福島藩の歩み
元禄十五年(1702年)に板倉氏が三万石にて福島藩へ入封しました。明治元年(1868年)、12代藩主「板倉勝達」は「奥羽越列藩同盟」に与したため、領土を奥羽内に移されました。これに伴い元々飛地だった三河重原に藩庁を移して重原藩を立藩しました。

明治二年(1869年)六月、「版籍奉還」で重原藩知事となり、明治四年(1871年)の廃藩置県で免官されました。明治十七年(1884年)七月には華族令により子爵となります。
幕末の福島藩—世良修蔵が斬られ、藩ごと三河へ移された
元禄十五年(1702年)に板倉家が入って以来、十四代百六十七年にわたって福島を治めた藩です。幕末の藩主は板倉勝己。戊辰戦争のとき、まだ十七歳でした。
慶応四年(1868年)正月、鳥羽伏見の敗報が届くと藩内が割れます。江戸藩邸は旧幕府支持、国元は新政府支持。いったんは新政府側に立ちました。
それをひっくり返したのが、閏四月に福島の城下で起きた世良修蔵の暗殺です。奥羽鎮撫総督府の下参謀が、よりによってこの城下で斬られました。福島市の説明も「勤皇から一変、同盟軍への参加を余儀なくされた」と書いています。藩は奥羽越列藩同盟に加わり、仙台藩の指揮下で白河口へ出兵して二十一名の死傷を出しました。軍事方は城下の長楽寺に置かれています。
七月二十九日に二本松城が落ちると藩主は米沢へ退き、九月二日、二本松に進駐した西軍に降伏書を出して福島城を明け渡しました。
ここからがこの藩の特異なところです。明治元年十二月十八日、勝己は所領削減と隠居を命じられ、板倉勝達が家督を継ぎます。そして翌明治二年正月、藩庁は三河国碧海郡重原—いまの愛知県刈谷市重原本町へ移されました。重原藩二万八千石です。
なぜ三河なのか。福島藩は寛政四年(1792年)以来、三河に飛地を持っていました。寛政の一揆の責任で刈谷藩主が処罰されたとき、その領地の一部が福島藩に回ってきたものです。陸奥の本領を失ったとき、この既存の飛地に旧領の一部と上総の所領を合わせて再編したのが重原藩でした。負けた罰として、藩ごと東北から東海へ引っ越したことになります。
藩校は「講学所」といい、いまの福島市立福島第一小学校の北西あたりにありました。福島城の跡には福島県庁が建っています。紅葉山公園に庭園跡と内堀土塁の一部が残り、県庁構内には板倉神社があります。
福島の板倉家は、備中松山の板倉家とは別の流れです
板倉という家名は幕末の史料にいくつも出てきます。備中松山藩五万石、庭瀬藩二万石、安中藩二万石、そしてこの福島藩三万石。いずれも名奉行として知られる板倉勝重を共通の祖としますが、同じ家ではありません。福島藩を知るには、まずこの枝分かれを押さえておくのが早道です。
三つの流れ
勝重の子の代で、板倉家は大きく三つに分かれました。
福島藩は「重昌系」です。勝重の三男重昌を祖とする家で、天和三年(1683年)に嗣子重寛と甥の重宣とに分封されて二家に分かれ、それぞれ陸奥福島と備中庭瀬で維新を迎えました。つまり福島と庭瀬は兄弟にあたる藩です。
いっぽう備中松山藩は「重宗系」で、こちらが宗家です。勝重の長男重宗の子孫は下総関宿で五万四千石を領し、寛文元年(1661年)に伊勢亀山、宝永七年(1710年)に志摩鳥羽、享保二年(1717年)に再び亀山、そして延享元年(1744年)に備中松山へと移りました。
安中藩は「重形系」で、重宗の次男重形に始まり、天和元年(1681年)に上野国安中一万五千石に封じられて成立しています。
幕末に備中松山の板倉勝静が老中首座として活躍し、福島の板倉家が奥羽越列藩同盟に加わって領地を失う。同じ名前の家が正反対の場所にいたわけですが、両者は勝重のあと百八十年以上前に分かれた別系統でした。
杉目城から福島城へ
福島城の名は、それほど古いものではありません。
福島市の解説によると、文禄二年(1593年)頃、木村吉清が居城を大森城から杉目城へ移し、「福島城」と改名しました(文禄元年とする説もあります)。つまりこの城はもともと杉目城でした。
上杉領となってからは城代が置かれます。最初が水原親憲、次が本庄繁長。いずれも伊達政宗の侵攻に備えて配された将です。上杉家にとって福島城は、対伊達の最前線に置かれた城でした。
藩主家は三家、しかし板倉家が百六十七年
江戸時代の福島藩の藩主家は三家です。
最初が本多氏。延宝七年(1679年)、本多忠国が大和郡山から転封されて福島藩が成立し、天和二年(1682年)まで。次が堀田氏で、貞享三年(1686年)に堀田正仲が山形から入り元禄十三年(1700年)まで。
そして元禄十五年(1702年)、板倉重寛が信濃国坂木(現在の長野県坂城町)から福島へ転封され、以後十二代百六十七年(十四代と数える資料もあります)にわたって板倉家が城主を務めました。前の二家がそれぞれ三年と十四年ですから、福島藩の歴史はほぼ板倉家の歴史です。
