箱館湾海戦とは?蟠竜が朝陽を沈め、榎本艦隊が尽きた戊辰戦争最後の海戦を図解でわかりやすく

箱館湾海戦の図(明治2年4月〜5月)弁天台場の前の旧幕府艦隊と新政府艦隊

明治2年(1869)5月11日の朝、箱館湾に大きな爆発音が響きました。旧幕府艦隊の小さな軍艦・蟠竜の撃った砲弾が、新政府軍の軍艦・朝陽の火薬庫に命中したのです。朝陽はわずか2分ほどで海に沈みました。けれどもこの日、旧幕府艦隊も最後の一隻まで戦う力を失います。これが「箱館湾海戦」です。

この記事では、かつて日本一の艦隊を誇った榎本武揚の旧幕府海軍が、箱館湾でどのように戦い、どう尽きていったのかを、なぜ3隻だけになったのか、どう戦われ、どう終わったのかの順に、進軍図とあわせて解説します。箱館戦争の全体の流れは箱館戦争とは?、その直前の奇襲作戦は宮古湾海戦とは?で紹介しています。

目次

箱館湾海戦とは?ひとことで言うと

箱館戦争の終わりに、箱館の港の中で旧幕府艦隊と新政府艦隊がくり返し撃ち合った海戦です。旧幕府艦隊は回天・蟠竜・千代田形の3隻と港口の弁天台場で、数でも船の強さでも上回る新政府艦隊を迎え撃ちました。蟠竜は朝陽を沈める大きな戦果をあげますが、3隻とも失われ、旧幕府海軍はここで姿を消しました。

期間 明治2年4月24日〜5月11日(1869年6月4日〜20日)。弁天台場の降伏は5月15日
場所 蝦夷地 箱館湾(現在の北海道函館市)
旧幕府艦隊 回天・蟠竜・千代田形の3隻と弁天台場。海軍奉行・荒井郁之助
新政府艦隊 甲鉄・春日・陽春・丁卯・朝陽など
結果 千代田形は座礁して奪われ、回天は浮き砲台となって焼け、蟠竜は朝陽を沈めたのち乗り捨てられた。旧幕府艦隊は全滅し、5月18日に五稜郭が開城した

なぜ旧幕府艦隊は3隻だけになったのか

日本一の艦隊から始まった

慶応4年(1868)8月、榎本武揚は江戸の品川沖から旧幕府の艦隊を率いて脱出しました。旗艦の開陽丸は、オランダで造られた当時の日本で最も強い軍艦です。艦隊の力では、新政府軍をはるかに上回っていました。くわしくは戊辰戦争の海軍を比べるで紹介しています。

開陽丸を失い、宮古湾でもしくじる

ところが明治元年(1868)11月、開陽丸は江差の沖で嵐に遭い、座礁して沈んでしまいます。助けに向かった神速丸も失いました。さらに新政府は、アメリカから鉄張りの軍艦・甲鉄を手に入れます。旧幕府側はこの甲鉄を奪おうと、明治2年3月25日に宮古湾へ奇襲をかけましたが失敗し、高雄も失いました(宮古湾海戦)。

こうして、箱館に残った旧幕府の軍艦は回天・蟠竜・千代田形の3隻だけになりました。一方の新政府艦隊は、甲鉄を旗艦に、春日・陽春・丁卯・朝陽などをそろえて北へ向かってきます。

旧幕府艦隊の軍艦・回天丸
旧幕府艦隊の主力・回天丸。宮古湾でも、箱館湾でも先頭に立って戦った(パブリックドメイン)

両艦隊の顔ぶれ

旧幕府艦隊 新政府艦隊
軍艦 回天(艦長・根津勢吉)
蟠竜(艦長・松岡磐吉)
千代田形(艦長・森本弘策)
甲鉄(旗艦)
春日・陽春・丁卯
朝陽(艦長・中牟田倉之助)など
陸の守り 港口の弁天台場(箱館奉行・永井尚志、新選組など) 陸軍が乙部・江差方面から箱館へ迫る
指揮 海軍奉行・荒井郁之助(総裁・榎本武揚) 新政府海軍(青森を拠点に出撃)

旧幕府艦隊の3隻は、どれも甲鉄より小さく、装甲もありません。そこで頼りにしたのが、箱館の港口に築かれた弁天台場でした。幕府が外国船に備えて造った六角形の砲台で、大砲を並べて港の入口をにらんでいます。旧幕府艦隊は、この台場の前に陣取り、台場と一緒になって敵を迎え撃つ作戦をとりました。

