箱館戦争とは?五稜郭に立てこもった旧幕府軍の最後の戦いを図解でわかりやすく

北海道函館市の五稜郭。星の形をしたこの西洋式の城は、戊辰戦争の最後の舞台になりました。江戸を脱出した旧幕府の艦隊と兵が蝦夷地に渡り、半年あまり新政府軍と戦った「箱館戦争」です。

この記事では、箱館戦争がなぜ起き、どう戦われ、どう終わったのかを、進軍図とイラストで解説します。天童の戦いから続く、戊辰戦争の戦いシリーズの一本です。

目次

箱館戦争とは?ひとことで言うと

榎本武揚が率いる旧幕府の艦隊と兵が蝦夷地(北海道)に渡って五稜郭を拠点とし、新政府軍と戦った戊辰戦争の最後の戦いです。

期間明治元年10月(1868年12月)〜明治2年5月18日(1869年6月27日)
場所蝦夷地の渡島半島南部(現在の北海道函館市・松前町・江差町・北斗市など)
旧幕府軍総裁・榎本武揚、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三ほか。上陸時に約3,000人
新政府軍参謀・黒田清隆、山田顕義ほか。明治2年春に青森へ約8,000人が集まる
結果新政府軍の勝利。5月18日に五稜郭が開城し、戊辰戦争が終わる

なぜ旧幕府軍は蝦夷地へ向かったのか

引き渡されなかった艦隊

慶応4年4月、江戸城は無血で新政府に明け渡されました。このとき旧幕府の軍艦も引き渡されることになっていましたが、海軍副総裁の榎本武揚は、主力艦を手元に残します。新政府に渡したのは、旧式の4隻だけでした(戊辰戦争の海軍を比べる)。

手元に残った艦隊の中心が、オランダで造らせた最新鋭の軍艦開陽丸です。当時の日本で最も強い軍艦でした。

品川沖を脱出し、仙台で兵を集める

8月20日(1868年10月5日)、榎本は開陽・回天・蟠竜・千代田形の軍艦4隻と、咸臨丸・長鯨丸など運送船4隻の計8隻を率いて、品川沖を脱出します。途中で嵐にあって咸臨丸などを失いながらも、艦隊は仙台にたどり着きました。

仙台では、奥羽越列藩同盟が崩れつつありました。榎本の艦隊は、行き場を失った旧幕府の兵を次々に乗せていきます。大鳥圭介の伝習隊、新選組の生き残りを連れた土方歳三、衝鋒隊、仙台藩を脱した額兵隊。さらに、元老中の板倉勝静(備中松山藩)、小笠原長行、桑名藩主の松平定敬といった大名たちも加わりました。

「蝦夷地を開拓させてほしい」

榎本が掲げた目的は、職を失った旧幕臣たちに蝦夷地を開拓させ、北の守りにあたらせることでした。新政府に戦いを挑むというより、蝦夷地を旧幕臣の生きる場所として認めさせたい。そういう願いを込めて、艦隊は北へ向かいます。しかし新政府がそれを認めるはずはなく、蝦夷地での戦いは避けられないものになっていきました。

両軍の顔ぶれと兵力

旧幕府軍新政府軍
主な指揮官榎本武揚(総裁)、大鳥圭介、土方歳三、松平太郎、荒井郁之助(海軍奉行)、永井尚志黒田清隆、山田顕義(陸軍参謀)、増田虎之助(海軍参謀)
兵力上陸時に約3,000人。その後、合わせて4,000人あまりとされる明治2年2月までに約8,000人が青森に集結
艦隊開陽、回天、蟠竜、千代田形など(開陽は明治元年11月に沈没)甲鉄、春日、朝陽、陽春など
拠点五稜郭、弁天台場、千代ヶ岡陣屋、松前城青森(本営)

旧幕府軍には、フランス軍事顧問団のブリュネらも加わっていました。フランス式の訓練を受けた伝習隊が、陸の主力です。一方の新政府軍は、長州・薩摩をはじめ、津軽・松前・備前(岡山藩)など多くの藩の兵の連合軍でした。

戦いの流れ ― 上陸から開城まで

箱館戦争の進軍図。鷲ノ木上陸から五稜郭入城、松前攻略、新政府軍の乙部上陸と二股口・木古内・矢不来を経た箱館総攻撃まで
箱館戦争の進軍図(青=旧幕府軍、赤=新政府軍)。位置関係はおおよそです

