佐藤銀十郎とは何をした人物か—小栗上野介の妻を会津へ守り抜いた権田村の歩兵、熊倉の戦いで散った21歳

2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

佐藤銀十郎(さとう ぎんじゅうろう)は、小栗上野介忠順の領地だった上州権田村(いまの群馬県高崎市倉渕町権田)の若者です。小栗家の歩兵として江戸でフランス式の訓練を受け、小栗が斬られたあとは、身重の妻・道子たちを守って会津まで送り届けました。そのまま会津軍に加わって戦い、慶応4年(1868年)9月11日、いまの福島県喜多方市熊倉で戦死しています。21歳でした。

主君の家族を守るために故郷を離れ、遠い会津の土になった若者です。どんな人だったのか、東善寺(小栗の菩提寺)に残る記録と、会津側の史料をもとに、確かめられることと伝わっていることを分けて紹介します。

目次

佐藤銀十郎とは—先に答え

読み方さとう ぎんじゅうろう。会津側の記録『累及日録』には「佐藤銀次郎」とありますが、東善寺は「銀十郎」が正しいとしています
出身上州群馬郡権田村の字水有(みずあり)。農家の生まれ
身分小栗家の歩兵。築地の講武所でフランス式陸軍の訓練を受けました。権田村で暴徒を追い払ったときの働きで「中小姓格」に取り立てられたと伝わります
小栗とのかかわり小栗の死後、妻・道子、母・くに、養女・鉞子(よきこ)を護衛して会津へ
最期会津軍の町野源之助(のちの町野主水)の隊に加わり、三国峠・小出島などで戦い、慶応4年9月11日、熊倉の戦いで戦死。21歳
墓福島県喜多方市熊倉の杉の下墓地に「佐藤銀十郎信一墓」。群馬県高崎市倉渕町の東善寺に供養墓(法名「剱佐救清居士」)
東善寺の境内に並ぶ小栗上野介の家臣たちの墓
東善寺(高崎市倉渕町権田)の境内に並ぶ家臣たちの供養墓(筆者撮影)

権田村の農家から「小栗歩兵」へ

銀十郎は、権田村の字水有の農家に生まれました。権田村は、旗本・小栗家の知行地(領地)の一つです。(小栗家の領地・権田村とは)

幕末、小栗は幕府の軍制改革を進め、フランス式の陸軍を取り入れました。そのころ小栗家は、領地の権田村から若者を江戸へ呼び、歩兵として訓練させていたと伝わります。銀十郎もその一人で、東善寺によれば、築地の講武所でフランス式陸軍の訓練を受けました。洋式の銃を扱い、隊を組んで動く、新しい時代の兵です。

このとき江戸で歩兵になった権田村の若者が何人いたのか、正確な名簿は見つかっていません。のちに権田村で小栗を守った歩兵の数は、資料によって16人とも約20人ともいわれます。

慶応4年3月4日、二千人の暴徒を追い払う

慶応4年(1868年)2月、幕府の役職を解かれた小栗は、家族や家臣とともに江戸を離れ、3月1日に権田村へ着きました。村の東善寺を仮の住まいにして、近くの観音山に新しい家を建てはじめます。

ところが着いて3日目の3月4日、近くの村々の博徒や百姓およそ2000人が、権田村に押し寄せました。小栗が江戸から大金を運んできたという噂が広まっていたためといわれます。小栗は家臣・歩兵・村の猟師などおよそ100人を5つの組に分けて迎え撃ち、暴徒を追い払いました。

夜明け前、権田村に迫る暴徒の松明の列と、柵の内で身構える小栗方(イメージ)
権田村に迫る暴徒と、迎え撃つ小栗方(イメージイラスト)

このとき活躍したのが銀十郎でした。東善寺は、銀十郎が機敏に働き、その功で中小姓格(主君のそば近くに仕える家臣の格)に取り立てられたと伝えています。高崎哲郎氏の紹介では、銀十郎の戦いぶりはめざましく、的確に銃を撃って暴徒を倒したとされています。ただし、この場面で銀十郎の名前を挙げた小栗自身の日記の記述は、今回確認できていません。

