春日丸【薩摩藩 仮装軍艦 幕末軍艦】

春日丸
藩名 薩摩藩
藩主 島津忠義(茂久)
船種 仮装軍艦
機関 蒸気外輪
備砲 14門
材質 木製
馬力 300馬力
写真 有
春日丸
春日丸の姿(パブリックドメイン/Wikimedia Commons)

■ 詳細
春日丸は木製外輪船で、イギリス船籍のキャンスー号(江蘇)という貨物船であったが、それを1867年11月3日に薩摩藩の「赤塚源六」が16万両で購入し、春日丸と改名させて就役させました。

幕府と薩摩・長州の間が険悪になる中、鳥羽伏見の戦いが勃発すると開陽丸と春日丸は阿波沖にて砲撃戦を行いました。これが日本史上初の近代的蒸気船同士の海戦である(阿波沖海戦)。春日丸はこの海戦の後、鹿児島に帰港しています。

その後、春日丸は箱館の旧幕府軍を討つための艦隊に加わりました。旧幕府軍は榎本武揚を総裁として、蝦夷地に独自の政権を立てていました。新政府の艦隊が宮古湾に停まっていたところへ、旧幕府軍の軍艦・回天丸が奇襲をかけます。回天丸は新政府の新しい装甲艦「甲鉄」に船体を寄せて斬り込みを図りましたが、甲鉄のガトリング砲と春日丸の大砲に撃ち返され、退きました(宮古湾海戦)。

この戦で30名の戦死傷者を出しました。この後、春日丸は箱館湾海戦など旧幕府軍の降伏まで海事に参加しました。

1863年イギリスのカウス港で建造、慶応3(1867)年十一月三日に薩摩に売却しました。
本来は通報艦だがその速力と大きさから砲を備え付けて、快速の戦艦として戊辰戦争から西南戦争まで活躍しました。

目次

薩摩藩が誇った快速艦「春日丸」

春日丸は、薩摩藩がイギリスから購入した外輪式の蒸気軍艦で、当時としては高速を誇りました。薩英戦争を経て軍備の近代化を急いだ薩摩藩にとって、春日丸は海軍力の中核を担う一隻となりました。

阿波沖海戦と若き日の東郷平八郎

戊辰戦争の緒戦にあたる1868年(慶応四年)一月の阿波沖海戦では、春日丸は旧幕府の旗艦・開陽丸と砲火を交えました。これは日本における近代的な蒸気軍艦同士の海戦の先駆けとされます。このとき春日丸には、のちに日本海海戦で連合艦隊を率いることになる若き薩摩藩士・東郷平八郎も乗り組んでおり、彼が実戦を経験した最初の舞台としても知られています。

明治海軍へ

戊辰戦争後、春日丸は明治新政府の海軍に引き継がれ、草創期の日本海軍を支える軍艦の一隻として活躍しました。

春日丸をもっと深く—清国が受け取らなかった船が、日本初の艦隊戦を戦う

買い手のつかなかった高速船

春日丸は1863年にイギリスで建造されました。もとの名を「キャンスー」といい、清国海軍向けに造られたものの、清国側が受け取りを拒んだために売りに出された船です。

これを慶応三年十一月、長崎でグラバー商会を介して薩摩藩が買い取りました。担当したのは赤塚源六。価格はおよそ十六万両とされる(諸説あり)。

幕末の艦船市場の実態が、この一件によく出ています。日本の藩が買えたのは、たいてい他国で行き場を失った船でした。甲鉄艦も南軍が受け取れなかった装甲艦であり、回天丸もプロイセン海軍の除籍艦でした。

要目—とにかく速い

建造 イギリス(1863年)
旧名 キャンスー(Kiangsu)
トン数 約1,015トン(諸説あり)
推進 外輪(木造・3本マスト・煙突2本)
出力 300馬力
速力 試運転16.9ノット/実用9〜10ノット
備砲 6門

揺動式の機械を積んだ日本の船としては最初とされます。そして何より速かったです。この速さが、まもなく春日丸の運命を決めます。

阿波沖—日本で最初の、蒸気軍艦同士の海戦

慶応四年正月、鳥羽・伏見の火蓋が切られると、兵庫にいた薩摩艦は脱出を図ります。これを追ったのが幕府の旗艦開陽丸でした。

開陽が二十五発、春日が十八発を撃ち合い、双方に死傷者は出ありませんでした。春日は速力にまさって鹿児島へ逃げ切り、僚艦の翔凰丸は機関故障のため自焼しています。

日本で最初の近代的な艦隊戦とされるが、実態は追いかけっこでした。ただし勝敗を分けたのが砲力ではなく速力だったという点で、この一戦は近代の海戦の性格をよく示しています。日本最強の軍艦は、速い船を捕まえられませんでした。

このとき春日丸に三等砲術士官として乗り組んでいたのが、東郷平八郎です。のちに日本海海戦を指揮することになる人物が(記念艦三笠と東郷平八郎)、日本で最初の蒸気軍艦の撃ち合いに居合わせていました。

宮古湾、箱館、そして西南戦争

明治二年三月の宮古湾では、甲鉄に斬り込んだ回天丸を砲撃して撃退する側に回りました。続く箱館湾海戦にも新政府軍の主力として参加しています。

明治三年、春日丸は薩摩藩から政府へ献納され、明治五年の海軍省発足とともに正式な海軍軍艦となりました。そして明治十年、西南戦争では鹿児島へ回航され、砲撃を加えています。

薩摩が買った船が、薩摩を撃ちました。維新を作った側が、維新の続きで撃ち合うことになった十年後の風景です。

春日は明治二十七年に除籍され、明治三十五年に売却されました。幕末に日本へ来た艦のなかでは、飛び抜けて長く働いた一隻です。

幕末軍艦一覧リスト

春日丸を船の型と持ち主から読む

春日丸の推進は外輪(外車)で、両舷の大きな輪が水をかいて進みます。外輪船は浅い水でも走りやすい一方、輪が砲撃の的になりやすく、軍艦としては次第にスクリュー船に置きかわっていきます(外輪とスクリュー)。船種は「仮装軍艦」。商船に大砲を積んだ仮装軍艦です(軍艦の格)。

当サイトで紹介している薩摩藩の船は、この春日丸を含めて16隻あり、そのうち帆船は1隻です。同じ薩摩藩の船には、開聞丸(輸送船)、永平丸(輸送船)、雲行丸(輸送船)、安行丸(伊呂波丸と同一船)(輸送船)、三邦丸(蒸気内輪船)、万年丸(仮装軍艦)、豊瑞丸(輸送船)、平運丸(ブリッグ級輸送船)などがあります。

参考資料:Wikipedia日本語版「春日丸」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。

持ち主の薩摩藩—鹿児島紡績所

日本初の洋式紡績工場 春日丸が薩摩藩の船となった慶応三年(1867)、鹿児島の磯では、イギリスから機械と技師を招いた日本で最初の洋式の紡績工場「鹿児島紡績所」が動き始めていました。斉彬が始めた集成館の事業を、藩主・忠義と久光が受け継いだものです。技師たちが住んだ「旧鹿児島紡績所技師館(異人館)」はいまも残っています。

船と工場 薩摩藩は、軍艦を買い入れるだけでなく、その国の工業の仕組みそのものを取り入れようとしていました。春日丸がのちに戊辰戦争で旧幕府の開陽丸と砲火を交えたころ、鹿児島では紡績の機械がすでに回っていたのです。

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