明治元年10月:鷲ノ木に上陸し、五稜郭を奪う

10月20日から21日にかけて、旧幕府軍の約3,000人が、箱館の北にある鷲ノ木(現在の森町)に上陸しました。ここから二手に分かれて箱館を目指します。

  • 大鳥圭介の隊:内陸の峠下・七重を通るルート
  • 土方歳三の隊:海沿いの鹿部から川汲峠を越え、湯の川へ出るルート

10月22日の夜、峠下で新政府側の兵と最初の戦いが起きます。旧幕府軍はこれを破り、各地で勝ち進みました。箱館府知事の清水谷公考は五稜郭を捨てて青森へ逃れ、10月26日、旧幕府軍は五稜郭に無血で入城します。

11月:松前城を落とし、開陽丸を失う

蝦夷地で残る敵は、新政府側についた松前藩でした。土方歳三の隊が松前に向かい、11月5日、松前城をわずか数時間で落とします。

ところが、ここで大きな痛手を受けます。11月15日、旧幕府軍は江差を無血で占領しましたが、その夜、江差の沖にいた開陽丸が嵐で座礁し、やがて沈んでしまいました。最強の軍艦を、一度も新政府の艦隊と戦わないまま失ったのです。この損失が、のちの戦いに重くのしかかります。

暴風雪の夜、江差の沖で岩礁に乗り上げて傾く開陽丸と、ボートで脱出する水兵たち(イラスト)
江差の沖で座礁した開陽丸。旧幕府海軍の最強の軍艦は、一度も海戦を戦わないまま失われた(イメージイラスト)

12月:入れ札で総裁を選ぶ

11月下旬に松前藩兵が降り、蝦夷地は旧幕府軍のものになりました。12月15日、旧幕府軍は蝦夷地の平定を祝い、士官以上の入れ札(投票)で役職を決めます。総裁に榎本武揚、副総裁に松平太郎、陸軍奉行に大鳥圭介、海軍奉行に荒井郁之助。土方歳三は陸軍奉行並となりました。この政権は、のちに「蝦夷共和国」と呼ばれることもあります。

明治2年3月:宮古湾海戦

開陽丸を失った旧幕府軍にとって、最大の脅威は新政府の新しい軍艦甲鉄でした。鉄の装甲をまとった、当時としては破格の軍艦です。

3月25日の夜明け、旧幕府軍は、岩手県の宮古湾に停泊していた新政府艦隊に回天で斬り込み、甲鉄を乗っ取ろうとしました(アボルダージュ)。しかし甲鉄の機関砲に撃たれて失敗し、回天の艦長・甲賀源吾が戦死します。この戦いには土方歳三も回天に乗り込んでいました。海戦の流れと両艦隊の比較は宮古湾海戦とは、現地の石碑は宮古湾海戦の碑の記事で詳しく書いています。

4月:新政府軍の上陸と、二股口の戦い

雪がとけた4月9日、山田顕義の率いる新政府軍約1,500人が、日本海側の乙部に上陸します。新政府軍は三つの道で箱館を目指しました。

  • 松前口:海沿いに南へ下り、松前から木古内を経て箱館へ
  • 木古内口:山を越えて木古内へ
  • 二股口:内陸の山道をまっすぐ箱館へ
雪の残る山中の胸壁から銃を撃ち続ける旧幕府軍と、双眼鏡で谷を見る指揮官(イラスト)
二股口の戦い。胸壁にこもって新政府軍を退けた土方隊(イメージイラスト)

このうち二股口を守ったのが、土方歳三でした。台場山に胸壁(土を積んだ防壁)を築いて待ち構え、4月13日から翌日にかけての戦いで新政府軍を撃退します。兵たちは交代で銃を撃ち続け、熱くなった銃身を桶の水で冷やしながら戦ったと伝わります。4月23日からの二度目の攻撃も退け、新政府軍は25日、二股口から引き上げました。

しかし、戦いは海沿いで決まります。4月17日には松前城が奪い返され、29日には矢不来の陣地が破られました。このままでは二股口の土方隊は背後を断たれてしまいます。土方は勝っていた陣地を捨てて、五稜郭へ引き上げざるをえませんでした。

5月11日:箱館総攻撃と土方歳三の最期

5月11日の午前4時、新政府軍は陸と海から箱館への総攻撃を始めます。陸軍は箱館山の裏側からも上陸し、箱館の町は新政府軍の手に落ちました。

箱館湾で砲撃を受けた軍艦が大爆発を起こす海戦の場面(イラスト)
箱館湾海戦。蟠竜の砲弾が朝陽の火薬庫に当たり、朝陽は爆発して沈んだ(イメージイラスト)

