【現地取材】桂小五郎の隠れ家跡を訪ねる——中津川の路地裏で、長州の藩論が変わった

岐阜県中津川市。中山道の宿場町です。その本通りから少し入った細い路地の奥に、幕末の日本が動いた場所があります。桂小五郎——のちの木戸孝允が隠れていた家の跡です。

中津川市まちなか案内の地図看板
宿場の案内板。ここから路地に入っていく

とにかく暑い日でした。日差しを避けるものが何もない道を歩いて、案内板を頼りに路地へ入ります。

桂小五郎隠れ家跡へ続く路地
細い路地。この奥に「やけ山」があった

こんなところに、と思いました。本通りの賑わいからは想像がつかない、車も入れない細い道です。家と家の間を縫うように進みます。歩いていて気づいたのが、水の音でした。中津川は水の豊かな土地です。小道の下を、絶えず水が流れています。その音が路地じゅうに響いていて、暑さのなかでそこだけ涼しく感じました。

この水路は、いまに始まったものではありません。宿場が置かれた当時から、同じように流れていたはずです。桂小五郎も、この音を聞きながらここに潜んでいたことになります。ですが歩いているうちに納得しました。隠れるには、こういう場所でなければいけなかったのです。

目次

説明板に、すべて書いてありました

桂小五郎隠れ家址の説明板
中津川市が設置した説明板

中津川市が設置した説明板の全文です。

桂小五郎隠れ家址
このあたりに昔、料亭「やけ山」があった。
文久二年(一八六二)六月 長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は京都に向かう藩主毛利慶親公の行列を待つ間、藩吏の目をのがれて中津川の平田門人 間秀矩や市岡殷政の好意で秘かに「やけ山」に隠れ待機した。
やがて「中津川会談」三日の結果、桂の主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した。明治変革の秘史と物語の場所である。

この短い文章に、驚くことが三つ入っています。

驚き① 時期が「文久二年」でした

元治元年ではなく、文久二年(一八六二年)六月です。

これは意外に間違われている点で、私も調べ始めたときは元治元年だと思い込んでいました。中津川市の公式サイトは、桂の滞在をさらに具体的に「文久二年六月二十日から二十四日頃」としています。元治元年(一八六四年)に中津川で起きた大きな出来事は、別にあります。水戸天狗党の通過です。おそらくこの二つが混ざって伝わっているのでしょう。

驚き② 「藩吏の目をのがれて」

ここが、この説明板でいちばん重要な一行だと思います。桂が隠れていたのは、幕府の目からではありません。自分の藩の役人の目から隠れていたのです。当時の長州藩は「航海遠略策」を藩論としていました。長井雅楽が唱えた、朝廷の勅許なしに条約を結んだ幕府を容認する——つまり幕府寄りの開国政策です。

桂はこれを覆そうとしていました。藩の公式方針に反することをやろうとしていたので、藩の役人に見つかるわけにいきません。だからこの路地の奥だったのです。

驚き③ 三日で、藩論が変わりました

桂が待っていたのは、江戸から京都へ向かう藩主・毛利敬親(慶親)の行列でした。中山道の宿場町であれば、行列は必ず通ります。ここで待ち伏せて、直談判する。それが狙いでした。長州側で加わったのは、桂小五郎のほか志道聞多(のちの井上馨)、福原越後、世良孫槌ら重臣たち。

そして三日。説明板の言葉を借りれば、「桂の主張によって長州藩は尊王倒幕へと決断した」のです。長井雅楽の航海遠略策は退けられました。この転換のあと、長州は尊王攘夷運動の中心に躍り出ます。翌文久三年の八月十八日の政変で京都を追われ、元治元年七月には禁門の変へ。その出発点が、この路地の奥でした。

段取りをつけたのは、宿場の町人でした

ここが中津川という町の面白さです。この会談を手配したのは、武士ではありません。

  • 間秀矩(はざま ひでのり/一八二二〜一八七六)——中津川宿の問屋役。二十二歳で家業を継ぎ、横浜が開港すると生糸を大量に仕入れて交易しました
  • 市岡殷政(いちおか しげまさ/一八一三〜一八八八)——中津川宿の名主であり、本陣の当主

本陣というのは、大名行列が泊まる宿です。その当主だからこそ、藩主の行列を待ち受ける段取りが組めました。

二人とも、平田国学の門人でした

説明板に「中津川の平田門人 間秀矩や市岡殷政の好意で」とあったとおりです。間秀矩は安政六年(一八五九年)、平田篤胤の婿養子である平田銕胤を訪ねて入門しました。そして中津川の人々を次々に門人にしていきます。市岡殷政が入門したのは文久二年の暮れ——ちょうどこの会談の年です。やがて中津川宿の中心にいる人たちは、平田門人で占められました。

なぜ宿場町が、政治の場になったのか

理由は三つあると思います。ひとつは情報です。中山道の宿場には、人と一緒に情報が集まります。市岡殷政が書き残した『風説留』は十冊にのぼり、幕末維新の超一級資料とされています。薩長同盟の成立を、密約が結ばれる一か月以上前に中津川は知っていました。

