないし、離れないまま参勤する。交代寄合という妙な身分は、戦国が江戸に持ち越されたかたちなのです。
「那須衆」——下野に四家
四衆の筆頭に置かれた那須衆は、すべて下野国那須郡の家です。
- 那須家(那須郡福原・千石)
- 福原家(那須郡佐久山・三千五百石)
- 蘆野家(那須郡芦野・三千十六石)
- 大田原家(那須郡森田・千三百石/大田原藩主家とは別の分家)
四家とも江戸城の伺候席は柳間で、隔年の参府と定められていました。芦野氏の石高は資料によって三千二十六石とも三千十六石とも書かれます。現地の解説板は三千二十六石です。
ここで思い出したいのが那須七騎です。那須氏を中心に、一族の蘆野・伊王野・千本・福原、そして重臣の大関・大田原を加えた七家をこう呼びました。この七家が江戸時代にどう分かれたかを並べると、那須の幕末がひと目で分かります。
大名になったのは大関氏(黒羽藩)と大田原氏(大田原藩)の二家だけ。伊王野氏は江戸期に断絶。残る那須・福原・蘆野は交代寄合として、土地に留まったまま幕末を迎えました。かつて那須氏の家来だった大関と大田原が大名になり、主筋の那須氏が千石の旗本として残る——戦国の勝ち負けが、そのまま江戸の身分に固定されたわけです。
幕末の当主・芦野資愛と、兵ではなく人足を出した戊辰戦争
幕末の芦野家の当主は二十九代芦野資愛です。旗本の神保家から入った養子で、通称を雄之助といいました。
慶応四年(一八六八)、芦野氏は新政府側につきます。那須町の資料によれば、資愛は家老の神田連左衛門を京都へ派遣し、情報を集めるとともに新政府への恭順を示しました。
ただし、芦野氏は戦っていません。任されたのは軍夫方でした。白河・棚倉・二本松の方面へ軍夫を送り、芦野宿の継立に使う人足を集める役目です。慶応四年の四月から十月にかけて、芦野宿と知行地の十九か村から三百九十名を超える軍夫が徴発されたという記録が残ります。
軍夫は兵ではありません。弾薬や糧食を担ぎ、負傷者を運び、道を直す非戦闘員です。しかも軍夫は、新政府軍からも旧幕府軍からも徴発されました。街道筋の村にとって、戦は勝ち負け以前に人手を持っていかれる災難だったのです。
芦野は白河口の戦場のすぐ手前でした。閏四月二十五日、白坂口で敗れた新政府軍は芦野まで退いています。芦野は戦線の直近後背地であり、兵站の中継地でした。芦野陣屋そのものが戦場になったという記録は見当たりません。三千石の領主にとって、早々に旗幟を鮮明にして人足を出し続けることが、領地を守る唯一の方法だったのだろうと思います。
「芦野藩」は、ありませんでした
現地の解説板には「明治四年の廃藩置県までの約三百数十年間、ここに芦野氏の居城があった」と記されています。この一文につられて芦野藩という藩があったように思ってしまいますが、調べたかぎり、そのような藩は存在しません。
交代寄合のなかには、戊辰戦争の戦功などで高直しを受けて一万石を超え、維新の際に藩として立った家が六家あります。本堂家、生駒家、山名家、池田家、平野家、山崎家。この六家は男爵に叙せられました。しかし那須衆の四家はここに含まれていません。芦野氏は華族にならず、士族として明治を迎えています。
手続きのうえでも違います。那須郡の旗本領は、慶応四年六月に置かれた真岡知県事の管轄に入り、明治二年には日光県となりました。つまり芦野氏の支配は、廃藩置県ではなく旗本知行所の解体という別の経路で終わっていたのです。解説板の「廃藩置県まで」という表現は、この丘に領主の館があった年限のおおよその目安と読むのがよさそうです。

芦野氏はその後、明治八年に資愛が家を離れ、資貞が家督を継ぎ直したと伝わります。三千石の家にとって、身分の裏づけを失ったあとの明治は厳しいものだったはずです。
奥州街道二十五番目の宿——芦野
芦野は奥州街道の二十五番目の宿場でした。江戸の日本橋から白河まで二十七の宿が置かれ、越堀、芦野、白坂、白河と続きます。つまり芦野は、白河の二つ手前です。境の明神を越えればそこは陸奥でした。
天保十四年(一八四三)の記録で家数百六十八軒、旅籠二十五軒。幕末には旅籠が四十軒あまりにまで増えたと伝えられます。国境の手前という土地柄が、宿場を太らせたのでしょう。
芦野にはもうひとつ、有名な場所があります。遊行柳です。西行が詠んだと伝わる柳の跡で、松尾芭蕉が奥の細道の旅で立ち寄り、「田一枚植ゑて立ち去る柳かな」の句を残しました。与謝蕪村もここを詠んでいます。いまは国の名勝「おくのほそ道の風景地」の構成資産のひとつです。
地元で採れる芦野石も知られます。安山岩の一種で、大谷石と比べて斑が少なく、きめが細かい石です。石蔵や石塀としてこの町のあちこちに使われています。


