天童の戦いとは?庄内藩が天童を焼いた戊辰戦争の一戦を図解でわかりやすく

山形県天童市の舞鶴山(まいづるやま)。将棋の町として知られるこの町は、戊辰戦争のさなか、庄内藩の軍勢に攻め込まれ、城と町の半分を焼かれています。それが「天童の戦い」です。

この記事では、天童の戦いがなぜ起き、どう戦われ、何を変えたのかを、進軍図とあわせて解説します。官軍の先導役を務めた家老・吉田大八の生涯と、舞鶴山の史跡については、【現地取材】天童・舞鶴山 ― 織田信長の末裔の藩と、町を救って散った家老・吉田大八で詳しく書いていますので、あわせてどうぞ。

目次

天童の戦いとは?ひとことで言うと

奥羽鎮撫総督府(新政府軍)の道案内役を命じられた天童藩が、討伐の標的だった庄内藩に先手を打たれ、一日で城下を焼かれた戦いです。

日時慶応4年閏4月4日(1868年5月25日)
場所出羽国天童(現在の山形県天童市)
攻め手庄内藩:酒井玄蕃(了恒)・酒井兵部(順孝)の各約500、民兵約100
守り手新政府側:天童藩、山形藩・館林藩・松前藩の援軍
結果庄内藩の勝利。天童城(天童陣屋)と市街の南半分、約230戸が焼失

なぜ天童が狙われたのか

先導役を命じられた二万石の藩

慶応4年3月、奥羽鎮撫総督・九条道孝の一行が仙台に入ります。このとき新政府は、天童藩主・織田家に奥羽鎮撫使の先導役を命じました。織田信長の次男・信雄の流れをくむ名門とはいえ、天童藩はわずか二万石。藩主の名代として先導役を務めたのが、中老の吉田大八でした。

総督府が最初に狙ったのは、会津藩と並んで「朝敵」とされた庄内藩です。庄内藩は江戸の市中取締りで薩摩藩邸を焼き討ちしており、薩摩の参謀・大山格之助らにとっては因縁の相手でした。

清川口の戦いで新政府軍が敗れる

4月24日、副総督・沢為量と大山格之助の率いる新政府軍は、新庄藩兵を伴って庄内領の入口・清川(現在の庄内町)に攻め込みます。しかし庄内藩はこれを撃退。これが清川口の戦いで、ここから庄内藩は守りから攻めへと転じていきます。

最上川が最前線になった

清川口の勝利の翌日、4月25日。酒井兵部(順孝)率いる庄内勢は、六十里越街道を越えて山形盆地側に入り、幕府領の年貢を預かる柴橋陣屋(寒河江市)を急襲しました。27日には谷地(河北町)にあった新庄藩の陣屋に討ち入り、29日には最上川を渡ってきた天童勢と銃撃戦になり、これを退けています。

この時点で、最上川の西岸に庄内勢、東岸に新政府側という構図ができあがりました。そして東岸の天童は、先導役の藩であり、鎮撫軍の本陣が置かれた場所でもありました。庄内藩から見れば、まず叩くべき相手だったのです。

両軍の顔ぶれと兵力

庄内藩(攻め手)新政府側(守り手)
主な指揮官酒井玄蕃(了恒)、酒井兵部(順孝)天童藩(吉田大八ら)
兵力谷地から約500、寒河江から約500、左沢の民兵約100天童藩兵に、山形藩・館林藩・松前藩の援軍(人数の記録は確認できず)
拠点谷地・寒河江(最上川の西岸)天童本陣、落合(最上川の東岸)

攻め手の酒井玄蕃は、のちに「鬼玄蕃」と呼ばれ、戊辰戦争を通じてほとんど負けなかった庄内藩の名将です。守る側は、二万石の天童藩に、上州館林や蝦夷地の松前といった遠方の藩兵が加わった寄せ集めでした。

戦いの流れ ― 一日の差で決まった先手

閏4月1日〜3日:両軍が同時に「攻める」と決める

閏4月1日、庄内勢は寒河江に集まり、総勢およそ千名となりました。2日には酒井玄蕃の部隊が谷地に入り、3日の軍議で天童攻撃が決まります。

同じ3日の夜、新政府側の鎮撫軍も軍議を開いていました。こちらの決定は「5日に谷地を攻撃せよ」。つまり両軍はほぼ同時に攻撃を決めており、庄内藩の方が一日早かったのです。

閏4月4日:三方向からの進軍

天童の戦い 進軍図(慶応4年閏4月4日)。庄内勢は谷地と寒河江から最上川を渡って天童を攻め、左沢の民兵は川を下って落合を落とした
天童の戦い 進軍図(慶応4年閏4月4日)。庄内勢は谷地と寒河江から最上川を渡って天童を攻め、左沢の民兵は川を下って落合を落とした