ふたつめはです。間家は横浜開港後の生糸交易で財を成しています。志士を匿い、平田篤胤の著書の出版に出資するだけの力がありました。そして三つめが立場です。本陣と問屋という、大名行列を受け入れる公的な役目。だからこそ、藩主を待ち受ける会談を仕組めたのです。

この二人は、ほかにも色々やっています

調べていくと、間秀矩と市岡殷政の名前が幕末のあちこちに出てきます。

天狗党を、もてなしました

元治元年十一月二十七日、水戸の天狗党が中津川宿へやって来ました。筑波山で挙兵し、京都をめざして西上していた一団です。各地で恐れられ、賊軍とみなされていました。ところが中津川宿は、彼らを歓待します。温かい五平餅ときしめん、酒と茶を出し、藁で巻いた納豆まで持たせました。市岡殷政は天狗党の幹部を本陣に入れてもてなしています。

さらに——和田峠の戦いで戦死した横田元綱の首を、父親が布に包んで持ち歩いていました。賊軍の首と知れれば辱めを受けるからです。市岡殷政と間秀矩は、この首を預かって大泉寺に手厚く葬りました。賊軍の者を葬るのは幕府に背く重罪です。それでも二人はやりました。

町人の身で、関白に建白書を出しました

慶応元年十月、市岡殷政は京都へ上り、関白・二条斉敬に建白書を提出しています。中津川市はこれについて、こう書いています。「当時の身分制度下で町人による建白は日本中で中津川宿の人たちだけ」だと。

赤報隊も泊まりました

慶応四年一月二十九日から二月二日、相楽総三が率いる赤報隊が中津川宿の本陣に泊まっています。その十日後に「偽官軍」の通達が出され、三月三日、相楽総三は下諏訪で処刑されました。

そして東山道軍の道案内を

慶応四年二月二十五日から二十七日にかけて、大垣・薩摩・土佐・因幡・長州の各藩兵が中津川に到着します。総督は岩倉具定。中津川宿の人々は、この官軍の嚮導役——道案内を務めました。間秀矩は贄川宿、市岡殷政は本山宿で継立にあたっています。

この人たちは、東濃じゅうにつながっていました

間秀矩を軸に見ると、東濃の幕末が一本の線になります。

  • 馬籠宿——島崎藤村の父・島崎正樹は、文久三年に間秀矩の紹介で平田門人になりました。小説『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルです
  • 苗木藩——苗木城の記事で書いた青山景通も平田門人。嘉永五年、東濃で最初の入門者でした。この人が明治三年、領内の寺を一つ残らず壊します
  • 伊那谷——飯田城で天狗党の進路を調整した北原稲雄も平田門人。松尾多勢子が京都で危うくなったとき、迎えに行ったのは市岡殷政と間秀矩でした

一人の宿場町の商人から、長州の藩論転換と、『夜明け前』と、日本一徹底した廃仏毀釈が枝分かれしていることになります。

歩いてみて

暑い日でした。汗をかきながら細い路地を抜けて、たどり着いたのは「桂小五郎隠れ家址」という札だけです。城跡のような遺構はありません。ですが説明板を読んで、しばらく動けませんでした。

ここで三日話し合った結果、長州藩が変わったのです。もし桂が説得に失敗していたら、長州は幕府寄りの藩のままだったかもしれない。禁門の変も、薩長同盟も、その後の展開も違っていたかもしれません。説明板の最後の一行が、そのことを言っています。

明治変革の秘史と物語の場所である

秘史。この言葉が、路地の細さと重なりました。

訪ねるなら

  • 桂小五郎隠れ家址——岐阜県中津川市新町。本通りから小径を入った奥です。令和六年一月、跡地が料亭「やけ山」として改修オープンしました。当時の建物ではありませんが、場所は同じです
  • 中津川市中山道歴史資料館——中津川市本町二丁目2-21。旧脇本陣の跡地に平成十六年開館。市岡殷政の『風説留』のほか、和宮降嫁の行列の記録、天狗党の往来を示す古文書、薩長同盟の密談を伝える文書を所蔵しています
  • 間家大正の蔵——同じ資料館の敷地内。ただしこちらは大正六年ごろの建築で、桂の隠れ家とは別物です。平成七年に「旧間家倉庫」として中津川市の指定文化財になりました
  • 中津川宿本陣跡——市岡家。本通り沿いです
  • 大泉寺——天狗党の横田元綱が葬られた寺

ひとつ補足しておきます。「桂小五郎が隠れたのは間家の蔵」と紹介されることがありますが、これは別のものです。間秀矩は会談を仕組んだ人で、現存する間家の蔵は大正の建築。隠れ家は路地の奥の「やけ山」でした。馬籠宿までは、中津川宿から落合宿を経て約八・四キロ、徒歩で二時間二十分ほどです。

あわせて読みたい

この記事の取材と情報源について

現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。

  • 現地の説明板「桂小五郎隠れ家址」(中津川市)
  • 中津川市公式サイト「中津川宿」連載(中津川の幕末維新/桂小五郎の隠れ家/水戸天狗党との関わり/皇女和宮 中津川宿泊と大行列/間家大正の蔵)
  • 中津川市中山道歴史資料館

掲載写真はすべて運営者が撮影したものです。裏の取れない事柄は本文にその旨を記し、諸説あるものは併記しています。誤りにお気づきの際はお問い合わせからご指摘ください。

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