権田村での小栗の暮らしと、暴徒襲撃のくわしい経過は小栗上野介はなぜ殺されたのかにまとめています。

小栗の死、そして会津への逃避行

閏4月、新政府軍(東山道総督府)は小栗に謀反の疑いをかけ、閏4月6日、取り調べもないまま水沼河原で斬首しました。翌7日には養子の又一も高崎で斬られています。

その直前、小栗は身重の妻・道子(30歳)、母・くに(63歳)、又一の許婚で養女の鉞子(15歳)を、村役人の中島三左衛門に託していました。三左衛門は村の若者たちで護衛隊をつくり、閏4月6日の夕方、会津を目指して権田村を出ます。銀十郎は、この護衛隊の一員でした。

一行は、吾妻の山あいから六合(くに)村の和光原へ入り、野反池、地蔵峠を越えて越後の秋山郷へ。そこから十日町、新潟を経て、閏4月の末に会津若松へたどり着きました。いまも車が通れない山道を含む、決死の旅です。途中、くにと鉞子の組は善光寺参りを装って信州回りの道をとり、越後の堀之内村で道子の組と偶然合流しています。

逃避行のくわしい道のりは小栗忠順の妻はどう会津へ落ちのびたのか、護衛隊長の三左衛門については中島三左衛門とは何をした人物かで紹介しています。

町野源之助の隊に加わる—三国峠・小出島の戦い

銀十郎は、護衛の旅の途中から会津軍に加わりました。会津側の記録『累及日録』によると、小栗の死後、銀十郎は同じ権田村の佐藤福松(福吉)、塚越冨五郎(富吉)とともに、越後の浅貝宿にいた会津藩の町野源之助(主水)の隊に属したとされます。

町野隊はそのころ、上州と越後の境の三国峠を守っていました。三国峠の戦い(閏4月下旬)では新政府軍に押されて越後側へ退き、小出島(いまの新潟県魚沼市)の戦い(閏4月27日)でも敗れて、会津へ引き揚げます。銀十郎はこの二つの戦いに加わったと、東善寺は伝えています。三国峠の戦いについては沼田藩(三国峠の戦い)でもふれています。

なお、小板橋良平氏の研究をもとにした説明では、町野隊が浅貝宿にいた閏4月中旬に、銀十郎ら小栗の旧臣十数人が町野を訪ね、そのうち数人が隊に加わったとされます。この時期、道子たちの一行はまだ越後へ向かう山中にいました。銀十郎がどの時点で一行と分かれたのかは、はっきりしていません。

権田村から会津へ、夜明け前の山道を越える小栗忠順の妻と母(イメージイラスト)
権田村から会津へ、山道を越える道子たちと護衛の村人(イメージイラスト)

会津に入ってからは、町野の朱雀士中四番隊に付属する「誠志隊」として各地を転戦しました。8月には町野がこの隊の隊長になっています。

9月11日、熊倉の戦いで戦死

慶応4年8月、新政府軍は会津若松の城下に攻め入り、会津藩は鶴ヶ城(若松城)に籠城しました。城の外では会津の諸隊が戦いを続け、9月10日、町野らは喜多方方面から熊倉(いまの喜多方市熊倉町)に陣を敷きます。

9月11日の朝、会津勢は近づく新政府軍を十分に引きつけてから反撃し、大きな損害を与えて退けました。会津側が勝った数少ない戦いの一つとして、「熊倉の戦い(熊倉戦争)」と呼ばれています。銀十郎はこの戦いで戦死しました。数えで21歳でした。戦死したときの具体的な様子を伝える記録は、今回見つかっていません。

鶴ヶ城(会津若松城)の天守と走長屋
会津若松の鶴ヶ城。銀十郎たちが送り届けた道子は、この城下で守られました

銀十郎たちが命がけで守った道子は、6月10日に会津で女の子を産みました。小栗のただ一人の遺児・国子です。(小栗忠順の子孫はいるのか)

熊倉に残る「佐藤銀十郎信一墓」

銀十郎の墓は、戦死した熊倉の杉の下墓地にあります。熊倉小学校の北、農道沿いの墓地で、正面の桜の大木の下です。墓石には次のように刻まれています。

  • 正面:「本国 上野」「佐藤銀十郎信一墓」
  • 右側面:「明治元戊辰年」
  • 左側面:「九月十一日行年二十一」

「信一」は銀十郎の名乗り(実名)と考えられます。誰がこの墓を建てたのかは記録がなく、東善寺は、ともに戦った町野主水か、次に紹介する中根米七ではないかと推測しています。

