渡辺太三郎・沓掛藤五郎・多田金之助とは—江戸から権田村へ従い、小栗父子とともに斬られた若い家臣たち

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

渡辺太三郎(わたなべ たさぶろう)、沓掛藤五郎(くつかけ とうごろう)、多田金之助(ただ きんのすけ)は、小栗上野介忠順に仕えた江戸からの家臣です。慶応4年(1868年)、小栗に従って上州権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町権田)へ移り、そこで新政府軍に斬られました。渡辺は閏4月6日に小栗とともに水沼河原で、沓掛と多田は翌7日に小栗の養子・又一とともに高崎で。3人とも20代の若さでした。

3人とも、残された記録はわずかです。それでも、小栗自身の日記や墓、案内板から、彼らがどんな役目を果たし、どう最期を迎えたのかをたどることはできます。わかっていることと、わかっていないことを分けて紹介します。

目次

3人の家臣—先に答え

渡辺太三郎江戸からの家臣。名乗りは源吉享。小栗に従って権田村へ移り、慶応4年閏4月6日、水沼河原で小栗とともに斬首。20歳。法名「心岩良傳居士」
沓掛藤五郎江戸からの家臣。権田村では荷物の引き取りや三藩の兵への使者を務めました。閏4月7日、又一とともに高崎で斬首。25歳。法名「桂翁浄月居士」(東善寺)
多田金之助江戸からの家臣。権田村では中之条への応援に出されました。閏4月7日、又一とともに高崎で斬首。20歳。法名「全翁智性居士」(東善寺)
墓3人とも東善寺(高崎市倉渕町権田)に供養墓。沓掛と多田は、又一とともに高崎市下斎田町にも葬られています
わかっていないこと3人とも、生年、出身地、仕えた経緯、家族は伝わっていません
東善寺の「家臣の墓」の案内板。塚本真彦・沓掛藤五郎・多田金之助・塚本ミツ・塚本チカの名が並ぶ
東善寺の「家臣の墓」のもう一枚の案内板。右から塚本真彦、沓掛藤五郎、多田金之助(筆者撮影)

小栗に従って江戸から権田村へ

慶応4年1月、小栗は勘定奉行などの役職を解かれました。2月28日に江戸を発ち、3月1日の夕方、領地の権田村の東善寺に着いています。家族は妻の道子、母のくに、養子の又一、養女の鉞子。そこに家臣たちが従いました。

渡辺太三郎、沓掛藤五郎、多田金之助の3人は、東善寺の案内板にそろって「江戸からの家臣」「上野介に従って権田へ移り」と書かれています。権田村の出身ではなく、江戸の小栗家に仕えていた人たちです。江戸から運ばれてくる荷物には、家財道具だけでなく庭木まで入っていました。小栗は本気で、この村で暮らしていくつもりだったのです。

長持や行李を担いで権田村へ向かう引っ越しの列(イメージ)
江戸から権田村へ、家財を運ぶ引っ越しの列(イメージイラスト)

小栗が権田村で過ごした日々は小栗上野介はなぜ殺されたのか、権田村という土地については小栗家の領地・権田村とはでくわしく紹介しています。

渡辺太三郎—小栗とともに水沼河原で斬られた20歳

渡辺太三郎は、東善寺の案内板に「渡辺太三郎 源吉享」と、名乗り(実名)まで記されています。「江戸からの家臣。上野介に従って権田へ移り、上野介とともに斬首さる」とあり、年齢は20歳です。

小栗が権田村で書いていた日記(東善寺による現代語訳)には、太三郎の名前は一度も出てきません。使いや談判に出された記録がないので、ふだんは小栗のそば近くで身の回りの用を務めていたのかもしれませんが、確かなことはわかりません。

閏4月4日、東山道総督府の軍監・原保太郎と豊永貫一郎が権田村に来て、小栗の捕縛を命じます。翌5日の早朝、小栗は東善寺で捕らえられました。高崎哲郎氏の紹介では、このとき東善寺の本堂で小栗とともに捕らえられたのが、渡辺太三郎と荒川祐蔵だったとされます。

そして閏4月6日、取り調べもないまま、小栗は隣村・三ノ倉村の烏川の河原(水沼河原)に引き出されました。太三郎は、荒川祐蔵、大井磯十郎とともに、主君と一緒に斬られています。高崎藩の記録によれば、小栗の首は総督府へ運ばれ、家来の首はさらし首にするよう申し渡されました。

法名は「心岩良傳居士」。東善寺の境内に、小栗や荒川、大井と並んで供養墓があります。生年は記録がありませんが、20歳から逆算すると嘉永2年(1849年)ごろの生まれになります。

水沼河原の今の姿は【現地取材】小栗上野介の終焉の地・水沼河原とは、ともに斬られた2人については荒川祐蔵とは何をした人物かと大井磯十郎とは何をした人物かで紹介しています。

沓掛藤五郎—荷物を受け取り、三藩の兵へ使いに走った25歳

沓掛藤五郎は、小栗の日記に2回登場します。

  • 3月23日:江戸から送られてくる荷物を受け取るため、倉賀野(いまの高崎市倉賀野町。烏川の河岸があり、舟運の荷物はここで陸に揚げられました)へ出されています。
  • 4月29日:高崎・安中・吉井の三藩の兵が談判に来るという話を受け、使者として高崎方面へ出されました。藤五郎は神山のあたりで兵と出会い、談判は権田村で行うことになりました。

