この記事は、2027年NHK大河ドラマ『逆賊の幕臣』(2027年1月10日放送開始/主演・松坂桃李)の関連記事です。▶ 大河『逆賊の幕臣』特集に、関連記事とキャスト一覧をまとめています。

軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)は、安政4年(1857年)、江戸・築地に置かれた幕府の海軍の学校です。長崎の海軍伝習所で学んだ人たちが教官となり、勝海舟もここで教えました。万延元年(1860年)に太平洋を渡った咸臨丸の乗組員も、この学校から出ています。
そして明治になると、同じ築地に新政府の「海軍操練所」が開かれ、のちの海軍兵学校へとつながっていきます。築地は、幕府と明治の二つの時代にわたる「日本の海軍の出発点」でした。
軍艦操練所とは?—先に答え
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| いつ | 安政4年(1857年)に開かれた |
| どこ | 江戸・築地の講武所(幕府の武術の訓練所)の中 |
| 何をした | 幕府の海軍の士官や乗組員を育てた。航海術・砲術・造船などを教えた |
| 教えた人 | 長崎海軍伝習所の卒業生。矢田堀鴻、勝海舟ら |
| その後 | 軍艦所、海軍所と名を変え、幕府の終わりまで続いた |
| 明治 | 明治2年(1869年)、築地に新政府の海軍操練所。のちの海軍兵学寮・海軍兵学校 |
| 小栗との関係 | 小栗は元治元年(1864年)に軍艦奉行となり、幕府の海軍を受け持った |
▶ あわせて読みたい — 大河『逆賊の幕臣』関連
長崎から江戸へ—なぜ築地に学校ができたのか
ペリー来航のあと、幕府は西洋式の海軍を持つ必要に迫られました。安政2年(1855年)、長崎にオランダ人教官を招いた海軍伝習所を開き、旗本や諸藩の若者に航海術を学ばせます。勝海舟や矢田堀鴻、榎本武揚もここで学びました。
けれども長崎は江戸から遠く、オランダ人に頼り続けるわけにもいきません。そこで幕府は、伝習所で学んだ人たちを教官にして、江戸に自前の学校を開きます。それが、築地の講武所の中に置かれた軍艦操練所でした。
| 長崎海軍伝習所 | 軍艦操練所(築地) | |
|---|---|---|
| 開設 | 1855年 | 1857年 |
| 教官 | オランダ海軍の士官 | 伝習所を出た日本人 |
| ねらい | 西洋の海軍の技術を学ぶ | 幕府の海軍を自分たちで育てる |
何を教えていたのか
航海術、運用術(船の動かし方)、砲術、造船、蒸気機関、測量、そして数学やオランダ語などが教えられました。生徒は旗本・御家人の子弟が中心で、のちには諸藩からも受け入れています。長崎から回航された観光丸などが練習艦として使われました。

説明板によると、ペリーの来航後、西洋式の海軍が必要になった幕府は、旗本や御家人、諸藩の藩士から希望者を集め、航海術や海上砲術を学ばせ、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させるために、築地の講武所の中に軍艦教授所を開きました。のちの軍艦操練所です。講武所が神田小川町へ移ると、跡地一帯は軍艦操練所の専用地になりました。
はじめは旗本の永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所で学んだ人たちが教授方になりました。その後、向井将監や勝海舟らが頭取をつとめています。火事で焼けたときには南隣の広島藩浅野家の下屋敷へ仮に移り、のちに海軍奉行が置かれて「海軍所」と名を改めました。その海軍所も再び類焼して浜離宮の地へ移り、跡地には日本最初の洋式ホテル・築地ホテル館が建てられた、と説明板は結んでいます。(築地ホテル館の現地取材記事)
(説明板の内容をもとに、開設の年月や教官の名前を確かめて書き直す)
咸臨丸の太平洋横断
万延元年(1860年)、遣米使節を乗せたアメリカの軍艦ポーハタン号に付きそって、幕府の咸臨丸が太平洋を渡りました。指揮をとったのは軍艦操練所の教授方頭取だった勝海舟で、乗組員の多くは操練所の関係者でした。通訳のジョン万次郎、福沢諭吉も乗っています。
日本人の手で蒸気軍艦を動かし、太平洋を渡った。軍艦操練所が育てた力が、初めて世界に示された出来事でした。

小栗忠順と幕府海軍
