一本木関門跡:新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】

一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)

【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)の説明】
京都で新選組を結成してから鳥羽伏見の戦いで敗れ江戸に帰還し、大鳥圭介ら旧幕府軍と北関東で戦い、さらには会津戦争にも参加しました。各地で戦闘を重ねた土方歳三は新選組の生き残りを率いて仙台にまで流れてきました。

一本木関門跡/アクセス・場所・地図 新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】

ここで江戸湾を脱走してきた榎本脱走艦隊と合流し、一路蝦夷へと向かいました。蝦夷地では榎本武揚が蝦夷共和国を建国し、新政府軍と対峙しようとしていました。新政府は当然これを認めず、蝦夷征討軍を送り込んできました。

一本木関門跡/アクセス・場所・地図 新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】

旧幕府軍からなる榎本軍は各地で敗れ、軍艦も沈められ海軍を失い制海権をも失います。刻一刻と函館包囲網が狭まる中、五稜郭での籠城を嫌った土方歳三は函館山から奇襲してきた新政府軍を迎え撃つべく、新選組生き残り他、兵50名と共に一本木関門へ到着しここを死守していました。

一本木関門跡/アクセス・場所・地図 新選組結成から函館戦争の最後まで戦い抜いた新選組土方歳三最期の地碑【史跡 日本の歴史】

しかし、戦闘を指揮していた土方の腹部を銃弾が命中しその生涯を終えました。土方が戦死したあと「榎本武揚」は旧幕府軍の全責任を取って全面降伏しました。なお、土方が戦死した「一本木関門」跡地には「土方歳三最期の地碑」が建立され「一本木関門」も簡素だが復元されています。

この場所には常に土方歳三を惜しむ花が手向けられています。

目次

明治二年五月十一日、その日の箱館

土方歳三が倒れた日に何が起きていたのかを、時間を追って書いておきます。新政府軍の総攻撃は五月十一日(新暦六月二十日)の午前三時を期して始まりました。黒田清隆の三面作戦で、陸軍本隊が三方から五稜郭を囲み、海軍が箱館港と大森浜から挟み、奇襲部隊が箱館山の裏側へ上陸するという段取りです。

箱館山を登った七百名は、夜のうちに番兵を追って山を取り、午前十一時ごろには市街を制圧しました。火は三日三晩燃え続け、『函館市史』は八百戸余、別の資料は八百七十二戸が焼けたとしています。この日、旧幕府軍は五稜郭・弁天岬台場・千代ヶ岡陣屋に分断され、失地回復の望みが消えました。

一本木関門とは何だったのか

一本木関門は、明治元年十一月ごろに五稜郭を占めた旧幕府軍が市中取締のために設けた通行所でした。柏の大木が一本あったことが名の由来で、大森浜から函館港のあいだを横切る位置にあります。通行税は旅行者が百六十文、地元の人が二十四文でした。防御施設というより、人と物の出入りを押さえる関所です。土方はその関門の前へ出て、市街を奪い返そうとしました。

戦死をめぐって分かれていること

『函館市史』は「箱館奪還を目指して一本木関門から進撃したが、土方自身が腹部を撃たれて落馬絶命」と記しています。函館市文化・スポーツ振興財団は「僅かな兵を率いて出陣」「銃弾を腹部に受け落馬し、そのまま落命。享年三十五歳」としています。函館市の観光公式は率いた兵を「約五十名」としていますが、その部隊が額兵隊だったのか新選組の生き残りだったのかを特定した公的資料は見あたりません。

戦死した場所についても、一本木のほかに鶴岡町説、十字街の異国橋説があって確定していません。遺体の行方も分かっていません。財団は「戦死者の中から遺体は発見されなかったという」としています。時刻を特定した資料も見つかりませんでした。分からないことが多いまま、碑だけが場所を示しています。

碑が建ったのは昭和三十三年

「土方歳三最期の地碑」の裏面には「昭和三十三年十二月十四日 若松小学校同窓会 父母先生の会有志 建立」と刻まれています。地元の小学校の同窓会と父母の会が建てたものです。復元された一本木関門が総合福祉センターの敷地に置かれていますが、その整備年はわかっていません。

碑は函館市の指定文化財ではありません。函館市の市指定史跡は高田屋嘉兵衛碑など四件だけで、土方歳三最期の地も千代ヶ岡陣屋跡も入っていません。それでも花は絶えず、毎年の箱館五稜郭祭の初日には碑前祭が行われています。

市内の土方ゆかりの場所

五稜郭タワーの一階アトリウムに立像「五稜郭に立つ・土方歳三」、展望二階に座像があります。どちらも2003年12月、創業四十周年事業として小寺眞知子が制作したものです。谷地頭町の碧血碑は明治八年(1875年)の建立で、旧幕府軍戦没者およそ八百名を供養しています。大鳥圭介や榎本武揚が協賛し、土地を買って改葬したのは侠客の柳川熊吉でした。船見町の称名寺には土方と新選組隊士の供養碑があり、いまの碑は昭和四十七年に有志が建てたものです。土方の死を悼んだ商家が建てた旧碑は、明治の火災で失われました。

【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)・場所・アクセス】
北海道函館市若松町33-6(函館市総合福祉センター前緑地)

【一本木関門跡(土方歳三最期の地碑)地図】

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