荷物の受け取りや、兵を率いる藩の役人とのやりとりを任されているところを見ると、江戸育ちの、気のきく家臣だったのでしょう。

閏4月、総督府の疑いを晴らすため、小栗は養子の又一を高崎藩へ申し開きに向かわせます。藤五郎は、用人の塚本真彦、多田金之助とともに、この又一に従いました。しかし又一主従は高崎で捕らえられ、閏4月7日、斬首されます。藤五郎は25歳でした。

法名は東善寺の供養墓で「桂翁浄月居士」。遺体は、又一とともに小栗家の旧領地・下斉田村(いまの高崎市下斎田町)に葬られました。

多田金之助—中之条へ応援に出された20歳

多田金之助は、小栗の日記の3月9日に名前が出てきます。中之条(いまの吾妻郡中之条町)に博徒が押し寄せるので助けてほしいと頼まれ、大井磯十郎、池田伝三郎、歩兵2人とともに応援に出されました。博徒が逃げ去ったため、11日の夜に帰っています。

このとき日記は「歩兵二人」と金之助たちを分けて書いています。金之助が歩兵ではなく、小栗家の家臣として扱われていたことをうかがわせますが、身分ははっきりしません。

閏4月、金之助も又一に従って高崎へ向かい、7日、又一、塚本真彦、沓掛藤五郎とともに斬られました。20歳でした。法名は東善寺の供養墓で「全翁智性居士」です。

閏4月7日、又一とともに高崎で

又一主従の最期は、資料によって書き方が少しずつ違います。

  • 場所:東善寺は「高崎城内」、高崎市は「高崎城下」とし、高崎藩の記録(『柴田日記』)は「ろうやのうしろ」と書いています。
  • 人数:東善寺などは又一と家臣3人(塚本真彦・沓掛藤五郎・多田金之助)としますが、高崎藩の記録は「又一と従者4人」と書いています。4人目が誰なのかは、わかっていません。又一の小姓だった16歳の武笠銀之助は、年少のため放免されたと伝わります。

高崎藩の記録によれば、小栗父子の首は総督府へ届けられ、家来の首はさらし首にされました。又一と家臣たちの遺体は、小栗家の旧知行地・下斉田村の名主・田口十七蔵が引き取り、村に葬りました。

高崎市下斎田町にある小栗又一忠道の墓
高崎市下斎田町の小栗又一の墓所(筆者撮影)

下斎田の墓所には、又一の墓とともに、家臣3人の墓とされる墓石が並び、「真山徳忠居士」「金光照忠居士」「藤庭偕忠居士」と刻まれています。東善寺の法名とは別の法名で、どれが誰の墓なのかを示す資料は見つかっていません。

下斎田の墓所の様子は【現地取材】小栗又一の墓はどこ?、又一については小栗忠道(又一)とは何をした人物か、用人の塚本真彦については塚本真彦とは何をした人物かで紹介しています。

東善寺の供養墓

明治の初め、権田村の人々は東善寺の境内に、小栗父子と家臣たちの供養墓を建てました。正面に小栗父子、その左右に家臣と家族、会津で戦死した村人の墓が5基ずつ並びます。渡辺太三郎は小栗とともに斬られた家臣の列に、沓掛藤五郎と多田金之助は又一とともに斬られた家臣の列に入っています。

東善寺の「家臣の墓」の案内板。塚越冨五郎・佐藤銀十郎・渡辺太三郎・大井磯十郎・荒川祐蔵の名が並ぶ
もう一枚の案内板。中央が渡辺太三郎(筆者撮影)

同じ列には、塚本真彦の母と幼い娘の墓もあります。2人は難を逃れようとして山中で自害しました。(【現地取材】姉妹観音と不忘碑とは)東善寺の参拝の様子は【現地取材】東善寺の参拝ガイドで紹介しています。

家族と子孫

3人とも、生年、出身地、両親や妻子を伝える資料は見つかっていません。小栗家の家臣だった江戸の人たちの記録は、小栗家が取りつぶされたこともあり、ほとんど残っていないのです。くわしいことは、『倉渕村誌』や『新編高崎市史』などの地元の資料、東善寺に残る記録で確かめられる可能性があります。新しいことがわかれば、この記事に追記します。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では

この記事を書いた時点で、3人の配役は発表されていません。権田村での最期が描かれるなら、小栗父子のそばにいた家臣として登場する可能性があります。発表があればこの記事に追記します。

筆者の感想

東善寺の家臣の墓を見て驚いたのは、20歳、25歳という若さでした。渡辺太三郎と多田金之助は20歳、沓掛藤五郎は25歳。いまでいえば、学生や社会に出たばかりの若者です。江戸のお屋敷で育ち、主君について見知らぬ山の村へ移ってきて、わずか2か月ほどで命を落としたのです。

3人とも、記録はほんのわずかしか残っていません。それでも小栗日記の中に、荷物を受け取りに倉賀野へ行った藤五郎、中之条へ応援に走った金之助の姿が、ちらりと見えます。新しい暮らしを始めるために、それぞれが一生懸命に働いていたのだと思うと、なおさら切なくなります。

小栗父子のことは語られても、一緒に斬られた若い家臣たちの名前は、なかなか知られていません。権田村の人たちが明治のはじめに墓を建て、名前を刻んでくれたおかげで、いまも私たちは手を合わせることができます。この記事が、3人のことを知るきっかけになればうれしく思います。

▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る

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小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

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