明治2年(1869)5月11日の夜明け前。箱館山の裏の切り立った崖を、新政府軍の兵がよじ登っていました。夜明けには山頂を奪い、箱館の町を見下ろします。同じころ、五稜郭の北からは4,000人の新政府軍が押し寄せ、海では最後の軍艦どうしの撃ち合いが始まっていました。
この日の朝、土方歳三は一本木関門のあたりで銃弾にたおれます。そしてわずか一週間後、五稜郭は開かれ、鳥羽伏見から1年半続いた戊辰戦争が終わりました。この記事では、箱館戦争の最後の山場「箱館総攻撃」を、進軍図とイラスト、古写真で解説します。
箱館総攻撃とは?ひとことで言うと
蝦夷地に上陸して箱館に迫った新政府軍が、5月11日に陸と海から一斉に攻めかかり、箱館山の奇襲で町を奪い、旧幕府軍を五稜郭・弁天台場・千代ヶ岱陣屋に追いこんだ戦いです。この日、土方歳三が戦死し、5月18日に榎本武揚らが降伏して戊辰戦争は終わりました。
| 日時 | 明治2年5月11日(1869年6月20日)。降伏は5月18日(6月27日) |
|---|---|
| 場所 | 箱館(現在の北海道函館市)の箱館山・一本木関門・弁天台場・五稜郭・四稜郭・千代ヶ岱陣屋など |
| 新政府軍 | 陸軍参謀・黒田清隆、海陸軍参謀・山田顕義。四稜郭方面に約4,000人、箱館山の奇襲に約700人。軍艦は甲鉄・春日・陽春・朝陽など |
| 旧幕府軍 | 総裁・榎本武揚、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三、箱館奉行・永井尚志、箱館奉行並・中島三郎助など |
| 結果 | 新政府軍の勝利。土方歳三が戦死。5月15日に弁天台場、16日に千代ヶ岱陣屋が落ち、18日に五稜郭が開城 |
なぜ箱館総攻撃が行われたのか
追いつめられた旧幕府軍
明治2年4月9日、新政府軍は蝦夷地の乙部に上陸し、海ぞいの道と山の道から箱館をめざしました。二股口では土方歳三が一歩も引かずに守りましたが、海ぞいの木古内・矢不来が破られると、土方も台場山を捨てて退きます(二股口の戦い、木古内・矢不来の戦い)。
5月に入ると、新政府軍は箱館の北の有川あたりに集まり、総攻撃の準備を整えました。旧幕府軍に軍事を教えていたフランスの軍人ブリュネらは、5月2日、フランスの船で箱館を去ります。大鳥圭介らは七重浜の新政府軍に何度も夜襲をかけ、8日には榎本武揚みずから出陣しましたが、流れを変えることはできませんでした。

海でも力を失う
海の上でも、旧幕府軍は追いつめられていました。5月7日の海戦で回天が機関を壊されて浅瀬に乗り上げ、動ける軍艦は蟠竜1隻だけになります(箱館湾海戦)。弁天台場の大砲も、新政府軍の間者に使えなくされていたといわれます。
両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府軍
| 持ち場 | 指揮官 | この日の動き |
|---|---|---|
| 五稜郭 | 榎本武揚 松平太郎 |
総裁と副総裁。松平太郎は箱館の町を取り返そうと出撃したが失敗した |
| 五稜郭の北(亀田・桔梗野) | 大鳥圭介 | 伝習歩兵隊・遊撃隊・陸軍隊などを置き、自ら大砲を撃って戦ったが、夜には五稜郭へ退いた |
| 四稜郭 | 松岡四郎次郎 | 一聯隊が守ったが、権現台場を取られて退路を断たれそうになり、五稜郭へ退いた |
| 一本木関門 | 土方歳三 | 弁天台場を救いに向かう途中、一本木関門のあたりで撃たれて戦死した |
| 弁天台場 | 永井尚志 | 新選組などとともに立てこもった。15日に降伏 |
