【現地取材】北ノ庄城址・柴田神社を歩く——福井城の十分手前にある、焼けた城

正直に書きます。北ノ庄城に幕末はありません。

柴田勝家が築き、天正十一年に焼け落ちた城です。幕末どころか、江戸時代が始まる前に、この城は消えています。

それでも歩いてよかったと思っているのは、ここが福井という町の出発点だからです。そして——福井城から歩いて十分ほどしか離れていない。これには本当に驚きました。

柴田神社の鳥居。ビルとビルの隙間に立っている
柴田神社の鳥居。ビルとビルの隙間に立っている
目次

ビルの谷間に、城跡がある

柴田神社の鳥居は、ビルとビルの隙間に立っていました。ガラス張りの建物と、コンクリートの壁にはさまれて、石の鳥居がぽつんとある。——観光地の入口という感じは、まったくしません。

「北庄史跡 柴田神社」の石標と、ふくい歴史街道の案内板
「北庄史跡 柴田神社」の石標と、ふくい歴史街道の案内板
「越前北ノ庄城址」の石碑。この日は小雨で、石が濡れて光っていた
「越前北ノ庄城址」の石碑。この日は小雨で、石が濡れて光っていた

境内に入ると、思っていたよりずっと狭い。柴田公園と北の庄城址公園をあわせても、街区ひとつぶんくらいです。ここに、九層とも伝わる天守を持つ日本最大級の城が建っていた——と言われても、すぐには像を結びません。

★北ノ庄城は、福井城の下に消えたのではない

ガラス越しに保存された北庄城の石垣。残っているのは根石だけである
ガラス越しに保存された北庄城の石垣。残っているのは根石だけである
「北庄城石垣」の説明板。福井城築城の際に取り除かれた経緯が書かれている
「北庄城石垣」の説明板。福井城築城の際に取り除かれた経緯が書かれている

ここでいちばん驚いたのが、この石垣の説明板でした。

柴田神社の周辺は、勝家の築いた北庄城(一五七五〜一五八三)の天守閣跡と伝えられる場所です。ガラス越しに、いくつかの石が地面に埋まったまま展示されている。これが勝家時代の石垣遺構です。

説明板はこう書いていました。発掘調査の結果、この石垣は本来もっと高く積まれていたが、江戸時代に結城秀康が福井城を築く際に取り除かれ、根石だけが残った——と。

つまり、北ノ庄城の跡地の上にそのまま福井城が建ったわけではないのです。

福井城の本丸は、ここから北へ数百メートル。秀康は北ノ庄城の位置とは少しずらして新しい城を築き、古い城の石垣は解体して持っていった。この公園には北ノ庄城の遺構と福井城の堀の跡が入り混じって表示されていて、二つの城が「重なりながらズレている」ことがよくわかります。

「北の庄城址・柴田公園」の園内図。北ノ庄城の遺構と福井城の堀の標示が同じ園内に混在している
「北の庄城址・柴田公園」の園内図。北ノ庄城の遺構と福井城の堀の標示が同じ園内に混在している

もうひとつ、日本遺産の説明板に面白いことが書いてありました。越前支配の拠点が一乗谷からこの北庄へ移ったのは、笏谷石(しゃくだにいし)の産地である足羽山に近かったからだ、と。

勝家の北庄城は、石垣にも屋根瓦にもこの笏谷石を使いました。そしてその石が、そのまま福井城へ、福井の町へ受け継がれていく。——城は解体されたけれど、石は残って次の城になった。彦根城が佐和山城を壊して建ったのと、同じ話がここにもあります。

天正十一年四月、勝家とお市

柴田勝家公像。石垣の上に据えられている
柴田勝家公像。石垣の上に据えられている
見上げると、槍を立てて床几に腰かけた姿である
見上げると、槍を立てて床几に腰かけた姿である

境内の高いところに、柴田勝家の像が据えられていました。床几に腰をおろし、槍を立てて、遠くを見ている。雨の日に見上げると、なかなか堂々としたものです。

勝家がここで終わったのは、天正十一年のことでした。

本能寺で信長が死んだあと、織田家の後継をめぐって秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れます。北ノ庄へ逃げ帰った勝家は、自ら城に火を放ち、妻のお市の方とともに果てました。

