| 千代田形 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクーナー級砲艦 | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 3門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 60馬力 | ||
| 写真 | 有 | ||
■ 詳細
「千代田」とは江戸城の別称。「形」とは「級」を意味し、当初計画では同型艦二十隻を建造の予定でした。 函館戦争には榎本艦隊に参加、明治政府軍に拿捕されました。以後は明治海軍に砲艦として使用され、明治二十一年廃艦。
幕府がつくった初の国産蒸気軍艦「千代田形」
千代田形は、江戸の石川島造船所で船体が建造された、幕府にとって初めての国産蒸気軍艦(蒸気砲艦)です。文久2年(1862年)に起工され、慶応2年(1866年)に完成しました。機関は長崎製鉄所、ボイラーは佐賀藩の三重津で製造されるなど、当時の日本の技術を結集してつくられた小型の砲艦です。なお、国内で建造された蒸気船としては薩摩藩の雲行丸や佐賀藩の凌風丸が先行しており、千代田形は「幕府初の国産蒸気軍艦」という位置づけになります。
箱館戦争での座礁と拿捕
千代田形は戊辰戦争で旧幕府軍に加わり、箱館戦争を戦いました。しかし1869年(明治2年)、箱館港内で暗礁に乗り上げて座礁しました。乗員が脱出したのち、満潮で船体が浮いたところを新政府軍に発見されて拿捕されるという、あっけない最期を迎えました。小型ながら、日本が自力で西洋式軍艦を造り始めた記念すべき一隻として、造船史のうえで重要な意味を持っています。
千代田形をもっと深く——幕府が自分の手で造った軍艦
江戸・長崎・三重津の三か所で造られた
千代田形は輸入艦ではありません。文久二年(1862年)に起工され、慶応二年(1866年)に竣工した、日本国内で建造された蒸気軍艦です。
面白いのは、一隻の船が三か所に分かれて作られたことだ。船体は江戸の石川島造船所、機関は長崎製鉄所、そしてボイラーは佐賀藩の三重津造船所で、からくり儀右衛門こと田中久重の父子が担当しました。設計は小野友五郎と春山弁蔵です。
幕府と佐賀藩の技術が、一隻の船の上で合わさっています。幕末の技術がどこに蓄積されていたかが、この分担によく表れています。
| 建造 | 日本(石川島造船所ほか、1866年竣工) |
|---|---|
| 排水量 | 138英トン |
| 推進 | スクリュー(蒸気機関1基) |
| 出力 | 60馬力 |
| 速力 | 5ノット |
| 備砲 | 3門 |
| 乗員 | 35〜50名 |
「日本初の国産軍艦」と言えるのか
千代田形はしばしば「日本最初の国産軍艦」と紹介されます。ただし正確には、少し注意がいます。
日本国内で造られた蒸気船としては、先に薩摩藩の雲行丸があり、佐賀藩の凌風丸があります。千代田形は三番目にあたります。したがって「国産蒸気船の第一号」ではありません。
正しくは「幕府の軍艦としては初の国産蒸気砲艦」、あるいは「国産の洋式軍艦の第一号」です。資料によってこの区別が曖昧なので、読むときは気をつけたい。いずれにせよ、開国からわずか十数年で自前の蒸気軍艦を造り上げたこと自体が、当時としては異例でした。
箱館へ、そして暗礁へ
明治元年八月、千代田形は榎本艦隊の一艦として品川沖を脱走しました。仙台を経て蝦夷地へ渡り、翌年四月には箱館で新政府艦隊に応戦しています。
ところが四月二十九日の夜、箱館港内で暗礁に乗り上げてしまいます。乗員は脱出し、翌日、船は新政府軍に拿捕されました。
榎本艦隊が失った艦の多くは、砲撃ではなく座礁や暴風によるものでした。開陽丸は江差沖の暴風で、千代田形は港内の暗礁で失われています。船を買う金はあっても、日本の海を知り尽くした操船技術までは買えなかった、ということです。
練習艦、そして「千代田丸」へ
明治三年、千代田形は海軍操練所へ引き渡され、練習艦となりました。日本人が初めて自分で造った軍艦が、次の世代の海軍士官を育てる船になったわけです。
明治二十一年に除籍されると千葉県へ交付され、日本水産会社に貸し出されて「千代田丸」と呼ばれました。解体されたのは明治四十四年ごろと伝わります。軍艦として生まれ、学校になり、最後は漁業の船として海に出ていました。
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