明治元年(1868)10月22日の夜。初雪の舞う蝦夷地・峠下(とうげした)の村で、旧幕府軍の小さな一隊が宿をとっていました。率いるのは遊撃隊の人見勝太郎と伝習隊の本多幸七郎。懐には、箱館府知事にあてた嘆願書がありました。「戦うつもりはない。蝦夷地を開拓させてほしい」という願いです。
ところがその夜、宿は箱館府軍の夜襲を受けます。ここから半年におよぶ箱館戦争が始まりました。二日後、旧幕府軍は七重村と大野村で箱館府軍を破り、五稜郭を手に入れます。この記事では、箱館戦争の幕開けとなった「峠下・七重村の戦い」を、進軍図とイラスト、当事者の古写真で解説します。

峠下・七重村の戦いとは?ひとことで言うと
蝦夷地に上陸した榎本武揚らの旧幕府軍が、五稜郭へ向かう途中の峠下で箱館府軍の夜襲を受け、これを退けたうえで、七重村・大野村で箱館府軍を打ち破った戦いです。箱館府は五稜郭を捨てて青森へ逃れ、旧幕府軍は上陸からわずか一週間ほどで箱館を手に入れました。
| 日時 | 明治元年10月22日〜24日(1868年12月5日〜7日) |
|---|---|
| 場所 | 蝦夷地の峠下・七重村・大野村(現在の北海道亀田郡七飯町・北斗市) |
| 旧幕府軍 | 大鳥圭介の率いる伝習隊、人見勝太郎の遊撃隊、新選組など。別の道を土方歳三の隊が進んだ |
| 箱館府軍 | 箱館府知事・清水谷公考のもとに集まった弘前藩・福山藩・大野藩・松前藩の兵と箱館府兵 |
| 結果 | 旧幕府軍の勝利。箱館府は五稜郭を捨てて青森へ退き、旧幕府軍は10月26日に五稜郭へ入った |
なぜ峠下で戦いが起きたのか
蝦夷地をめざした旧幕府艦隊
江戸開城のあと、旧幕府海軍を率いる榎本武揚は艦隊を引き渡さず、8月に品川沖を脱走しました。仙台で大鳥圭介や土方歳三ら奥羽の戦場を生き延びた兵を乗せ、めざしたのは蝦夷地です。旧幕臣たちの手で蝦夷地を開拓し、北の守りにあたる。それが榎本たちの描いた筋書きでした(箱館戦争)。
10月20日、艦隊は箱館から北へ離れた内浦湾の鷲ノ木に兵を上陸させます。箱館を守っていたのは、新政府が置いた箱館府でした。奥羽の諸藩の兵は戦争のために引き上げてしまい、箱館府は弘前藩や福山藩・大野藩に急いで援軍を頼んでいました。

二手に分かれて箱館へ
旧幕府軍は二手に分かれて箱館をめざしました。大鳥圭介の隊は峠下・七重を通る本道を、土方歳三の隊は海ぞいに鹿部から川汲峠(かっくみとうげ)を越える道を進みます。ただ、榎本たちはできれば戦わずに箱館に入りたいと考えていました。そこで、知事の清水谷公考に嘆願書を届けるため、人見勝太郎・本多幸七郎ら30人ほどを先に行かせたのです。

両軍の顔ぶれと兵力
旧幕府軍
| 部隊 | 指揮官 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 伝習隊 | 大鳥圭介 本多幸七郎 |
フランス式の訓練を受けた旧幕府の歩兵。峠下に駆けつけたあと、大野村の松前藩の陣屋を落とした |
| 遊撃隊 | 人見勝太郎 | 嘆願書を運ぶ先発隊として峠下で夜襲を受け、24日は七重村で戦った |
| 新選組 | ― | 遊撃隊とともに七重村で戦った |
| 土方隊 | 土方歳三 | 別の道を進み、川汲峠の箱館府兵を追い払って湯の川に入った |
箱館府軍
| 部隊 | 大名家・石高 | この戦いでの動き |
|---|---|---|
| 弘前藩 | 津軽家 10万石 |
家老・杉山成知のもと4小隊が駆けつけた。峠下の夜襲に加わった |
| 福山藩 | 阿部家 10万石 |
約700人。秋田から箱館に着いたばかりだった |
| 大野藩 | 土井家 4万石 |
約170人。福山藩とともに野田豁通に率いられて箱館に着いた |
| 松前藩 | 松前家 3万石格 |
大野村に陣屋を置いていたが、大鳥の伝習隊に落とされた |
| 箱館府兵 | ― | 100人あまり。知事・清水谷公考の手兵 |
両軍の条件を比べる
| 旧幕府軍 | 箱館府軍 | |
|---|---|---|
| 兵 | 伝習隊・遊撃隊・新選組など、鳥羽伏見から奥羽まで戦ってきた兵 | 各藩から急いで集めた寄せ集めで、着いたばかりの部隊も多かった |
| 訓練 | 伝習隊はフランス式の訓練を受けていた | 藩ごとに装備も戦い方もばらばらだった |
| ねらい | できれば戦わずに箱館に入りたかった | 上陸した敵を、箱館に入る前に止めたかった |
| 季節 | 雪の降りはじめた初冬の蝦夷地。どちらにとっても寒さとの戦いでもあった | |
戦いの流れ