賤ヶ岳での敗因はいくつも挙げられます。前田利家の戦線離脱、佐久間盛政の突出、そして秀吉の「大返し」の速さ。——戦の巧拙というより、人の心をどれだけ掴んでいたかの差だった、という見方は今も根強くあります。

勝家は織田家の筆頭家老として、正面から押していく武将でした。秀吉は、調略も虚実も含めてあらゆる手を使う男でした。——像を見上げながら、そういうことを考えていました。まっすぐな者が、必ず勝つわけではない。それは幕末の記事を書いていても、何度もぶつかることです。

「北の庄城 お市の方 殉難将士 慰霊碑」。城とともに死んだ人々をまとめて弔っている
「北の庄城 お市の方 殉難将士 慰霊碑」。城とともに死んだ人々をまとめて弔っている

境内には「北の庄城 お市の方 殉難将士 慰霊碑」が立っています。勝家とお市だけでなく、城とともに死んだ名もない将士をまとめて弔う碑です。——落城というのは、いつもこういう規模の話なのだと、あらためて思いました。

三姉妹——ここから徳川へつながる

三姉妹像。左から茶々、江、初。母が勝家に嫁いだため、この城で暮らした
三姉妹像。左から茶々、江、初。母が勝家に嫁いだため、この城で暮らした

境内の一角に、三姉妹の像がありました。

説明板によれば、天正十年、茶々・初・江の三姉妹は、母のお市の方が柴田勝家に嫁いだため勝家の居城である北庄城に移り、この地でともに過ごした——とあります。

母が死んだあと、三人は城を落ちのびました。そのあとは、ご存じのとおりです。

茶々は豊臣秀吉の側室・淀殿となり、大坂城で果てる。初は京極高次に嫁ぐ。そして末の江は、徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光の母になりました。

ここで、話が一周します。

江の夫・秀忠の兄が、結城秀康です。——北ノ庄で少女時代を過ごした娘の、その夫の兄が、同じ土地に福井城を築いた。そしてその越前松平家が、二百六十年後の松平春嶽まで続くのです。

柴田勝家がこの土地で滅んだから、越前松平家がここに入った。越前松平家がここにいたから、春嶽が橋本左内や三岡八郎を集められた。——幕末の福井は、この焼けた城から始まっていると言っても、そう的外れではないと思います。

小雨の境内で、御朱印をいただく

日本遺産の説明板。福井の町の発展は北庄城に始まり、福井城に受け継がれたと記す
日本遺産の説明板。福井の町の発展は北庄城に始まり、福井城に受け継がれたと記す

この日は小雨で、傘を差したり畳んだりしながら小走りでまわっていました。石が濡れて、玉砂利に薄く雪が残っていました。

柴田神社では、御朱印のようなものをいただきました。私は各地でこれを集めているのですが、——ここでいただいた一枚は、少し気持ちが違いました。

ここは勝った人の神社ではありません。

会津筑波山を歩いてきて、私は「負けた側の史跡」に何度も立ってきました。柴田神社もその一つです。焼けた城の天守跡に、滅ぼされた武将を主祭神として祀っている。そして地元の人が、いまも普通にお参りに来ている。

負けた者を祀り続けるというのは、日本の土地のいちばんいいところだと思います。——太平山の天狗党鎮魂碑を、追討した側の人間が建てたのと、どこか同じ手触りがありました。

もうひとつ。福井城と北ノ庄城が、歩いて十分の距離にある。これが本当に意外でした。四百二十年ほど隔てた二つの城が、同じ街区にほとんど重なっている。——歴史は積み重なるというより、同じ場所で上書きされていくのだと、濡れた石を見ながら思いました。

アクセスと地図

北ノ庄城址・柴田神社/福井県福井市中央一丁目。JR福井駅から徒歩五分ほど、繁華街のただ中にあります。境内は自由に参拝でき、石垣遺構はガラス越しにいつでも見られます。

敷地は小さいので、見学は二十分から三十分。ただし説明板が多く、どれも内容が濃いので、読み込むならもう少しかかります。福井城址までは徒歩十分ほど。この二つは必ずセットで回ってください。片方だけでは、この土地の話が半分しか見えません。

近くには勝家とお市の菩提寺西光寺(柴田勝家公資料館があります)、お市の方の菩提寺自性院もあり、あわせて歩けば半日のコースになります。

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この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の案内板「北庄城石垣」
  • 柴田勝家公資料館

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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