なお坂木時代の板倉家には高滝藩という支藩があり、当サイトにも別に項目があります。信濃から陸奥へ移った家の前史は、そちらでたどれます。
藩校は講学所でした
福島藩の藩学は講学所(講学館)です。国立国会図書館のレファレンス回答が場所の変遷を伝えています。
初期は福島城南西部の外役所を仮の校舎とし、のちに兵学所が設けられたときに移転しました。最終的な所在は「河西の私語橋(ささやきばし=密語橋)内」で、現在の福島市立福島第一小学校の敷地周辺にあたるとされます。
教育内容は儒学で、興味深いのは師範役をどこから招いていたかです。寛政から文政のころは米沢から、文政から慶応のころは仙台から儒者を招いて教授させていました。学問の上では米沢と仙台に師を仰いでいた藩が、戊辰でその両藩と同盟を組むことになります。
明治二年四月には旧藩学舎の跡に「開明学舎」が置かれて漢学が教えられ、明治六年二月には旧講学所跡に福島小学校が開校しました。学校の場所として使われ続けたことになります。
生糸の藩でした
福島藩の経済を語るなら、避けて通れないのが養蚕です。
伊達市の資料によると、信達地方(信夫郡・伊達郡)の養蚕は奈良・平安期に始まったと伝わり、小手姫(こてひめ)が伝えたという伝承があります。1800年代には伊達地方が生糸の名産地となり、とくに「掛田折返し糸」が高値で取引されました。
その規模がどれほどだったか。文化十一年(1814年)の記録では、伊達の年市で約一万五千両から一万六千両の現金取引が、わずか四時間で行われています。三万石の藩の領内で、これだけの現金が半日で動いていたということです。
そして安政六年(1859年)の横浜開港が、この地方を一変させます。生糸・茶・蚕種が日本の三大輸出品となり、生糸は総輸出額の八割を超えることもありました。1870年代には伊達の「掛田糸」が国際市場で一単位五百九十五ドル、機械製の信州糸の六百ドルと肩を並べています。伊達の蚕種製造者では藤屋の佐藤与三左衛門が年に約千二百枚の蚕種を製造して全国と海外へ供給し、佐野理八は西洋市場の要求に合わせた製法改良を進めました。
幕末の福島は、開港によって世界市場に直結した数少ない地方の一つでした。戊辰で領地を失ったとき、藩が手放したのはこの生糸地帯です。三河へ移されたことが板倉家にとってどれほどの打撃だったかは、この数字から想像がつきます。
城跡は県庁の敷地です
福島城の跡地は、現在の福島県庁の敷地になりました。城跡としてまとまった形では残っていません。
県庁の東隣、知事公館の西隣にある紅葉山公園は、かつての福島城の二の丸御外庭にあたります。本丸跡ではありません。昭和八年(1933年)から公園として一般に開放されました。
この公園には弘安六年(1283年)銘の宝塔があり、大仏城の遺構で建立年代が明確なものとして福島県指定重要文化財になっています。城そのものより古い、この土地の歴史を示す石造物です。
移った先には、いまも門が残っています
いっぽう、板倉家が移った三河の重原には、案外はっきりしたものが残っています。
重原陣屋は、明治になって急に建てられたものではありません。寛政四年(1792年)に板倉勝長が築いたもので、福島藩の三河飛地領を支配する拠点として七十七年にわたって機能していました。だから明治二年に藩庁を移すことができたのです。
場所は愛知県刈谷市、碧海郡下重原村。あいち中央農業協同組合の重原支店や刈谷市重原市民館の付近です。浄福寺の脇に「重原陣屋跡」の石碑と「従是東福島領」の石碑が立ち、刈谷市の指定史跡になっています。
建物も移築されて残りました。陣屋の門は刈谷市半城土町の願行寺の山門となり、刈谷市の指定有形文化財です。十応寺にも陣屋の玄関が移築されています。福島城が県庁の下に消えたのに対し、飛地の陣屋の門が三河の寺で生き残った。板倉家の遺構としては、こちらのほうが具体的に見られるものになっています。
飛地領の構成も記録があります。福島県の資料によると、刈谷藩の二万三千石のうち一万三千石分、福島藩の一万石分、幕領三千石が入り混じった地域で、現在の刈谷市・知立市・安城市・豊田市にまたがっていました。重原藩二万八千石の領域は、三河国の碧海・設楽・加茂・幡豆の四郡です。
その後
明治四年(1871年)の廃藩置県で重原藩は重原県となり、額田県を経て翌明治五年(1872年)に愛知県へ入りました。陸奥の三万石の藩が、三河の二万八千石の藩となり、そして愛知県の一部になったわけです。
なお板倉勝達の読みは「かつさと」とするものと「かつみち」とするものがあり、どちらも流通しています。生没年は確認できていません。
福島の現地を歩いた記録
福島藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。
場所・アクセス・地図
福島城跡
〒960-8065 福島県福島市杉妻町2

