| 朝陽丸 | |||
| 藩名 | 江戸幕府 | ||
| 藩主 | 徳川慶喜 | ||
| 船種 | スクーナー級コルベット | ||
| 機関 | 蒸気内車 | ||
| 備砲 | 12門 | ||
| 材質 | 木製 | ||
| 馬力 | 100馬力 | ||
| 写真 | スケッチ | ||

■ 詳細
1856年に幕府が咸臨丸と共にオランダに10万ドルで発注、1858年に完成しました。江戸城占領時には、明治政府に引き渡されます。明治政府では榎本艦隊討伐艦隊に編入されました。函館湾沖海戦中蟠龍丸の攻撃で弾薬庫に被弾し撃沈されました。
オランダ生まれの蒸気砲艦「朝陽丸」
朝陽丸は、幕府がオランダに発注した蒸気砲艦で、幕府海軍の一隻として運用されたのち、戊辰戦争では新政府側の軍艦となりました。箱館に立てこもる旧幕府勢力を討つため、新政府艦隊に加わって蝦夷地へ向かいます。
箱館湾海戦での爆沈
1869年(明治二年)の箱館湾海戦で、朝陽丸は旧幕府軍の蟠龍丸と交戦しました。その最中、蟠龍丸の放った砲弾が朝陽丸の弾薬庫に命中して大爆発を起こし、朝陽丸は瞬く間に沈没しました。多くの乗組員が犠牲となりました。箱館戦争の激しさと、海戦の一瞬で勝敗が決する非情さを伝える出来事として知られています。
朝陽丸をもっと深く—咸臨丸の姉妹艦がたどった十一年
二隻まとめて注文された
朝陽丸は、幕府が海軍を作るためオランダに発注したコルベット二隻のうちの一隻です。もう一隻が咸臨丸でした。価格は一隻十万ドル。1856年にキンデルダイクで竣工し、当初は「エド(江戸)」という名でした。安政五年(1858年)、長崎に到着しています。
姉妹艦の咸臨丸は太平洋を渡って歴史に名を残しました。一方の朝陽丸は日本近海を走り続け、有名にはならませんでした。ところが最後には、姉妹のどちらよりも劇的な終わり方をします。
要目
| 建造 | オランダ・キンデルダイク(1856年) |
|---|---|
| 旧名 | エド(Yedo) |
| 排水量 | 約300トン |
| 推進 | スクリュー(木造スクーナー型コルベット) |
| 出力 | 100馬力 |
| 速力 | 6ノット |
| 備砲 | 12門 |
| 購入価格 | 100,000ドル |
日本人からも撃たれた船
文久三年(1863年)、朝陽丸は長州藩で奇兵隊に一時占拠される事件を起こしています。同じ年、明石海峡を通航中に阿波徳島藩から誤射も受けました。
攘夷の熱がもっとも高かった時期です。西洋式の船というだけで敵と見なされ、幕府の艦が日本人から撃たれました。船体を近代化しても、それを迎える岸のほうが追いついていませんでした。
敵と味方が入れ替わる
明治元年、朝陽丸は新政府へ引き渡されます。艦長に就いたのは佐賀藩の中牟田倉之助でした。翌明治二年の箱館戦争では新政府軍として松前を攻撃し、百七十発を撃ち込んでいます。
幕府がオランダに注文した船が、幕府を倒す側の主力として働きました。幕末の艦船はしばしばこういう経路をたどるが、朝陽丸ほど分かりやすい例も少ありません。
二分間
明治二年五月十一日の朝、箱館総攻撃のさなかに、旧幕府軍の蟠龍丸が放った砲弾が朝陽丸の火薬庫を捉えました。爆発から沈没まで、およそ二分。副長・夏秋又之助以下八十名が戦死し、艦長の中牟田は重傷を負って生き延びました。
日本の近代軍艦が敵の砲撃によって沈められた、最初の例です。そして撃った船はヴィクトリア女王が将軍に贈った軍艦で、沈んだ船は幕府がオランダに注文した軍艦でした。どちらも、もとは幕府の船です。幕末の海戦とは、結局のところそういう戦いでした。
幕末軍艦一覧リスト
朝陽丸を船の型と持ち主から読む
朝陽丸の機関は「内車」、つまり水の中のスクリュー(プロペラ)を回す方式です。推進器が外から見えず砲弾に当たりにくいため、幕末の軍艦の主流になった型です(外輪とスクリュー)。船種は「スクーナー級コルベット」。縦帆を主に使い少人数で動かせる「スクーナー型」の帆装を持つフリゲートより一回り小さいコルベットです(帆の張り方・軍艦の格)。
当サイトで紹介している江戸幕府の船は、この朝陽丸を含めて39隻あり、そのうち帆船は17隻です。同じ江戸幕府の船には、開陽丸(シップ級フリゲート)、豊安丸(輸送船)、長崎丸(輸送船)、震天丸(輸送船)、高雄丸(砲艦)、龜田丸(スクーナー船)、函館丸(スクーナー帆船)、君澤形丸(スクーナー帆船)などがあります。
参考資料:Wikipedia日本語版「朝陽丸」、Wikipedia日本語版「幕府海軍」ほか、博物館・自治体の公開資料。資料によって要目や日付が食い違う場合は、本文でその旨を書いています。
同じころの長州—朝陽丸事件
奪われた幕府の船 文久三年(1863)七月、幕府は下関で外国船を砲撃した長州藩を問いただすため、使者の中根市之丞らを朝陽丸に乗せて長州へ送りました。ところが長州の奇兵隊の兵たちは朝陽丸を取り囲んで占拠し、中根らはまもなく殺されてしまいます。幕府の使者が長州で殺され、幕府の軍艦が一時奪われるという前代未聞の事件でした。
その後の朝陽丸 朝陽丸はのちに幕府に戻され、戊辰戦争では新政府の手に移って、箱館戦争では新政府軍の艦として戦いました。そして明治二年(1869)五月、箱館湾の海戦で旧幕府の蟠龍丸の砲撃を受けて爆沈します。幕府の船として生まれ、幕府の船に沈められたのです。
幕府海軍の教育を担った人物については「矢田堀景蔵とは何をした人物か」で扱っています。
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