4日、庄内勢は三つのルートで動きました。

  • 酒井玄蕃の約500:谷地から最上川を渡り、天童の本陣へ
  • 酒井兵部の約500:寒河江から最上川を渡り、天童の本陣へ
  • 民兵約100:左沢(大江町)から最上川を舟で下り、山形藩の援軍が守る落合(中山町)を攻め落とす

北西と西から天童を挟み撃ちにしつつ、南の落合を押さえて山形からの援軍を断つ。小さな戦いながら、よく考えられた作戦です。

天童炎上

守る側は総崩れとなりました。庄内勢は天童城(天童陣屋)と、市街の南半分にあたる約230戸に火を放ちます。この焼き討ちは、庄内藩主・酒井忠篤の命令によるものではなく、現地の軍勢の判断だったとされています。

天童藩主・織田信敏と隠居の織田信学は、奥羽山脈を越えて仙台藩へ逃れました。吉田大八は老野森(天童市内)の民家に身を潜めます。援軍も散り散りになり、山形藩兵は山形へ、館林藩兵は漆山へ、松前藩兵は東根へと退きました。

その夜、酒井玄蕃は楯岡(村山市)に、酒井兵部は長瀞(東根市)に陣を張りました。天童を落とした庄内勢は、そのまま北へ押し出す勢いでした。

戦いのあと ― 勝った庄内藩が引き、負けた天童藩が孤立する

藩主の命令で撤退

翌5日、庄内藩主・酒井忠篤から命令が届き、庄内勢は谷地へ引き揚げます。忠篤は兵部にすぐ庄内へ戻るよう命じ、玄蕃には他藩との戦いを禁じました。庄内藩の首脳部は、もともと戦線を広げない方針だったのです。

一方で、この閏4月4日をもって、庄内藩と奥羽鎮撫総督府は正式に開戦したことになります。忠篤は官位を剥奪され、閏4月10日には庄内征伐が発令されました。庄内勢は玄蕃がしんがりを務めて、閏4月12日に六十里越街道を通って庄内へ撤退しています。

奥羽越列藩同盟と、吉田大八の最期

天童の戦いの直後から、奥羽の空気は大きく変わります。閏4月20日には総督府の参謀・世良修蔵が仙台藩士らに殺害され、5月3日には奥羽越列藩同盟が成立。二万石の天童藩に単独で動く力はなく、同盟に加わりました。

こうなると、新政府軍を先導した吉田大八は同盟のなかで責任を問われる立場になります。大八は6月18日、天童の観月庵で切腹しました。享年37。詳しくは吉田大八の現地取材記事をご覧ください。

この戦いが示したもの

天童の戦いは、庄内藩にとっては山形盆地での最初の本格的な戦いであり、奥羽諸藩にとっては「庄内藩は強い」ことをはっきり見せつけられた一戦でした。新政府の命令に従って先導役を引き受けた藩が、真っ先に焼かれた。その現実は、奥羽の諸藩が庄内討伐から距離を置き、列藩同盟へと傾いていく流れと無関係ではなかったと思います。

現地を歩く ― 舞鶴山と吉田大八の像

天童城跡のある舞鶴山(天童公園)。この日は雨模様だった
天童城跡のある舞鶴山(天童公園)。この日は雨模様だった

天童の戦いで焼かれた天童陣屋は、舞鶴山のふもとの市街地にありました。舞鶴山の上には戦国時代の天童城の跡があり、いまは天童公園として整備されています。山の上には将棋の「王将」の碑や展望台、そして吉田大八の銅像が立っています。

舞鶴山に立つ吉田大八の像。官軍の先導役を務め、天童の戦いの責めを負った
舞鶴山に立つ吉田大八の像。官軍の先導役を務め、天童の戦いの責めを負った

筆者の感想

この日はあいにくの雨で、妻は車で待つことにして、ひとりで舞鶴山を歩きました。天童の町を歩くと、とにかく将棋にちなんだオブジェがあちこちにあります。そのなかで一体の像が目にとまり、何だろうと説明文を読んでみると、思いのほか悲劇的な内容が書かれていました。吉田大八もまた、激動の幕末のなかでこうした運命をたどったのか。そして、同じような人はきっとほかにも数えきれないほどいるのだろうと、しみじみ思いました。

ただ、城跡としての遺構は吉田大八の像とその説明文くらいしかなく、少し寂しく感じました。門を復元したり、「○○跡」といった標柱を設置したりできないものかと思います。天童藩を治めた織田家に関する資料がまったく見当たらなかったのも残念でした。町と城を焼かれた戦いがあったことを、もっと現地で知ることができればと思います。

▶ この戦いの地を旅するなら

筆者が実際にめぐった旅の記録を、姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で紹介しています。

あわせて読みたい

場所・アクセス

天童公園(舞鶴山):山形県天童市天童字城山。JR天童駅から徒歩約20分。吉田大八の像、王将の碑、展望台などがあります。

文・写真:佐藤秀信(すべて現地で撮影)
※進軍図はイラストです

  • URLをコピーしました!
目次