林田藩の歩み
林田藩は豊臣秀吉の家臣で尼崎郡代七百石であった「建部光重」の子「政長」が藩祖です。政長は「池田輝政」の養女を母とする池田氏の一族で「池田利隆」「忠継」兄弟が「大坂の役」で戦功を挙げ、元和元年(1615年)伯父の「池田重利」とともに摂津川辺郡・西成郡尼崎藩一万石を与えられ大名となりました。そして、元和三年(1617年)、宗家である姫路藩主池田家の転封により林田に移り、林田藩が成立しました。
建部氏は外様大名でありながら、幕府の要職を務め明治維新まで林田の地を治めました。歴代藩主の中には大番頭や伏見奉行、寺社奉行にもなった藩主もいます。7代藩主「政賢」は寛政六年(1794年)藩校「敬業館」を開きました。
慶応三年(1867年)十二月二十日、新政府が樹立されるとこの要請に応じて上洛します。明治元年(1868年)一月十五日、新政府から華頂宮博経親王などの警備を命じられ、戊辰戦争では新政府側に与して姫路藩征伐軍に参加しました。
林田藩は明治四年(1871年)の廃藩置県により林田県となり、その後姫路県、飾磨県を経て兵庫県に編入されました。その後藩主家は明治十七年(1884年)の華族令で子爵に叙されました。
兵庫県で唯一残る藩校の建物が、林田にあります
敬業館の講堂
敬業館講堂は平成四年(1992年)十二月二十一日に姫路市の指定重要有形文化財(建造物)となりました。所在地は姫路市林田町林田十三番地です。別の資料は、これを兵庫県内に残る藩校の遺構として唯一のものとしています。
建物には表玄関が三か所あり、藩主・教授・弟子という格式によって使い分けられました。西へ行くほど簡素になりますが、教える内容は同じでした。扁額は松平定信が書いたもので、藩士の子は八歳で必ず入学して十六歳で卒業し、庶民の希望者も入学を許される「士庶共学」でした。文久三年(1863年)の火災で焼けましたが、藩の財政が苦しい中でただちに再建されています。廃藩置県で廃校となったあとは敬業小学校、昭和三十八年まで村役場、その後は公民館として使われ、昭和五十四年から五十五年に復元工事が行われました。
敬業館の教授、河野鉄兜
河野鉄兜は文政八年十二月十七日に医者の家に生まれ、京都で梁川星巌に詩を学びました。嘉永四年(1851年)に林田藩の儒官となり、敬業館の教授を務めています。攘夷論者ではありませんでしたが、松本奎堂や頼三樹三郎といった勤王の志士と交わりました。慶応三年二月六日に四十三歳で亡くなっています。招いたのは九代藩主政和でした。
大庄屋の屋敷も残っています
林田大庄屋旧三木家住宅は、平成二年(1990年)三月二十日に兵庫県の指定重要有形文化財となりました。主屋・長屋門・長屋・三つの土蔵の六棟で、藩主を迎えるための御成門も残ります。古文書五千六十八点のうち六点が附として指定されています。
最後の藩主、建部政世
最後の藩主は建部政世です(「建部増勤」と表記する資料もあります)。政世は文久三年四月十八日に父政和の死去で家督を継ぎ、慶応三年十二月二十日に上洛、慶応四年一月十五日に新政府から華頂宮博経親王らの警備を命じられ、戊辰戦争では新政府側に付いて姫路藩の征討に加わりました。明治十年(1877年)六月十六日に二十四歳で亡くなっており、華族令より前なので授爵していません。子爵は建部秀隆が明治十七年七月八日に受けています。
一万石の藩の講堂が、県内でただ一つ残る藩校の建物になっています。
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港を預かった先祖と、小栗の名誉を回復した孫—林田藩の建部家
尼崎の港を預かった建部寿徳
林田藩の建部家の先祖・建部寿徳は、近江国神崎郡建部郷の出身です。信長の時代には丹羽長秀の下で若狭小浜の郡代を務め、秀吉の時代には尼崎三万石の代官として、尼崎城と尼崎港の管理を任されました。九州征伐では兵糧の補給を担い、名護屋城の普請にも奉行として加わっています。関ヶ原で西軍についた子の光重は、池田輝政のとりなしで処分を免れました。家格は外様で、江戸城では柳間に詰めていたとされます。
鴨池と洲濱神社
初代藩主・建部政長は、元和三年(1617年)に日照り対策のため池を造りました。その中島にまつられたのが洲濱神社です。八代の政醇が鴨を飼って御殿から眺めたことから「鴨池」と呼ばれるようになりました。いまは写真の撮影地として人気があります。歴代藩主の墓は京都の大徳寺芳春院にあります。藩校の敬業館の瓦には、建部家の家紋「三ツ蝶」が入っています。
