いすみ鉄道の大多喜駅から歩いて十分ほど、台地の上に白い天守が見えます。大多喜城です。本多忠勝が十万石で入った城で、幕末には大河内松平家の二万石の城下町でした。

本多忠勝の城として始まりました
コトバンクの「日本の城がわかる事典」によれば、大多喜城のもとは大永元年(1521年)に真里谷城主武田信興の次男信清が、館山城の里見氏に備えて築いた城とされます。そこに、天正十八年(1590年)、徳川家康が本多忠勝を入れて大多喜藩十万石が成立しました。忠勝は里見氏への備えとして城を整え、三層四階の天守を持つ近世の城郭に改築しています。
その後の城主はめまぐるしく替わります。日本大百科全書は、忠勝の次男忠朝、甥の政朝、阿部氏、青山氏、稲垣氏と続き、元禄十六年(1703年)に松平(大河内)正久が二万石で入って、以後九代およそ百七十年この家が続いたとしています。
いまの天守は昭和五十年の建物です

本丸跡に建つ天守は、昭和五十年(1975年)に、天保六年(1835年)の図面をもとに建てられたものです(日本の城がわかる事典)。三層四階の鉄筋コンクリート造で、開館時の名は千葉県立総南博物館、のちに千葉県立中央博物館大多喜城分館となりました。
ただし、訪ねるときは注意が必要です。千葉県立中央博物館の公式サイトによれば、大多喜城分館は令和三年(2021年)十二月二十七日から施設改修のため休館しており、再開の日は告知されていません。県と大多喜町は将来的な町への移譲に向けて手続きを進めることで合意しており、報道では早ければ五年後に町営の博物館としてリニューアル開館する見込みとされました。建物の中には入れませんが、敷地に立ち入って外から城を眺めることはできます。
県の史跡は本丸跡、遺構は高校の中にあります
千葉県教育委員会の一覧によれば、「上総大多喜城本丸跡」は千葉県指定の史跡で、指定は昭和四十一年(1966年)五月二十日。そして附(つけたり)として大井戸と薬医門一棟が同じ日に指定されています。城跡そのものは国の史跡ではなく、県の史跡です。
この附の二つは、いまは県立大多喜高校の敷地にあります。二の丸の跡が高校になっているためです。大多喜町観光協会によれば、薬医門は廃藩とともに城の建物がすべて壊された中で唯一残ったもので、天保十五年以降の再建と見られています。大井戸は二の丸にあった井戸で、周囲は十七メートル。本多忠勝の築城のときに造られたと伝わります。
鳥羽・伏見で幕府軍を率いた藩主
幕末の藩主大河内(松平)正質は1844年の生まれです。日本人名大辞典は天保十五年四月十一日、政治家人名事典は弘化元年四月十日として、日が一日ずれています。越前鯖江藩主間部詮勝の五男で、大河内正和の養子となり、文久二年に大多喜藩主となりました。
慶応三年に老中格。そして慶応四年の鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍を指揮しました(日本人名大辞典)。Wikipediaは総督として旧幕府軍を率いたとし、新政府から名指しで「巨魁」とされたこと、同年一月十日に官位を剥奪されたことを記しています。
そのあとの処分については、資料の書き方が分かれます。日本人名大辞典は「敗れて一時領地を没収」とし、Wikipediaは帰国後に藩主以下が謹慎して城を速やかに開いたことが評価され、藩主の交替や所領の削減はなかったとします。一時的な措置と最終的な結果の違いのようにも読めますが、断定はできません。
正質は明治十七年七月八日に子爵となり(Wikipedia)、明治三十四年六月二日に亡くなりました。藩校は明善堂です。廃藩置県で大多喜県となり、木更津県を経て千葉県に入りました。藩そのものの歩みは大多喜藩のページにまとめています。
徳川四天王の城として始まり、幕末には鳥羽・伏見で幕府軍を率いた藩主を出した。二万石の城下町にしては、ずいぶん重い役どころを引き受けた城です。
場所・アクセス・地図
大多喜城(本丸跡)/千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一。いすみ鉄道・大多喜駅から徒歩およそ十分。天守(千葉県立中央博物館大多喜城分館)は休館中のため、内部の見学はできません。二の丸跡の大井戸と薬医門は県立大多喜高校の敷地内にあります。