元治元年(1864年)12月、勝海舟が軍艦奉行を罷免されると、その職に就いたのが小栗忠順でした。小栗はその後、勘定奉行として幕府の財政を預かりながら海軍奉行並も兼ね、横須賀製鉄所の建設や軍艦の買い入れを進めます。
軍艦操練所で育った士官たちが乗る船を、小栗が横須賀で造り、直す。幕府の海軍は、人を育てる築地と、船を造る横須賀の二本立てで大きくなっていきました。
軍艦所・海軍所へ、そして明治の海軍兵学校へ
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1857年 | 築地の講武所の中に軍艦操練所が開かれる |
| 1866年 | 軍艦所と改められる |
| 幕府の終わり | 海軍所と呼ばれる |
| 1869年(明治2年) | 新政府が築地に海軍操練所を開く(旧広島藩邸の跡) |
| 1870年 | 海軍兵学寮と改められる |
| 1876年 | 海軍兵学校となる |
| 1888年 | 海軍兵学校が広島県の江田島へ移る |
幕府の軍艦操練所と、明治の海軍操練所は、名前が似ていても別の学校です。それでも、同じ築地の地で、幕府の海軍で育った人たちが明治の海軍を支えました。戊辰戦争で旧幕府の艦隊を率いた榎本武揚も、のちに明治政府の海軍卿となっています。
【現地取材】軍艦操練所跡を歩く




軍艦操練所跡の説明板は、中央区築地六丁目二〇番地域、交差点の角の植え込みに立っています。今は車の行き交うふつうの街角で、ここが幕府海軍の学校だった面影はありません。説明板に載っている古い絵図を見て、ようやく当時はすぐそばまで海が迫っていたことがわかります。
軍艦操練所跡の説明板のすぐそば、隅田川の岸には「かちどきのわたし」と刻まれた石碑と、勝鬨の渡し跡の説明板があります。その先には勝鬨橋が架かっています。この川には、昔は矢口の渡しのような渡し船が行き来していたのだと、説明板を読んで初めて知りました。
勝鬨の渡し跡の説明板に書かれていること
中央区教育委員会の説明板(所在地:中央区築地六丁目二〇番先)には、おおよそ次のことが書かれています。
- 明治の中ごろ、埋め立てでできた月島と、築地・銀座方面を結ぶ渡し船「月島の渡し」が開かれた。その後、両地を行き来する人が増え、新たに「勝鬨の渡し」が開かれた
- 「勝鬨(かちどき)」の名は、京橋区の有志が日露戦争の勝利を記念して付けたもの。石碑の正面には「かちどきのわたし」、側面には京橋区で祝勝会が開かれた日に京橋区同志会が建てたことが刻まれている
- はじめの渡船場は、ここから西へ約150メートルの波除稲荷神社の先にあったが、関東大震災のあとに今の場所の近くへ移された。対岸の月島側の渡船場は、今の勝どき一丁目と三丁目の境あたりにあった
- 渡し船は、住民や月島の工場へ通う人たちの大切な足として大いに使われ、月島に働く人が集まり、地域が発展するのを支えた
- 関東大震災のあと、隅田川を行き来する大きな船を通すため、真ん中が跳ね上がる可動橋の工事が始まった。勝鬨橋が完成すると、渡し船は廃止された
- 市民の足として親しまれた勝鬨の渡しは、橋の名前にその歴史を受け継いでいる
勝鬨橋の銘板に書かれていること
勝鬨橋のたもとには、国の重要文化財に指定されたことを記す東京都の銘板があります。それによると、勝鬨橋は長さ246メートル。東京港を整える工事の一つとして、海の交通と陸の交通の両方を生かすことを目指してつくられました。真ん中の二つの橋桁がハの字形に跳ね上がる「シカゴ型二葉式跳開橋」で、国内では唯一のものです。完成した当時、跳ね上がる部分の長さは日本最大でした。両側はアーチ橋で、橋脚の中には橋を動かす機械が納められています。設計は東京市の技術者、施工も東京市でした。
軍艦操練所があったころ、この岸のすぐ先は海でした。幕府の海軍の学校があり、その跡に築地ホテル館が建ち、やがて月島が埋め立てられて渡し船が通い、最後に橋が架かる。説明板を順に読みながら歩くと、築地の水辺が移り変わってきた歴史がよくわかります。(築地ホテル館の現地取材記事)
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所 | 東京都中央区築地六丁目二〇番地域(交差点の角に説明板) |
| あわせて見たい | 海軍発祥の地の碑、築地ホテル館跡、築地本願寺 |
参考資料
- 『日本大百科全書』『山川日本史小辞典』「海軍操練所」の項ほか
- 現地の説明板(中央区)