政醇の孫・蜷川新
政醇は国学を学んだ文化人で、隠居後は「聖岡」と号しました。その娘の子が、国際法学者の蜷川新です。蜷川は著書『小栗上野介』などで、新政府軍に斬られた幕臣・小栗上野介の名誉回復に力を尽くしました。小栗が斬られた水沼河原の碑が建てられたいきさつにも、蜷川の名が出てきます(小栗上野介の終焉の地・水沼河原)。
藩の血が、別の物語につながる
港を預かった先祖、鴨を愛した殿様、そして小栗の名誉を回復した孫。いち早く新政府に従った林田藩の家から、新政府に斬られた幕臣を弁護する人が出たのは、歴史の面白いめぐり合わせだと思います。
林田藩をもっと詳しく
伯父と甥で守った尼崎城
藩祖の建部政長は、慶長15年(1610年)に父・光重が亡くなって家督を継いだとき、まだ8歳でした。大坂の陣が始まると、幼い政長は尼崎城を守る立場に置かれます。これを支えたのが伯父の池田重利です。重利はもと本願寺の坊官・下間家の人で、池田輝政のもとで池田の姓を許されていました。二人は池田利隆・忠継兄弟の軍に属して戦功を挙げ、元和元年(1615年)7月21日、そろって摂津の川辺郡・西成郡で領地を与えられ、大名になりました。元和3年(1617年)に池田家の本家が姫路から因幡の鳥取へ移ると、政長は播磨の林田へ、重利は同じ揖東郡の鵤へ移ります。重利の家はのちに陣屋を新宮へ移し、播磨新宮藩となりました。林田と新宮は、伯父と甥がそれぞれ開いた隣どうしの藩です。
政長は林田に移ってからも、池田一門に近い大名として城の受け取り役を務めています。元和5年(1619年)に広島の福島正則が改易されたときと、寛永17年(1640年)に播磨山崎の池田輝澄が改易されたときです。政長は寛文12年(1672年)4月18日に70歳で亡くなりました。
御所の造営にあたった3代・政宇
3代の建部政宇は政長の五男で、初めの名を政吉といいました。兄の2代政明が寛文9年(1669年)12月に亡くなると、その養子として翌寛文10年(1670年)2月27日に家督を継ぎ、従五位下・内匠頭に叙任されています。伏見奉行のほか、禁裏(御所)の造営奉行を務め、のちに寺社奉行にもなりました。絵の才能にもすぐれ、幕府の御用絵師・狩野常信に入門しています。
二条城で亡くなった9代・政和
9代の政和は8代政醇の長男で、嘉永2年(1849年)に父の隠居によって家督を継ぎました。安政3年(1856年)2月20日に大番頭となり、京都の二条城の守りにつきます。そして文久3年(1863年)2月2日、勤めていた二条城で31歳の若さで亡くなりました。尊王攘夷の運動で京都が騒がしくなっていたころのことです。
38か村の領地と因幡街道の陣屋町
林田藩の領地は、播磨国揖東郡の38か村でした。良田に恵まれ、5,000石に及ぶ新田もあったとされます。陣屋は、室町時代の末に久保山城があったと伝わる丘に置かれ、その地は聖岡と名を改められました。陣屋は堀と土塁で囲まれ、中には藩の政庁や蔵、侍屋敷、町屋が置かれていました。城を持たない1万石の藩なので、林田の町は正しくは城下町ではなく陣屋町です。林田はまた、姫路と鳥取を結ぶ因幡街道の宿場町でもありました。天明7年(1787年)には、藩の領内で打ちこわしが起きています。
陣屋跡のいまと、初めての発掘
陣屋の中心部は、いまの聖ケ岡公園、姫路市立林田中学校、林田公民館のあたりです。二の丸の東の曲輪の跡には藩祖政長をまつる建部神社があり、本丸の跡は梅林になって「林田陣屋跡」の碑が立っています。中学校の正門の前には、敬業館の教授だった河野鉄兜の碑があります。
令和8年(2026年)3月、姫路市が陣屋の西門と考えられる場所を発掘し、2つの石垣と、その間を通る幅約2.5メートルの道を見つけました。石垣の一つは江戸時代の絵図で陣屋の内と外を分ける塀にあたり、もう一つは藩士・吉田権太夫の屋敷の石垣にあたるとみられています。林田陣屋の遺構が発掘で確かめられたのは、これが初めてです。
動員できた兵の目安
慶安2年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、1万石あたり235人を出すことになっていました。これを林田藩の1万石にあてはめると、およそ240人になります。ただし、この規定は案のままで発布されなかったとする説もあります。
林田の東どなりで、藩祖・政長が移るまで池田家が治めていた姫路藩(幕末は酒井家)のページもあわせてご覧ください。