この墓は長いあいだ地元でひっそり守られてきました。昭和62年(1987年)の秋、小栗の研究家・小板橋良平氏が「佐藤銀十郎の墓を探している」と話したところ、地元の研究者が「その人の墓はありますよ」と案内し、所在が確かめられたといいます。平成19年(2007年)11月には、傾いた墓を、東善寺と会津歴史研究会・喜多方史談会の人たちが据え直しました。

墓の隣で自刃した会津藩士・中根米七

銀十郎の墓のすぐ右隣には、ひときわ大きな「中根米七の墓」があります。中根は会津藩士で、戊辰戦争では銀十郎とともに戦った人です。戦後、明治9年(1876年)の思案橋事件(旧会津藩士らによる挙兵計画)にかかわって追われる身となり、明治11年(1878年)6月24日、銀十郎の墓の脇で割腹して果てました。

そのとき中根は、かぶっていた菅笠を、かたわらの墓石にかぶせていたと伝わります。熊倉の出身でもない中根が、わざわざこの墓地を選んだこと、そして銀十郎の墓に笠をかけていたことから、東善寺は、中根が銀十郎の墓を建てるのに力を尽くした人だったのではないか、と考えています。

熊倉の墓前顕彰祭

平成30年(2018年)9月11日、戦死からちょうど150年の日に、熊倉史学会の主催で墓前顕彰祭が開かれました。対象は佐藤銀十郎、中根米七、そして熊倉の代官・川手幸八の3人です。川手は、城へ運びきれなくなった代官所の米を敵に渡さないよう焼き払い、その責任をとって8月21日に切腹した人です。群馬からは小栗上野介顕彰会の会員らも参列し、地元の新聞でも報じられました。

上州の農家の若者が、会津の人たちの手で150年後も弔われている。銀十郎の短い生涯は、権田村と会津を結ぶ縁として、いまも生きています。

東善寺の供養墓と家族

故郷の東善寺(高崎市倉渕町権田)の境内には、明治の初めに権田村の人々が建てた、小栗父子と家臣たちの供養墓が並んでいます。正面に小栗父子、左右に家臣と家族、会津で戦死した村人の墓が5基ずつ。その中に銀十郎の墓もあり、法名は「剱佐救清居士」です。権田の十王堂墓地にも銀十郎の墓があるとされます。

東善寺の「家臣の墓」の案内板。塚越冨五郎・佐藤銀十郎・渡辺太三郎・大井磯十郎・荒川祐蔵の名が並ぶ
東善寺の「家臣の墓」の案内板。右から二人目が佐藤銀十郎(筆者撮影)

家族については、生年月日、両親、きょうだいを伝える資料は見つかっていません。わかっているのは、権田村字水有の農家の出であることだけです。

東善寺の参拝の様子は【現地取材】東善寺の参拝ガイドで紹介しています。

大河ドラマ『逆賊の幕臣』では

この記事を書いた時点で、佐藤銀十郎の配役は発表されていません。道子は上白石萌音さん、くには鈴木京香さんが演じます。会津への逃避行が描かれるなら、護衛の若者として登場する可能性があります。発表があればこの記事に追記します。

筆者の感想

東善寺の家臣の墓の前に立ったとき、ずらりと並ぶ墓の数に驚きました。小栗さんと一緒に斬られた家臣だけでなく、会津で戦死した村の若者の墓まであったからです。案内板で佐藤銀十郎の名前を見たとき、たった21歳で、生まれ育った権田村から遠く離れた会津の地で亡くなったのかと、胸がしめつけられる思いがしました。

身重の奥方さまと、年老いた母上さまを守って、道もないような山を越えていく。追っ手におびえながら、何日も歩き続ける。若いとはいえ、どれほど心細く、どれほど重い役目だったことでしょう。それでも銀十郎たちは、主君の家族を最後まで守り抜きました。武士ではない村の若者が、そこまでしたのです。小栗さんがどれほど村の人たちに慕われていたかが、この一事からもよくわかります。

そして、熊倉の墓の隣で自刃した中根米七の話には、言葉を失いました。ともに戦った上州の若者の墓に笠をかぶせ、その脇で命を絶つ。会津の人たちは、よそから来た銀十郎を、仲間として最後まで大切にしてくれたのだと思います。いつか熊倉の杉の下墓地を訪ね、桜の木の下の銀十郎に手を合わせたいと思っています。

▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る

▶ 大河『逆賊の幕臣』特集の記事一覧(全110本)を見る

小栗忠順のゆかりの地をめぐる

小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。

倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。

泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。

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