同じ日、箱館湾では海戦も起きています。旧幕府軍の蟠竜が放った砲弾が、新政府軍の朝陽の火薬庫に当たり、朝陽は爆発して沈みました。旧幕府軍にとって、最後の大きな戦果でした。

町の中で孤立した弁天台場を救うため、土方歳三は五稜郭から兵を率いて出ます。そして一本木関門のあたりで銃弾を受け、戦死しました。35歳でした。最期の場所には、いま一本木関門跡の碑が立っています。

5月15日〜18日:弁天台場の降伏、千代ヶ岡、そして開城

5月15日、弁天台場が降伏します。ここには永井尚志や、新選組の隊士たちがいました(箱館の新選組)。

翌16日には、五稜郭の前を守る千代ヶ岡陣屋が攻め落とされます。ここを守っていたのは、浦賀奉行所の与力として、来航したペリー艦隊の旗艦に乗り込んで応対したことで知られる中島三郎助です。中島は撤退をこばみ、二人の息子とともに戦死しました(千代ヶ岡陣屋)。

新政府軍の参謀・黒田清隆は、榎本に降伏をすすめます。榎本は、オランダから持ち帰った国際法の本『万国海律全書』を、戦火で失われるのは惜しいとして黒田に贈りました。黒田はこれに酒樽を返して応えたと伝わります。5月18日、五稜郭は開城し、約1,000人が降伏。こうして戊辰戦争は終わりました。

戦いのあと ― 黒田清隆と榎本武揚

榎本武揚、大鳥圭介、松平太郎、荒井郁之助、永井尚志ら幹部7人は東京に送られ、牢に入れられました。新政府の中には榎本を処刑せよという声もありましたが、黒田清隆は、榎本の才能はこれからの日本に必要だとして、頭を丸めてまで助命を願ったと伝わります。

榎本らは明治5年に釈放されます。そして黒田のもとで北海道の開拓使に勤め、のちに海軍中将、駐ロシア公使としてロシアとの樺太・千島交換条約をまとめ、逓信・文部・外務などの大臣を歴任しました。大鳥圭介も、のちに清国公使や朝鮮公使を務めています(榎本武揚とは、大鳥圭介とは)。

新政府に最後まで刃向かった者たちが、その新政府の中枢で働いた。箱館戦争のあとには、庄内藩と西郷隆盛の関係(庄内藩の降伏とその後)に通じる、勝者と敗者の不思議な縁が残りました。

この戦いが示したもの

箱館戦争は、幕府の海軍がつくりあげた力が、最後に一か所に集まった戦いでした。オランダで学んだ榎本、フランス式の伝習隊、ペリー来航から幕府の海軍を支えてきた中島三郎助。幕府が二十年近くかけて育てた人と技術が、函館の地で尽きたことになります。

そして勝敗を分けたのは、陸の戦いよりも海でした。開陽丸が嵐で沈み、甲鉄の奪取に失敗した時点で、旧幕府軍は海を押さえられなくなりました。二股口で土方がどれほど守っても、海から兵を上げられれば背後を断たれてしまう。島国の戦いでは、海を制した側が勝つ。箱館戦争は、そのことをはっきり示した戦いだったと思います。

筆者の感想

日本の城郭のなかで、五稜郭だけはわたしにとって特別な存在です。初めてその姿を知ったときの衝撃は、いまでも忘れられません。星の形をした城など、それまで見たことがなかったからです。

ただ正直に言うと、高い石垣がそびえているわけでもないのに、これで守りは大丈夫なのだろうか、と思ったのも事実です。けれども、五つの稜堡のどこからでも大砲を撃てて、死角をなくすための設計だと聞いて、なるほどと納得しました。日本の城とはまったく違う考え方でつくられた城なのです。

そして、それ以上に驚いたのが「四稜郭」の存在でした。明治2年4月の終わりごろ、新政府軍の上陸に備えて旧幕府軍が五稜郭の北の台地に数日で築いた、四つの角をもつ小さな洋式の砦です(5月11日の総攻撃で落ちています)。五稜郭だけでなく、四稜郭まであった。そのことを知ったときの驚きは、五稜郭を初めて知ったときよりも大きかったかもしれません。

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場所・アクセス

五稜郭跡(五稜郭公園):北海道函館市五稜郭町44。函館市電「五稜郭公園前」電停から徒歩約15分。城内には復元された箱館奉行所があり、隣の五稜郭タワーからは星形の全体を見下ろせます。

文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです

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