野辺地戦争とは?津軽の弘前藩が南部の野辺地を夜襲した戊辰戦争の最後の戦いを図解でわかりやすく

燃える馬門村を背に、野辺地川の大橋をはさんで撃ち合う両軍(イラスト)

明治元年(1868)9月23日の未明、陸奥の野辺地で、津軽の弘前藩兵と南部の盛岡藩・八戸藩の兵が戦いました。東北の戊辰戦争のほとんど最後に起きた戦いで、しかも盛岡藩が新政府への降伏を決めた直後のことでした。新政府軍の側に立った弘前藩が、なぜこのとき盛岡藩領に攻め込んだのか。そこには、戦国時代から続く南部と津軽の長い因縁がありました。

この記事では、野辺地戦争を、南部と津軽の因縁、戊辰戦争での両藩の動き、9月23日の夜襲の流れ、そして戦いのあとに残ったものの順に、進軍図を使ってわかりやすく解説します。盛岡藩が攻め込んだ秋田戦争と合わせて読むと、北東北の戊辰戦争の全体が見えてきます。

目次

野辺地戦争とは?ひとことで言うと

新政府軍の側についた弘前藩(津軽家)と黒石藩の兵約180人が、盛岡藩(南部家)領の野辺地を夜襲した戦いです。野辺地を守っていた盛岡藩と八戸藩の兵は、はじめ押されましたが、八戸藩勢の奮戦で弘前藩兵を退けました。弘前藩側は指揮官の小島左近をはじめ多くの死者を出しています。

日時 明治元年(1868)9月22日の夜から23日の未明
場所 陸奥国 野辺地(現在の青森県上北郡野辺地町)と、となりの馬門村
攻めた側 弘前藩(津軽家)・黒石藩の兵 約180人(新政府軍の側)
守った側 盛岡藩(南部家)・八戸藩の兵 約400人
結果 盛岡・八戸藩側が弘前藩兵を退ける。弘前藩側は指揮官の小島左近ら数十人が戦死。馬門村の家64軒と寺が焼ける

南部と津軽の長い因縁

津軽為信の独立

津軽の地は、もともと南部氏の領地でした。戦国時代の終わり、南部氏の一族だったともいわれる大浦為信がここで兵を挙げ、南部氏の城を次々に攻め落として津軽を手に入れます。為信はいち早く豊臣秀吉に近づいて津軽の領有を認めさせ、「津軽為信」と名乗りました。南部氏から見れば、家臣に領地を奪われたのと同じです。ここから、南部と津軽の長い対立が始まりました。

江戸時代も続いた対立と相馬大作事件

江戸時代になっても、両家の仲はよくなりませんでした。領地の境をめぐる争いがたびたび起こり、文政4年(1821)には、津軽家の家格が南部家と並んだことに怒った盛岡藩士・下斗米秀之進(相馬大作)が、参勤交代から帰る弘前藩主・津軽寧親をねらう事件まで起きています。計画は事前にもれて失敗しましたが、この「相馬大作事件」は江戸でも評判になりました。

戊辰戦争での両藩の動き

弘前藩—同盟に加わり、そして抜ける

弘前藩は、はじめ新政府に従う姿勢を見せていました。しかし東北の諸藩が奥羽越列藩同盟を結ぶと、まわりから孤立することを恐れて、5月にこれに加わります。ところが7月になると、隣の秋田藩(久保田藩)が同盟を抜けて新政府軍の側につき、中央の情勢を知った弘前藩も同盟を離れて、ふたたび新政府の側に立ちました。弘前藩はもともと、早くから朝廷を重んじる気風のある藩でした。

弘前藩・津軽家の居城だった弘前城。江戸時代の天守が今も残る、東北でただ一つの城

黒石藩とは

野辺地を攻めた兵には、弘前藩とともに黒石藩の兵も加わっていました。黒石藩は、弘前藩・津軽家の分家が治めた小さな藩です。

明暦2年(1656)、弘前藩主の叔父にあたる津軽信英が5千石を分けられ、陸奥の黒石(いまの青森県黒石市)に陣屋を構えたのが始まりです。はじめは大名ではなく旗本でしたが、文化6年(1809)に本家からさらに領地を分けられて1万石となり、大名の仲間入りをしました。藩の政治は、城ではなく黒石陣屋で行われています。

幕末の藩主は津軽承叙です。戊辰戦争では、黒石藩はいつも本家の弘前藩と行動をともにしました。同盟に加わり、同盟を抜け、野辺地にも兵を出し、のちの箱館戦争にも兵を送っています。津軽一門として、本家と歩みをそろえた支藩でした。

盛岡藩—秋田へ攻め込み、降伏へ

一方の盛岡藩は、同盟の側にとどまりました。8月には、新政府軍についた秋田藩領へ攻め込み、大館城を落とします(秋田戦争)。しかし9月に入ると、米沢藩・仙台藩が次々に降伏し、同盟は崩れていきました。9月21日、盛岡藩は降伏を決め、その知らせを各地の守備隊に伝えます。

野辺地という港

野辺地は、陸奥湾に面した盛岡藩の大事な港でした。津軽領との境に近く、弘前藩が新政府軍の側についてからは、八戸藩の兵およそ400人が盛岡藩兵とともに守りについていました。戦いの前には、新政府軍の側についた秋田藩の軍艦・春陽丸が、佐賀藩の中牟田倉之助の指揮で野辺地を砲撃しています。被害は小さかったものの、野辺地はすでに戦いの最前線になっていました。