御殿山を歩く——三千石の「城」
御殿山は那須町の指定史跡です。八溝山地の北部、奈良川の東岸にある平山城で、標高はおよそ三百メートル、川べりからの比高は最高で六十メートルほど。城郭の部分だけで約三ヘクタールあります。
解説板によれば、芦野氏の祖先は七百年から八百年前の鎌倉時代、この一帯を支配する小さな武士団のかしらでした。応永年間ごろに奈良川右岸の熊野堂へ居館を構え、次いで室町時代前期に南の館山城へ移り、この平山城は芦野氏にとって三番目の拠点にあたります。
築城の年代には二説が示されていました。ひとつは天文年間(一五三二〜五五)に芦野資興が太田道灌の兵法を学んで築いたとするもの。もうひとつは天正十八年(一五九〇)に那須七騎の一人として活躍した芦野盛泰が、秀吉から加増されて築いたとするものです。解説板は城の形式から前者が妥当としています。
歩いてみると、堀の切通しがとにかく深い。土の壁が両側からせり上がり、上を見上げるかたちになります。三千石の旗本の陣屋、という言葉から想像するものとはまるで違います。それもそのはずで、この縄張りは戦国の山城のものだからです。江戸時代の芦野氏は、戦国の城の上に館を置いて暮らしていたわけです。

解説板は、御殿の姿まで具体的に伝えています。木羽葺で間口はおよそ二十九メートル、奥行きはおよそ十一メートル。玄関、客間、奥の間、大広間、宿直間、仲間部屋、広敷台などに区切られ、建物の奥には陰殿、つまり便所もあったといいます。二の丸にあたる郭には御殿と蔵が建ち、三の丸には表門と裏門がありました。
裏門は上の門と呼ばれ、いまも近くの民家に現存していると記されています。三千石の領主の屋敷が、そこまで細かく分かっているというのは、なかなかありません。


本丸の東には大きなこうやまきが立っています。栃木県の指定天然記念物で、樹高はおよそ二十四メートル、幹回りはおよそ五メートル、推定樹齢は四百年から五百年。築城を記念して植えられたものと伝えられています。もしそうなら、この木は芦野氏の江戸時代をまるごと見てきたことになります。
家老を出した家の門——旧平久江家
町なかに、芦野家の家臣の屋敷門が残っています。旧平久江家の武家屋敷門です。解説板には、こう記されていました。
この門の建物は、棟門の一種で、この地域における比較的上級武家の門構えである。平久江家は、江戸初期から芦野家の重臣と見られる家柄で、本家は、根古家の一段高い地に家屋敷を構えていた。当家は、分家筋にあたり、老臣を勤めた人物も輩出している。

幕末には家老職を勤めた人物も出したという家です。三千石の家にも家老がいて、その屋敷の門が町角にいまも建っています。芦野氏が領地に住み続けた交代寄合だったからこそ、家臣団の屋敷も土地に根づいて残ったのだと思います。江戸定府の旗本であれば、こうはなりません。
門の前は石垣で折れをつくり、枡形のような構えになっています。門ひとつで防禦の形を残しているのが、いかにも戦国を引きずった家柄らしいところです。

那須歴史探訪館——陣屋の門と、江戸の土蔵
麓には那須歴史探訪館があります。建築家の隈研吾が設計した施設で、ガラスの壁のなかに古い門と石の蔵が包み込まれる、印象的なつくりです。
ただし、ここは少し注意が必要でした。この門は芦野氏陣屋の裏門を模してつくられたもので、移築した本物ではありません。一方の土蔵は江戸時代の旧山田家のもので、こちらは補修のうえ保存活用されています。模したものと本物が並んでいるわけです。

仕上げには芦野石と藁の左官、烏山和紙が使われています。地元の素材で地元の歴史を包むという考え方で、施設そのものが芦野という土地の紹介になっています。
現地を歩いて
正直に言うと、芦野氏の幕末について調べはじめたときは、何も出てこないのではないかと思いました。実際、まとまった記述があるのは那須町の刊行物と展示解説くらいで、県の通史では宇都宮や壬生の攻防に触れても、那須の旗本には触れません。
けれども、記録が乏しいこと自体がひとつの答えでもあります。芦野氏は兵を出して戦った家ではなく、人足を出し続けた家でした。派手な戦功がないのですから、通史に名前が残らないのは当たり前です。
それでも三百九十人という軍夫の数字は重い。この丘のふもとの十九か村から、それだけの人が白河へ、棚倉へ、二本松へ送り出されたのです。戦った藩の名前は残りますが、荷を担いだ村の名前は残りません。芦野を歩いていると、戊辰戦争にはそういう層があったのだということを思い知らされます。
丘のうえは、いまは静かな公園です。案内板は思いのほかしっかりしていて、御殿の間取りまで読めるのはありがたいところでした。ただ、幕末のこの土地がどういう役回りだったのかを伝えるものは、やはりありません。国境まであと二つの宿、という位置を考えれば、書けることはまだあるはずです。
芦野氏陣屋跡(御殿山)へのアクセス・地図
芦野氏陣屋跡は栃木県那須郡那須町大字芦野の御殿山として、自由に歩けます。ふもとに那須歴史探訪館があり、旧平久江家の武家屋敷門や遊行柳も歩いて回れる距離です。
▼ 那須で大名だった二家の詳しいデータはこちら
黒羽藩/大関家1万8千石
大田原藩/大田原家1万1千石
▼ 軍夫が送られた白河口の攻防はこちら
白河藩/阿部家10万石
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の解説板「芦野氏陣屋跡」(那須町・那須町教育委員会)
- 現地の解説板「武家屋敷門及び構え 旧平久江家」(本文に一部を引用)
- 那須歴史探訪館の展示解説および『戊辰戦争と那須町』(那須町教育委員会)
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