軍艦の大きさと大砲をくらべる

軍艦 排水量 大砲 ひとこと
旧幕府艦隊(3隻)
回天約1,678トン11門(13門とも)外輪で走る大型艦。旧幕府側の主力
蟠竜約370トン6門開陽丸の7分の1ほどの小艦
千代田形138トン3門日本で造った小さな砲艦。乗員35〜50名
合計約2,200トン20門ほど5月7日以降、動けるのは蟠竜だけ
新政府艦隊(主な5隻)
甲鉄1,390トン(1,800トンとも)300ポンド砲1門、70ポンド砲2門ほか。ガトリング砲も鉄張りの装甲艦。旧幕府側の砲弾が通らない
春日約1,000トン5門ほど薩摩藩の外輪艦。速さが自慢
陽春約690トン記録がはっきりしない秋田藩の艦。乗員102名
丁卯約125トン(異説あり)記録がはっきりしない長州藩の小型艦
朝陽約300トン12門5月11日に蟠竜に沈められる
合計約3,500トン—ほかに輸送船の延年なども加わった

数字だけを見ると、旧幕府艦隊も大型の回天がいるぶん、極端に小さいわけではありません。けれども、新政府艦隊には大砲の弾をはね返す鉄張りの甲鉄がいて、しかも船の数が多い。こちらが1隻失えば、それだけで戦力が大きく減っていく旧幕府側に対して、新政府側は1隻沈められても戦い続けられました。なお、乗組員の人数は艦ごとの記録がそろっておらず、正確にはくらべられません。

戦いの流れ ― 港の中の3週間

箱館湾海戦の図(明治2年4月〜5月)。弁天台場の前に陣取った旧幕府艦隊の回天・蟠竜・千代田形と、湾の外から攻め入る新政府艦隊の動き
箱館湾海戦の図(明治2年4月〜5月)。旧幕府艦隊は弁天台場の前に陣取り、湾に入ってくる新政府艦隊を迎え撃った

4月9日:新政府軍が蝦夷地に上陸

4月9日、新政府軍は箱館の西の乙部に上陸しました。陸では土方歳三が二股口で、大鳥圭介が木古内や矢不来で食い止めようとしますが、新政府軍は少しずつ箱館へ近づいてきます。海からは新政府艦隊が、旧幕府軍の陣地を沖から砲撃して陸軍を助けました。

4月24日:箱館湾で最初の撃ち合い

4月24日、新政府艦隊がいよいよ箱館湾に入ってきました。旧幕府側は回天・蟠竜・千代田形の3隻と弁天台場の大砲で迎え撃ちます。港の中で、船と船、船と台場が撃ち合う戦いになりました。先頭に立った回天は、この日だけで80発をこえる砲弾を受けながら戦いました。

4月29日:千代田形を失う

4月29日の夜中、千代田形が港の中で暗礁に乗り上げてしまいます。艦長の森本弘策は、もう動かせないと考えて大砲の火門に釘を打ち、機関をこわしてから乗組員を連れて船を離れました。ところが、潮が満ちると千代田形は自然に浮かび上がり、翌30日、漂っているところを新政府軍に拾われてしまいます。森本はこの責任を問われ、一兵卒に落とされました。

旧幕府艦隊は、ここで回天と蟠竜の2隻だけになりました。

5月7日:回天、浮き砲台になる

5月7日、新政府艦隊がふたたび湾内に攻め入ります。蟠竜は機関の故障で動けず、この日に応戦したのは回天だけでした。回天は甲鉄の砲弾で機関を撃ち抜かれ、自分の力では走れなくなります。

それでも回天はあきらめませんでした。港の浅瀬に船を乗り上げ、大砲を片側に集めて、動かない「浮き砲台」として戦い続けることにしたのです。蟠竜と弁天台場の援護もあって、この日も新政府艦隊を退かせました。

5月11日:蟠竜、朝陽を沈める

5月11日、新政府軍は陸と海から箱館への総攻撃をかけました。陸軍の一部は夜のうちに箱館山の裏側から上陸し、山の上から町へ攻め下ります。海では新政府艦隊が湾内に入り、旧幕府側の最後の軍艦となった蟠竜に砲撃を集めました。

蟠竜は弁天台場と浮き砲台の回天に助けられながら、たった一隻で新政府艦隊と撃ち合います。そして朝、蟠竜の撃った炸裂弾が朝陽の火薬庫に命中しました。朝陽は大爆発を起こし、2分ほどで沈んでしまいます。艦長の中牟田倉之助は大けがを負いながら、そばで見ていたイギリスの軍艦のボートに助けられましたが、副長の夏秋又之助をはじめ多くの乗組員が亡くなりました。戦死者の数は、記録によって50人あまりから80人ほどまで差があります。

旧幕府海軍にとって、これは戊辰戦争で最大の戦果でした。町の人びとが蟠竜に喝采を送ったとも伝えられています。

箱館湾海戦を描いた絵
箱館湾海戦を描いた絵(パブリックドメイン)

