沼田藩の歩み
第11代沼田藩主となった「土岐頼之」は、寛政の改革で有名な「松平定信」の孫であったが、徳川幕府とはあまり深く関わらずにきました。慶応三年(1867年)四月に家督を「土岐頼知」に譲って隠居したが、依然として藩への影響力を持ち、翌年に勃発した「戊辰戦争」では桑名藩や会津藩と姻戚関係にありながら新政府軍の側につきました。

新政府軍が【現地取材】沼田城・沼田藩まで進出するとこれを迎え入れ恭順の意を示し、「三国峠の戦い」で会津藩兵と戦いました。
明治二年(1869年)六月、「土岐頼知」は版籍奉還して藩知事となり、明治四年(1871年)七月の廃藩置県で沼田藩は廃藩となり、沼田県に、次いで群馬県となりました。そして、土岐氏は明治十七年(1884年)の華族令により、子爵に列せられました。
※真田信之と小松姫の像
真田氏ゆかりの沼田城
沼田藩は、上野国利根郡(現在の群馬県沼田市)に置かれた三万五千石の藩で、かつて真田氏が拠点とした沼田城を居城としました。幕末の藩主は土岐家で、上州北部の山あいの要地を治め、越後へ抜ける街道を押さえる立場にありました。
三国峠の戦い
戊辰戦争において沼田藩は新政府軍に恭順し、上州と越後の境をなす三国峠で、会津方の勢力と戦いを交えました。北関東と北越を結ぶ峠道の攻防に加わったのです。山国の小藩が、戊辰戦争の一つの前線を担った様子を伝えています。
隠居した父が、藩を動かしていました
十一代・土岐頼之は松平定信の孫にあたり、弘化四年十月に家督を継いだあと、文久三年に学問所奉行、元治元年九月には若年寄まで進んでいます。慶応三年四月十六日に長男の頼知へ家督を譲って隠居しましたが、そのあとも藩への影響力を残しました。頼知が朝廷の命で上京して新政府に恭順の意を示したのは慶応四年四月のことです。桑名藩や会津藩と姻戚だったと伝えられますが、誰と誰がどう繋がるのかを具体的に示した資料は見あたりませんでした。
三国峠の戦いで、沼田藩は後方にいました
三国峠の戦いは慶応四年閏四月二十一日から二十四日にかけて起こりました。会津側は郡奉行・町野源之助にひきいられた百三十余名が大般若塚に布陣し、新政府軍は前橋藩・高崎藩・吉井藩・佐野の約六百名を主力とし、後方の沼田藩や安中藩などを含めると千二百から千五百名にのぼったとされます。二十三日に高崎藩の二百名が山側から、吉井・佐野の百八十名が谷側から、本隊二百名が三国街道から三方向に攻めかかり、雨で中断したのち、二十四日未明の濃霧のなかで総攻撃となりました。会津側は町野源之助の弟で十七歳の久吉ら四名を失い、浅貝と二居に火を放って退いています。沼田藩については須川宿と沼田城に進駐していたと記録されるだけで、出した兵の数も戦死者もわかっていません。
城跡と、土岐家の資料
沼田城は天和元年に真田信利が改易され、翌天和二年に幕命で破却され、そのあと土岐家の時代も天守は建てられず、三の丸に藩邸が置かれただけでした。跡地は昭和五十一年三月に沼田市の史跡に指定され、本丸跡に西櫓台と石垣、堀の一部が残っています。真田信吉が寛永十一年に鋳させた城鐘は群馬県の重要文化財で、公園にあるのは複製、原物は市の歴史資料館にあります。土岐家から昭和五十四年に沼田市へ寄贈された資料一括は、令和五年三月に市の重要文化財となりました。
小田原攻めの引き金となった沼田領
沼田城は、戦国時代の終わりに天下の行方を左右した城です。上野の沼田の地は、真田昌幸が武田家の滅亡後に押さえていましたが、関東の北条氏も強く欲しがり、豊臣秀吉の裁定によって、沼田城は北条氏に、近くの名胡桃(なぐるみ)城は真田氏にと分けられました。ところが天正十七年(1589)、沼田城の北条方の城代が名胡桃城を奪ってしまいます。秀吉はこれを自分の裁定に背いたものとして咎め、翌年、二十万を超える大軍で小田原の北条氏を攻めました。北条氏の滅亡と秀吉の天下統一は、この沼田の小さな城をめぐる争いから始まったのです。