| 千代ヶ岱陣屋 | 中島三郎助 | 五稜郭の南の前線。16日、二人の息子とともに戦死した |
新政府軍
| 部隊 | 指揮官 | この日の動き |
|---|---|---|
| 箱館山の奇襲隊 | 黒田清隆 | 約700人が豊安丸・飛龍丸で箱館山の裏に上陸し、崖を登って山頂を奪った |
| 五稜郭の北の主力 | ― | 約4,000人。亀田・桔梗野・四稜郭へ攻めかかった。長州・薩摩をはじめ諸藩の兵からなる |
| 艦隊 | ― | 甲鉄・春日・陽春・朝陽など。朝陽は蟠竜に撃たれて沈んだ。翌日から甲鉄が五稜郭を砲撃した |
両軍の条件を比べる
| 旧幕府軍 | 新政府軍 | |
|---|---|---|
| 兵力 | 敗戦と脱走で数を減らしていた | 本州から兵が送られ続け、数で大きく上回った |
| 海 | 動ける軍艦は蟠竜だけ | 甲鉄など、海を完全に押さえていた |
| 守り | 五稜郭・四稜郭・弁天台場などの砦に分かれて守った | 陸と海から同時に、いくつもの方向から攻めた |
| 奇襲 | 箱館山の裏は崖で、見張りは少なかった | 夜のうちに裏から上陸し、地元の案内で山頂に出た |
戦いの流れ
夜明け前:箱館山の奇襲
5月11日の午前4時、新政府軍は陸と海から一斉に動き出しました。その少し前、黒田清隆の率いる約700人が、豊安丸と飛龍丸に分かれて箱館山の裏側に近づいていました。豊安丸の部隊は山の北西の山背泊から上陸して弁天台場のうしろに回り、黒田が率いる飛龍丸の部隊は西の寒川あたりから上陸して、切り立った崖をよじ登ります。山頂にいた旧幕府軍の見張りは驚いて逃げ、夜が明けるころには、箱館山は新政府軍のものになっていました。
山の上から町を見下ろせるようになった新政府軍は、港の旧幕府艦隊や町を守る部隊を撃ちはじめます。箱館山にいた新選組の番兵たちは、弁天台場へ逃げこみました。
海の上の最後の勝利
箱館湾では、残った蟠竜1隻が新政府軍の艦隊に立ち向かいます。そして蟠竜の撃った砲弾が朝陽の火薬庫に当たり、朝陽は大爆発を起こして沈みました。旧幕府軍の兵たちは歓声をあげたといいます。しかし弾を撃ちつくした蟠竜も浅瀬に乗り上げ、乗組員は弁天台場に移りました。
一本木関門:土方歳三の最期
箱館山が奪われ、弁天台場が囲まれそうだという知らせは、五稜郭の土方歳三のもとにも届きました。土方は弁天台場を救うため、わずかな兵を連れて町へ向かいます。途中で陸軍奉行添役の大野右仲と会い、一本木関門まで来たとき、ちょうど蟠竜が朝陽を沈めました。
土方は「この機を逃すな」と大野に前進を命じ、退いてくる兵には「退く者は斬る」と伝えたといいます。大野が前に出て、逃げてきた兵が関門を通ったのを確かめて引き返すと、土方が撃たれて亡くなったことを知らされました。午前9時ごろのことでした。35歳でした。

五稜郭の北と町の陥落
五稜郭の北では、約4,000人の新政府軍が亀田や桔梗野に押し寄せました。大鳥圭介は東へ西へと走り回り、自ら大砲を撃って戦いましたが、夜には五稜郭に退きます。四稜郭の一聯隊も、五稜郭とのあいだにある権現台場を取られると、退路を断たれるのを恐れて五稜郭へ逃げこみました。
午前11時ごろには、新政府軍が箱館の町を押さえます。副総裁の松平太郎は町を取り返そうとしましたが果たせず、旧幕府軍に残されたのは五稜郭・弁天台場・千代ヶ岱陣屋の三か所だけになりました。町では火事が起こり、872戸が焼けたといわれます。
戦いのあと
箱館病院の高松凌雲