5月11日午後:艦隊の最期

けれども、蟠竜の奮戦もここまででした。新政府艦隊の集中砲火を浴びながら撃ち続けた蟠竜は、午後には砲弾を撃ち尽くしてしまいます。艦長の松岡磐吉は弁天台場の下の浅瀬に船を乗り上げさせ、機関をこわしてから、乗組員とともに台場へ逃げ込みました。浮き砲台の回天でも、荒井郁之助らが船を捨てて上陸し、五稜郭へ退きます。

主を失った回天と蟠竜には、火が放たれました。開陽丸に始まった旧幕府艦隊は、この日の箱館湾で全滅したのです。

戦いのあと ― 弁天台場の降伏、そして五稜郭開城

孤立した弁天台場と、土方歳三の最期

5月11日、箱館の町は新政府軍に押さえられ、港口の弁天台場は陸と海の両方から囲まれて孤立しました。台場には箱館奉行の永井尚志や、新選組の隊士たちが立てこもっています。

弁天台場(弁天岬台場)の古写真
弁天台場の古写真。港の入口に築かれた六角形の砲台で、旧幕府軍が最後まで立てこもった(パブリックドメイン)

この弁天台場を救おうと、土方歳三は五稜郭から兵を率いて出ました。しかし、町の入口の一本木関門のあたりで銃弾を受け、馬から落ちて亡くなります。

5月12日から:甲鉄、五稜郭を撃つ

旧幕府艦隊がいなくなった箱館湾は、新政府艦隊の思うままになりました。5月12日からは、甲鉄が湾の中から五稜郭へ砲撃を始めます。砲弾は五稜郭の中まで届き、建物をこわし、死傷者も出しました。陸から囲まれたうえに、海からも撃ち込まれる。海を失うとはどういうことかを、五稜郭の人びとは身をもって知ったのです。

5月15日、弁天台場が降伏

水も食べ物も尽きた弁天台場は、5月15日に降伏しました。新選組の最後の隊長となった相馬主計も、ここで降っています。翌16日には千代ヶ岡陣屋が落ちて中島三郎助が戦死し、5月18日、榎本武揚らは五稜郭を明け渡しました。箱館の新選組のその後は箱館の新選組で紹介しています。

船と人のその後

  • 蟠竜:燃えたのは帆柱だけで、船体はほとんど焼け残りました。のちにイギリス人が引き揚げて上海で修理し、明治6年に開拓使が買い取って「雷電丸」と名を変えます。明治10年には日本海軍の軍艦「雷電」になりました。
  • 朝陽の戦死者:海戦のあと、函館山に「己巳役海軍戦死碑」が建てられ、朝陽の乗組員がまつられています。
  • 荒井郁之助:海軍奉行だった荒井は許されたあと、明治政府で測量や気象の仕事につき、のちに初代の中央気象台長になりました。
  • 弁天台場:明治30年ごろに取り壊されました。石垣の石は、函館漁港の護岸に使われたといわれます。

この戦いが示したもの

箱館湾海戦は、船の数と強さで劣る側が、陸の砲台と組んで最後まで粘った戦いでした。動けなくなった回天は浮き砲台になり、最後の一隻になった蟠竜は朝陽を沈めました。乗組員たちの腕前と粘りは、敵だった新政府側の記録にも残っています。

それでも、開陽丸を失い、宮古湾で甲鉄を奪えなかった時点で、海の主導権はもう新政府側にありました。艦隊を失った箱館政権は、海からの補給も逃げ道もなくなり、1週間後に五稜郭を明け渡します。幕府が十数年かけて育てた海軍は、箱館湾で最後の砲声をあげて終わったのです。

現地を歩く ― 弁天台場跡と函館山

弁天台場は残っていませんが、函館どつくの正門前あたりに「弁天岬台場跡」の碑が建っています。路面電車の終点「函館どつく前」からすぐです。近くには「土方歳三最期の地」の碑(一本木関門跡)もあり、あわせてめぐることができます。函館山の山中には、朝陽の乗組員をまつる「己巳役海軍戦死碑」があります。

筆者の感想

函館には何度も行きました。函館山にも登りましたし、土方歳三が最期を迎えた一本木にも行きました。甲鉄からの砲撃は五稜郭にまで届いたともいわれていますよね。弁天台場も最後までよくがんばりました。

この戦いは、制海権を奪われた時点で勝敗は決まっていたのかもしれません。宮古湾でのアボルダージュ(接舷攻撃)が成功していたらね、と個人的には思いました。

あわせて読みたい

参考資料

  • 函館市『函館市史』通説編第2巻
  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社、1968年)

文:佐藤秀信
※図はイラストです

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