小栗忠順のゆかりの地をめぐる
小栗のゆかりの地は、東京・横須賀・埼玉・群馬に集まっています。姉妹サイト「日本の歴史旅ガイド」で、都内から回るモデルコースを紹介しています。
- 【現地取材】小栗上野介ゆかりの地を1日でめぐる|築地・雑司ヶ谷・大宮・倉渕の回り方とモデルコース、ゆかりの地一覧(回る順番と移動時間、エリア別の一覧)
- 【現地取材】小栗上野介の生まれた場所はどこ?生誕地・神田駿河台の小栗家屋敷跡と横須賀のゆかりの地(ヴェルニー公園の胸像と、烏川の河原から運ばれた記念石。神田駿河台の生誕地)
- 小栗上野介ゆかりの地 ― 東京・横須賀・埼玉・群馬をたどる(まとめ)
- 倉渕・東善寺をめぐるモデルコース(都内発・車で1泊2日。墓所の東善寺、最期の地、普門院の首塚)
- 横須賀の日帰りコース(都内発。軍港めぐりで、小栗が始めた造船所を海から見られます)
倉渕(高崎市)の東善寺や最期の地は駅から離れているので、高崎駅前でレンタカーを借りると回りやすくなります。各社の料金はじゃらんレンタカーで比べられます(PR)。
泊まりがけで回るなら、宿は高崎駅の周辺か、倉渕から車で40〜50分ほどの伊香保温泉が便利です。横須賀は横須賀中央駅のまわりに宿が集まっています。空き室はじゃらんnet(高崎駅周辺・伊香保温泉・横須賀中央)で探せます(PR)。
小栗忠順をもっと知る本
記事の内容をもっと知りたい方に、小栗忠順を扱った本を紹介します。
※この欄の商品リンクはアフィリエイトリンク(PR)です。価格は掲載時点のものです。
2027年NHK大河ドラマ
『逆賊の幕臣』大河ドラマ特集
放送日・キャスト28人と相関・あらすじ・見どころから、主人公・小栗忠順の生涯とゆかりの地の現地写真まで、1ページで徹底解説しています。
▶ 大河『逆賊の幕臣』の登場人物を知る
- 宅麻伸さんが演じる徳川家慶とは何をした人物か—「そうせい様」と呼ばれた十二代、天保の改革と阿部正弘の抜擢、黒船十九日後の死
- ふかわりょうさんが演じる徳川家定とは何をした人物か—黒船の直後に将軍となった「お飾り」の十三代、ほんとうに暗愚だったのか
- 神尾楓珠さんが演じる徳川家茂とは何をした人物か—十三歳で将軍、和宮と結ばれ、二十一歳で大坂城に没した十四代
- 岩田剛典さんが演じる阿部正弘とは何をした人物か—二十七歳で老中首座、黒船に「みんなの意見」を聞いた宰相
- 北村一輝さんが演じる鳥居耀蔵とは何をした人物か—天保の改革の「妖怪」、蘭学者を陥れ、二十三年の幽閉を生き延びた南町奉行
- 柄本明さんが演じる徳川斉昭とは何をした人物か—攘夷の旗頭「烈公」、慶喜を将軍にしようと井伊直弼と争った水戸藩主
- 岡部たかしさんが演じる井伊直弼とは何をした人物か—埋木舎の部屋住みから大老へ、小栗忠順を世に出し桜田門外に散った人
- 中村雅俊さんが演じる安積艮斎とは何をした人物か—小栗家の屋敷で塾を開き、二千人を育てた儒学者
- 宮野真守さんが演じる滝川具挙とは何をした人物か—小栗家の隣人、鳥羽街道で「通せ」と押し問答した大目付
- 高橋光臣さんが演じる駒井朝温とは何をした人物か—小栗の三歳上の幼なじみ、次男を小栗家の養子に出した大目付
- 芝大輔さんが演じる朝比奈昌広とは何をした人物か—小栗と同い年、将軍家定のそばに仕え、長崎奉行・勘定奉行を務めた旗本
- 甲本雅裕さんが演じる佐藤藤七とは何をした人物か—世界一周した上州権田村の名主、五十四歳の遣米使節従者
- 草川拓弥さんが演じる荒川祐蔵とは何をした人物か—遣米使節の従者から、小栗とともに斬られた家臣へ
- ANIさんが演じる武笠祐左衛門とは何をした人物か—小栗家の用人、主の首を大宮へ運んだと伝わる小姓・銀之助の父
- 瀧内公美さんが演じる勝民子(たみ)とは何をした人物か—貧乏旗本の勝海舟を支え、「勝のそばには埋めないで」と遺した妻
- 青木崇高さんが演じる栗本鋤雲とは—箱館の医者からフランス通の幕臣へ、小栗忠順を書き残した人
- 大河『逆賊の幕臣』朝廷側のキャストが発表されました—孝明天皇・明治天皇・岩倉具視・鷹司政通とは何をした人か
あわせて読みたい
- 小栗忠順(小栗上野介)とは何をした人物か
- 小栗忠順と勝海舟—同じ幕府に仕えた二人は、なぜ正反対の道を選んだのか
- 万延元年遣米使節とは
- 小栗忠順と勝海舟を比べる—石高・家格・役職の表でみる、二人の幕臣の階段と結末
- 小栗家とは—三河以来の旗本は何石で、城はあったのか


