庄内藩の降伏とその後—負けなかった藩はなぜ降り、西郷隆盛と何が生まれたのか

鶴ヶ岡城の広間で新政府軍の参謀と向き合う庄内藩の重臣たち(イラスト)

天童を焼き、新庄城を落とし、秋田では久保田城の目前まで攻め上った庄内藩。戊辰戦争の戦場で、ほとんど負けることのなかった藩です。その庄内藩が、慶応4年の秋、ついに降伏します。

この記事では、負けなかった庄内藩がなぜ降伏し、どんな処分を受け、そのあと何が生まれたのかをたどります。天童の戦い、新庄の戦い、秋田戦争に続く、庄内藩の戊辰戦争シリーズの最終回です。

目次

庄内藩の降伏とは?ひとことで言うと

戦場では勝ち続けていた庄内藩が、奥羽越列藩同盟の崩壊によって孤立し、自ら兵を引いて降伏したできごとです。処分は思いのほか寛大で、その背後にいた西郷隆盛と庄内の人々との間に、深い縁が生まれました。

降伏明治元年9月26日(1868年11月10日)
場所出羽国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)
受け入れた側新政府軍参謀・黒田清隆(背後に西郷隆盛の意向)
処分藩主・酒井忠篤は謹慎。弟の忠宝が家を継ぎ、17万石から12万石へ減封。転封を命じられたが、献金によって撤回
その後旧藩主と藩士が鹿児島へ学びに行き、西郷の言葉が『南洲翁遺訓』としてまとめられる

なぜ負けなかった藩が降伏したのか

同盟が崩れ、孤立した

秋田戦争で書いたとおり、庄内藩を止めたのは秋田の戦場ではありませんでした。8月28日に米沢藩、9月12日に上山藩が降伏し、9月13日には同盟の盟主だった仙台藩も新政府に恭順します。会津若松城も籠城を続けていましたが、9月22日に開城しました。

東北で戦い続ける大きな藩は、庄内藩だけになっていました。どれほど戦場で勝っても、周りがすべて新政府に降れば、いずれ四方から攻められます。

領内には一歩も入れずに

9月14日、秋田にいた庄内勢は軍議を開いて撤退を決め、9月17日には鶴岡城で降伏が決まりました。9月23日までに全軍が領内に戻り、9月26日、庄内藩は降伏します。

庄内藩は最後まで、新政府軍を自分の領内に攻め込ませませんでした。城も城下も、戦火を受けないまま降伏の日を迎えています。勝ち続けたまま、自分から刀を収めた形でした。

降伏の場 ― 黒田清隆と西郷隆盛

降伏を受け入れたのは、新政府軍の参謀・黒田清隆でした。庄内藩の人々は、厳しい処分を覚悟していたはずです。庄内藩は戊辰戦争の前年、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちした藩でもありました。薩摩にとっては因縁の相手です。

ところが、降伏の扱いは穏やかなものでした。勝った側がおごった振る舞いをしてはならない、という西郷隆盛の考えが、黒田を通じて貫かれたと伝えられます。庄内の人々は、あとになってその寛大さの背後に西郷がいたことを知り、深く心を動かされました。

処分 ― 減封と、二度の転封命令

17万石から12万石へ

明治元年12月、処分が言い渡されます。藩主の酒井忠篤は謹慎となり、弟の酒井忠宝が家を継ぎました。石高は17万石から12万石へ減らされます。会津藩が領地を取り上げられ、遠く斗南へ移されたこと(斗南藩の人々)と比べると、たしかに軽い処分でした。

会津若松へ、そして磐城平へ

ただ、処分には転封もついていました。庄内藩は、ほかならぬ会津若松への移封を命じられます。さらに明治2年6月には、行き先が磐城平に変わりました。約250年住み慣れた庄内の地を離れなければならない。藩にとっても、領民にとっても大きな衝撃でした。

献金で転封を取り消す

庄内藩は、転封の取り消しを求めて動きます。中心になったのは重臣の菅実秀でした。新政府は70万両の献金を条件に転封の撤回を認めます。藩の一年分の歳費に当たる大金です。領内の豪商・本間家を中心に資金が集められましたが、70万両には届かず、30万両を納めたところで減額が認められました。