真田信之と小松姫の城
北条氏の滅亡後、沼田は真田昌幸の長男・信之に与えられました。信之の妻・小松姫は徳川四天王・本多忠勝の娘で、関ヶ原の戦いの直前、西軍についた舅の昌幸が沼田城に立ち寄ろうとしたとき、門を閉ざして城に入れなかったという逸話が伝わっています。沼田の真田家はのちに分家となりましたが、五代目の真田信利が重い年貢で領民を苦しめ、天和元年(1681)に改易されました(真田家については埴科藩も参照)。
美濃守護の末裔・土岐家の沼田
寛保二年(1742)から沼田を治めた土岐家は、美濃の守護だった土岐氏の血を引く家で、江戸の初めに下総の守谷で大名となりました(守谷藩)。真田と北条が争った城は、最後は戦国の美濃の名門の子孫が守る城となって、幕末を迎えたのでした。
真田のあとの沼田—本多家の時代と、城跡を買い戻した藩士の子
真田家が去ったあとの二十二年と本多家
天和元年(1681年)に真田家が改易されたあと、沼田は約二十二年間、幕府の代官が治めました。元禄十六年(1703年)に本多正永が入り、宝永元年(1704年)に老中となって四万石を領しています。本多家は三代続いたあと、享保十五年(1730年)に駿河の田中へ移りました。この本多家は、のちに安房長尾へ移る家です(長尾藩)。
京都所司代から老中へ—土岐頼稔と、土岐家の藩主たち
本多家に代わって入ったのが土岐家です。土岐頼稔は京都所司代を経て寛保二年(1742年)六月に老中となり、同じ年の八月に沼田へ移りました。家格は譜代で、江戸城では帝鑑間に詰める家です。のちの藩主・定経は大坂城代を務め、天明元年(1781年)には年貢の引き上げに反対する「見取騒動」が起きましたが、領民の要求を受け入れて収めています。幕末の土岐頼之は文久三年(1863年)に学問所奉行、元治元年(1864年)から若年寄を務め、第二次長州征討にも加わりました。頼之は桑名藩・会津藩とも縁戚関係にありました。最後の藩主・頼知の正室は丹波亀山藩主・松平信義の娘です。
藩士の子・久米民之助が城跡を町に贈った
沼田藩士・久米権十郎の子として文久元年(1861年)に生まれた久米民之助は、工部大学校の土木科を首席で卒業し、宮内省で皇居正門の石橋の設計にかかわりました。のちに久米工業を起こして山陽線などの鉄道を造り、衆議院議員も四期務めています。民之助は大正五年(1916年)に沼田城跡を買い取り、大正十五年(1926年)に公園として町に寄贈しました。いまの沼田公園は、藩士の子が故郷に贈ったものだったのです。
いま城跡に残るもの
土岐家は城を建て直さず、城の外に屋敷を構えていました。城跡には土塁や内堀の一部、樹齢約四百年とされる桜が立つ西櫓台が残ります。鐘楼には城鐘の複製が下がり、毎日六時と十八時に鳴らされています。寛永十一年(1634年)に鋳られた本物の鐘は、沼田市歴史資料館にあります。明治維新のときの沼田藩士は六百六十四人。廃藩後は沼田県などを経て、明治九年(1876年)に群馬県になりました。
真田の城を、藩士の子が町に贈った
沼田は真田の城として語られがちですが、幕末まで百年以上治めたのは土岐家でした。その土岐家は城を建て直さないまま明治を迎えました。それを買い取って公園にしたのが、旧藩士の子だったという話に、この町の人たちの「沼田城」への思いの深さを感じます。
場所・アクセス・地図
沼田の現地を歩いた記録
沼田藩の城跡は、当サイトの運営者が実際に訪ねて撮影しています。記事は次の一本です。
残っている石垣や堀、現地の解説板に何が書かれているかは、文献だけでは分かりません。写真はすべて現地で撮影したものです。藩の歴史を読んだあとに、その藩が拠った場所を見てみてください。