10月22日夜:峠下の夜襲
嘆願書を運ぶ人見・本多の一隊は、22日の夜、峠下の村に泊まりました。そこへ、弘前藩兵らの箱館府軍が夜襲をかけます。上陸した旧幕府軍が蝦夷地で初めて経験した戦いでした。
人見たちは持ちこたえ、知らせを受けた大鳥圭介の本隊が駆けつけると、箱館府軍は退いていきました。話し合いで箱館に入るという望みは、この夜に消えたのです。峠下は、いまも「箱館戦争勃発の地」として知られています。

10月24日:大野村と七重村
峠下からは、旧幕府軍も二手に分かれました。大鳥は伝習隊を率いて大野村へ向かい、松前藩の陣屋を攻め落とします。いっぽう人見の遊撃隊と新選組は、藤山村から七重村へ進みました。
七重村では、箱館府軍の銃撃に苦しめられます。しかし旧幕府軍は、刀や槍を手にした斬りこみに持ちこみ、箱館府の部隊を打ち破りました。同じころ、海ぞいを進んだ土方歳三の隊も、川汲峠を守っていた箱館府兵をひと息に追い払い、湯の川へ入っています。


戦いのあと
五稜郭の無血入城
各地での敗北を知った清水谷公考は、五稜郭を捨てることを決めます。翌25日、箱館府の人々は秋田藩の陽春丸と、借りたプロイセンの船に乗って青森へ逃れました。10月26日(12月9日)、旧幕府軍は戦うことなく五稜郭に入ります。榎本は艦隊を箱館の港に入れ、上陸からわずか一週間ほどで箱館を手に入れました。

松前、そして蝦夷地の政権へ
箱館を押さえた旧幕府軍は、すぐに土方歳三を松前へ向かわせ、11月には松前城を落とします(松前城・館城の戦い)。12月には入札(選挙)で榎本武揚を総裁に選び、蝦夷地に独自の政権をつくりました。人見勝太郎は松前奉行となります。しかし翌年の春、新政府軍が海を渡って攻めてくると、旧幕府軍は二股口や木古内、矢不来で戦いながら、少しずつ五稜郭へ追いつめられていきました(二股口の戦い)。
この戦いが示したもの(筆者の感想)
峠下の戦いでいちばん心に残るのは、人見勝太郎たちが嘆願書を持っていたことです。旧幕府軍は、最初から戦争をしに蝦夷地へ来たわけではありませんでした。少なくとも、そういう形をとろうとしていた。それが一夜の夜襲で崩れ、半年におよぶ戦いが始まります。どちらが先に撃ったかで、その後の歴史の見え方は大きく変わるのだと感じます。
いっぽう、箱館府の側に立ってみると、奥羽の兵が引き上げた後の箱館は、ほとんど守る兵がいない状態でした。急いで集めた福山藩や大野藩の兵は、遠く瀬戸内や越前から来た人たちです。見知らぬ初冬の蝦夷地で、鳥羽伏見からずっと戦ってきた伝習隊や新選組とぶつかったのですから、勝ち目は薄かったでしょう。
人見勝太郎は、のちに茨城県令や利根運河の社長として明治を生き、80歳まで長生きしました。峠下の夜に嘆願書を抱えていた若者のその後を思うと、箱館戦争が「終わりの戦い」であると同時に、多くの人にとって「次の人生への入口」でもあったことに気づかされます。
現地を歩く ― 峠下・七重村の史跡
- 箱館戦争勃発の地(峠下)(七飯町峠下):人見勝太郎らが夜襲を受けた場所。説明板が立つ
- 峠下台場跡(七飯町峠下):旧幕府軍が峠下に築いた台場の跡
- 鷲ノ木上陸地(森町鷲ノ木):旧幕府軍が上陸した浜。戦死者を葬った墓もある
- 五稜郭(函館市五稜郭町):戦いのあと旧幕府軍が無血で入った西洋式の城
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- 松前城・館城の戦いとは?土方歳三が松前藩を攻め、藩主が津軽へ逃れるまで
- 二股口の戦いとは?土方歳三の不敗の陣
- 箱館湾海戦とは?
- 大鳥圭介
- 弘前藩|福山藩|大野藩|松前藩
参考にした資料
- 函館市史 通説編2(函館市地域史料アーカイブ)
- Wikipedia「箱館戦争」「人見勝太郎」
- 七飯町歴史館「ななえの史跡」
文:佐藤秀信
※進軍図・イラストはイメージです。肖像写真・古写真はパブリックドメイン(Wikimedia Commons)