こうして転封は取り消され、明治3年、酒井家は庄内に戻ります。藩の名は明治2年9月に大泉藩と改められていました。

その後 ― 西郷隆盛と庄内の縁

旧藩主が鹿児島へ学びに行く

寛大な処分の背後に西郷がいたことを知った庄内の人々は、西郷に直接教えを受けたいと願いました。明治3年11月、旧藩主の酒井忠篤は、旧藩士78名とともに鹿児島に入り、およそ100日にわたって兵の訓練を受け、西郷のもとで学びます。かつて戦った相手の本拠地へ、旧藩主みずから出向いたのです。

その後も庄内からの往来は続き、明治8年には菅実秀が鹿児島を訪れて西郷と語り合いました。二人の交わりは、いまも庄内で大切に語り継がれています。

西南戦争と、二人の庄内藩士

明治10年、西郷は西南戦争を起こし、敗れて城山で自刃します。このとき、鹿児島で学んでいた庄内の若者、伴兼之と榊原政治が西郷軍に加わって戦死したと伝わります。二人は、西郷とともに鹿児島の南洲墓地に眠っています。

『南洲翁遺訓』が生まれる

西郷は「賊軍の将」として亡くなりました。その名誉が回復されたのは、明治22年の大日本帝国憲法の発布にあわせた大赦のときです。その翌年の明治23年、旧庄内藩士たちは、西郷から聞いた言葉を書き留めてきたものを一冊にまとめ、『南洲翁遺訓』として刊行しました。

「敬天愛人」の言葉で知られるこの本は、薩摩の人ではなく、かつて西郷と戦った庄内の人々の手によって世に出たものです。いま西郷の思想を知るうえで欠かせない一冊になっています。酒田市には、西郷と菅実秀の二人を祀る南洲神社も建てられています。

この戦いが示したもの

天童・新庄・秋田と、庄内藩の戊辰戦争をたどってきました。戦場ではほとんど負けず、それでも同盟の崩壊によって降伏した藩。そして、負けた側がのちに勝った側の将を慕い、その言葉を後世に残した藩でもあります。

戦争の勝ち負けは、戦場だけでは決まりません。けれども、戦いのあとに何が残るかもまた、戦場だけでは決まらない。庄内藩と西郷隆盛の話は、そのことを教えてくれます。天童で焼かれた町、新庄で焼かれた城下、秋田の地を戦場にされた人々の痛みと、庄内と鹿児島の深い縁。その両方が、同じ戊辰戦争の一部なのだと思います。

現地を歩く ― 鶴ヶ岡城跡

鶴ヶ岡城の水堀。戊辰戦争で庄内藩は領内に新政府軍を入れず、城は戦火を受けないまま降伏の日を迎えた
鶴ヶ岡城の水堀。戊辰戦争で庄内藩は領内に新政府軍を入れず、城は戦火を受けないまま降伏の日を迎えた
「本丸御殿御玄関跡」の標柱。藩庁を兼ねた藩主の御殿があった場所
「本丸御殿御玄関跡」の標柱。藩庁を兼ねた藩主の御殿があった場所
藩校・致道館の講堂に掲げられた「致道舘」の扁額。多くの庄内藩士がこの藩校で学んだ
藩校・致道館の講堂に掲げられた「致道舘」の扁額。多くの庄内藩士がこの藩校で学んだ

庄内藩の本拠地、鶴ヶ岡城の跡はいま鶴岡公園になっています。戊辰戦争で戦火を受けなかったこの城下には、藩校・致道館の建物も残っています。城と藩校、本間家については、【現地取材】鶴ヶ岡城と庄内藩校・致道館で詳しく書いています。

筆者の感想

奥羽越列藩同盟の側で、ただ一つ戦いに勝ち続けた藩。だからこそ、鶴岡にはずいぶん昔から来てみたいと思っていました。ようやく訪れることができ、深い感動がありました。

鶴ヶ岡城は本当に平城で、会津若松城のように天守が復元されているわけでもありません(もともと天守は上げず、御三階櫓を構えた城でした)。水堀はありますが、石垣もそこまで高くはなく、熊本城や大坂城、名古屋城のような見上げるほどの高石垣の城とは趣が違います。すぐ横には藩校・致道館の跡があり、中にも入ってみました。

戊辰戦争で最後まで負けなかった藩の本拠地であり、西郷隆盛との縁が生まれた場所でもあります。幕末史ではもっと注目されてよい土地だと思いますし、門や櫓をもっと復元してもよいくらいだと感じました。

▶ この戦いの地を旅するなら

筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。

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文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※アイキャッチはイラストです

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