9月23日、野辺地の夜襲

野辺地戦争の進軍図
野辺地戦争の進軍図。小湊口を出た弘前・黒石藩兵が馬門村を焼き、野辺地で盛岡・八戸藩兵とぶつかった(イラスト)

馬門村に放たれた火

9月22日の夜、津軽領との境の小湊口を守っていた弘前藩兵と黒石藩兵、あわせて約180人が、三手に分かれて野辺地へ向かいました。23日の未明、まず野辺地の手前の馬門村に攻め入り、村に火を放ちます。家64軒と寺が焼けました。

鳥井平と大橋の戦い

火の手を見た野辺地の守備隊は、すぐに村へ駆けつけ、弘前藩兵とぶつかりました。戦いは野辺地川の手前の鳥井平から、川の河口にかかる大橋のあたりで続きます。弘前藩兵は野辺地の村の中、守備隊の本陣が見えるあたりまで攻め込み、はじめは盛岡藩側が押されました。

燃える馬門村を背に、野辺地川の大橋をはさんで撃ち合う両軍
9月23日の未明、燃える馬門村を背に、野辺地川の大橋をはさんで撃ち合う両軍(イラスト)

しかし、八戸藩勢が踏みとどまって奮戦し、さらに弘前藩兵の退路を断とうと回りこみます。その中で弘前藩の指揮官・小島左近が討たれると、弘前藩兵は総崩れとなり、狩場沢まで退きました。

戦いの損害

弘前藩側の死者は、指揮官の小島左近をはじめ数十人にのぼりました。死者の数は記録によってまちまちですが、野辺地の墓所には弘前藩の戦死者27人がまつられています。盛岡藩側の損害は軽かったと伝わります。

戦いのあと

野辺地戦争は、盛岡藩がすでに降伏を決めたあとの戦いでした。それでも弘前藩にとっては、新政府の側に立ったことを形で示す意味がありました。弘前藩はこのあと、箱館戦争で新政府軍の補給の拠点となり、戦後は処罰を受けるどころか、加増を受けています。

一方の盛岡藩は、戦後、白石へ移されたうえ領地を大きく減らされました。勝ち負けが逆になった南部と津軽の明暗は、ここで決定的になります。

明治2年(1869)、弘前藩は使者を馬門村に送り、新政府軍の佐賀藩に迫られてやむなく攻めたのだと伝えて、村の建て直しのための米や材木を贈りました。同じ年、弘前藩の戦死者のうち27人をまつる墓が国の費用で野辺地に建てられ、いまも野辺地の人々によって供養が続けられています。

戦いの流れ

年月日 出来事
慶応4年閏4月〜5月奥羽越列藩同盟が結ばれ、盛岡藩が加わる。弘前藩も5月に加わる
慶応4年7月秋田藩が同盟を抜ける。弘前藩もやがて新政府の側へ移る
慶応4年8月盛岡藩が秋田藩領に攻め込み、大館城を落とす
明治元年9月21日盛岡藩が降伏を決める
明治元年9月22日 夜弘前・黒石藩兵約180人が小湊口から野辺地へ向かう
明治元年9月23日 未明馬門村を焼き、野辺地で戦う。八戸藩勢が奮戦し、弘前藩兵は狩場沢へ退く
明治2年野辺地に弘前藩戦死者の墓が建てられる。弘前藩が馬門村に米と材木を贈る

この戦いが示したもの

野辺地戦争は、勝ち負けが戦局を変えた戦いではありません。東北の戦いはすでに終わりかけていて、盛岡藩は降伏を決めていました。それでもこの戦いが起きたのは、新政府の側に立ったことを示したい弘前藩の事情と、何百年も続いてきた南部と津軽の対立が重なったからだといえます。

そして、この小さな戦いのあと、勝った側と負けた側の運命ははっきり分かれました。新政府の側についた弘前藩は加増され、同盟に残った盛岡藩は領地を減らされて白石へ移されます。戊辰戦争の最後の局面で、「どちらにつくか」という判断が、藩の行く末をどれほど大きく左右したかを、野辺地戦争はよく示しています。

現地を歩く—野辺地

野辺地町の鳥井平には、弘前藩の戦死者をまつる「野辺地戦争戦死者の墓所」があり、青森県の史跡に指定されています。老松に囲まれた墓域は手入れが行き届き、かつての敵味方を越えて供養が続けられている場所です。町の野辺地町歴史民俗資料館でも、戊辰戦争のころの野辺地について知ることができます。

筆者の感想

津軽のほうは、正直なところ、もっと何もわからないです。早い時期から勤王の藩だったことは知っていますが。でも、いちおうは奥羽越列藩同盟には加わったのですよね。

降伏を決めた盛岡藩に、そのあとで攻めかかるというのは、なんとも複雑な気持ちになります。ただ、南部と津軽の長い因縁を思うと、ただの戦いではなかったのでしょう。

翌年、焼いてしまった馬門村に米と材木を贈ったというところに、弘前藩の人たちの気持ちも少し見える気がします。

あわせて読みたい

参考資料

  • 青森県教育委員会「野辺地戦争戦死者の墓所」(県史跡)
  • 『野辺地町史』
  • 大山柏『補訂 戊辰役戦史』(時事通信社)

文:佐藤秀信
※進軍図・場面の絵はイラストです

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