この日の戦いのさなか、箱館病院では院長の高松凌雲が、敵も味方も分けへだてなくけが人を手当てしていました。病院に新政府軍の兵がなだれこみましたが、薩摩藩士の山下喜次郎が高松の話を聞き入れ、門に「薩州隊改め」と書き残して引き上げたといわれます。のちに高松は、この縁で新政府軍と榎本のあいだの降伏交渉を取り持つことになりました。
弁天台場・千代ヶ岱、そして五稜郭開城
12日からは、甲鉄が箱館湾から五稜郭に砲弾を撃ちこみはじめます。黒田清隆は高松凌雲を通じて降伏を勧めますが、榎本は14日にこれを断りました。そのとき榎本は、オランダ留学で手に入れた国際法の本『海律全書』を「戦火で失うのは惜しい」として黒田に贈ったといわれます。
15日、食べ物の尽きた弁天台場で永井尚志ら240人が降伏しました(箱館の新選組)。16日には、千代ヶ岱陣屋の中島三郎助が退却命令をこばんで最後まで戦い、二人の息子とともに戦死します。これが箱館戦争で最後の戦いでした(千代ヶ岡陣屋)。
そして5月18日、榎本武揚らは五稜郭を出て降伏しました。慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いから1年半近く。戊辰戦争は、ここに終わりました(箱館戦争)。

この戦いが示したもの(筆者の感想)
箱館総攻撃の勝負を決めたのは、箱館山の裏の崖をよじ登った700人でした。旧幕府軍は五稜郭や四稜郭、弁天台場と、たくさんの砦を築いて守りを固めていました。けれども、町を見下ろす山の上を取られただけで、守りはあっという間に崩れてしまいます。どんなに立派な砦をつくっても、相手が思いもよらない方向から来れば意味がない。戦いの怖さをあらためて感じます。
そして、土方歳三です。新選組の副長として京都で恐れられ、鳥羽伏見から宇都宮、会津、そして蝦夷地まで戦い抜いた人が、最後は弁天台場の仲間を救おうとして命を落としました。降伏が目前に見えていたこの時期に、なぜ自ら前線へ出ていったのか。いろいろな見方がありますが、「退く者は斬る」という言葉に、最後まで新選組の土方であろうとした姿を見る思いがします。

筆者にとって、五稜郭は日本の城のなかでも特別な存在です。四稜郭という砦があると知ったときにも驚きました。西洋式の星形の城に立てこもった人たちが、最後に何を思ってこの日を迎えたのか。函館の町を歩くと、そんなことを考えずにはいられません。
現地を歩く ― 箱館総攻撃の史跡
- 五稜郭(函館市五稜郭町):旧幕府軍の本拠。箱館奉行所が復元されている(五稜郭)
- 一本木関門跡・土方歳三最期の地碑(函館市若松町):土方歳三が撃たれたとされる場所(一本木関門跡)
- 弁天台場跡(函館市弁天町):永井尚志や新選組が立てこもった台場の跡(弁天台場跡)
- 四稜郭(函館市陣川町):五稜郭の北に急いで築かれた砦(四稜郭)
- 中島三郎助父子最期之地碑(函館市中島町):千代ヶ岱陣屋の跡
- 箱館山(函館市):黒田清隆の部隊が裏の崖から登った山
あわせて読みたい
- 箱館戦争とは?五稜郭に立てこもった旧幕府軍の最後の戦い
- 箱館湾海戦とは?蟠竜が朝陽を沈め、榎本艦隊が尽きた戦い
- 二股口の戦いとは?土方歳三の不敗の陣
- 木古内・矢不来の戦いとは?海から撃たれた旧幕府軍
- 峠下・七重村の戦いとは?箱館戦争のはじまり
- 箱館の新選組|榎本武揚|大鳥圭介
参考にした資料
- Wikipedia「箱館戦争」(箱館総攻撃・戊辰戦争終結の節)
- 函館市史 通説編2(函館市地域史料アーカイブ)
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。肖像写真・古写真はパブリックドメイン


