幕末・維新– category –
幕末から明治維新にかけての人物・組織・軍艦・城・史跡などの記事をまとめたカテゴリーです。新選組隊士、海援隊士、坂本龍馬の手紙、幕末の軍艦などのシリーズのほか、2027年の大河ドラマの主人公・小栗忠順に関する記事もここに入っています。
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幕末・維新
塚本真彦とは何をした人物か—小栗上野介の用人、遣米使節で世界を一周し、養子・又一とともに高崎で斬られた家臣
塚本真彦(つかもと まひこ)は小栗上野介の家臣。妻・道子の実家建部家から小栗家に移り、幕末には用人。万延元年の遣米使節に従者として加わり世界を一周、慶応四年は家族ぐるみで権田村へ移り、閏四月七日に養子・又一とともに高崎で斬られました。数え三十七歳。残された家族と東善寺の墓も紹介します。 -
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旗本と大名はどちらが偉いのか—どちらも将軍の直臣、でも同格ではない。石高・官位・江戸城の席、役職で逆転する力関係と、二千七百石の小栗上野介の立ち位置
旗本も大名も将軍の直臣で、その家来は陪臣。では旗本と外様大名は同格だったのか。一万石を境に身分は大名が上、ただし大名の家臣より旗本が格上、重職の旗本は従五位下で小藩の大名と並ぶ。江戸城の殿席、官位、役職での逆転、高家・交代寄合、大名になった旗本、そして二千七百石の小栗上野介の立ち位置を解説します。 -
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小栗家の領地・権田村とは—いつから知行所だったのか、代官はいたのか、年貢はどう届いたのか。参勤交代のない旗本と家臣の数
小栗上野介が最後を過ごした権田村は、宝永元年(1704年)から小栗家の知行所でした。村高三百七十五石余、代官の記録はなく名主が実務を担い、名主の佐藤藤七は遣米使節に随行。年貢の割付状と皆済目録の流れ、参勤交代のない旗本の定府、二千七百石の手取りと家臣の数の目安、最期をともにした家臣たちを紹介します。 -
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小栗上野介と親しかったのは誰か—新政府に仕えた部下・福地源一郎と田辺太一、渋沢栄一との会話、いとこの夫・大隈重信。将来を語り合った栗本鋤雲
小栗上野介と親しく、のちに新政府側に立った人は誰か。部下だった福地源一郎・田辺太一・杉浦譲、パリ行き前に会話した渋沢栄一、遣米使節で同船した加賀藩士・佐野鼎、いとこの夫・大隈重信、将来を語り合った栗本鋤雲まで。適塾や長崎伝習所との関係も確かめます。 -
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大鳥圭介と大村益次郎—適塾が生んだ二人の兵学者は、なぜ勝者と敗者に分かれたのか。大鳥が負け続けた理由と、二人の得意
大鳥圭介と大村益次郎は、ともに適塾に学んだ医者の子で兵学者。在籍時期は重ならず、戊辰戦争で直接対決した記録もありません。二人の経歴の比較、大村の戦略と大鳥の技術、大鳥が負け続けた理由(補給・寄せ集めの軍・兵力差、武器の差は一因)、伝習隊と小栗忠順、ゆかりの地を紹介します。 -
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小栗上野介の処刑に抗議した人はいたのか—新政府に調査の記録はなく、斬った軍監は県知事に。名誉回復までの六十四年
小栗上野介の処刑に、新政府の人は抗議したのか。当時の抗議や調査の記録は見つからず、斬った軍監・原保太郎は県知事や北海道庁長官へ進みました。家族を守った大隈家と三野村、功績を書き残した福地源一郎・田辺太一、東郷・大隈の言葉の確かさ、昭和七年の「罪なくして此処に斬らる」碑までをたどります。 -
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小栗上野介の処刑は誰が決めたのか—薩長の命令か、功をあせった現場か。斬った軍監は長州でも薩摩でもなかった
小栗上野介の斬首は誰が決めたのか。処刑を指揮した軍監の原保太郎は丹波園部、豊永貫一郎は土佐の出身で、薩摩・長州ではありませんでした。原が語った「岩倉に討てと言われた」という回想、三藩にかかった圧力、功をあせった現場という見方、西郷黒幕説を、記録と推測に分けて考えます。 -
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小栗上野介は権田村に砲台や陣屋を築いていたのか—大砲二門・小銃二十挺は「謀反の証拠」か、防犯の備えか
小栗上野介(小栗忠順)は権田村に本当に砲台や陣屋を築いていたのか。追捕令の文面と小栗の日記を突き合わせ、観音山で建てていた住まい、大砲二門・小銃二十挺とされる武器、世直し一揆の撃退が「謀反の疑い」に変わり、逆手に取られて斬られるまでを解説します。 -
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長塚京三さんが演じる鷹司政通とは何をした人物か—三十三年関白を務めた朝廷の重鎮、条約勅許で孝明天皇と対立し安政の大獄で落飾
鷹司政通(たかつかさ まさみち)は、文政六年から安政三年まで三十三年にわたって関白を務めた幕末の公家です。正室は水戸藩主・徳川治紀の娘で、徳川斉昭の姉。条約勅許では開国やむなしの立場をとって孝明天皇と対立し、安政の大獄で落飾しました。大河『逆賊の幕臣』での配役まで。 -
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山中崇さんが演じる岩倉具視とは何をした人物か—下級公家から王政復古の立役者へ。二人の息子は小栗忠順を斬った東山道総督府の長だった
岩倉具視(いわくら ともみ)は、下級の公家から身を起こし、和宮降嫁、五年の蟄居、王政復古の大号令、岩倉使節団と、幕末から明治の政治を動かした人物です。次男・具定と三男・具経は小栗忠順を斬った東山道総督府の総督・副総督でした。大河『逆賊の幕臣』での配役まで。 -
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奥野壮さんが演じる明治天皇とは何をした人物か—十四歳で践祚、王政復古と五箇条の御誓文。小栗忠順が斬られた年の少年天皇
明治天皇(めいじてんのう)は、父・孝明天皇の死を受けて十四歳で践祚し、王政復古、五箇条の御誓文、東京への遷都、憲法の発布と、近代日本の出発に立ち会った天皇です。生没年、主な出来事、小栗忠順との関わり、大河『逆賊の幕臣』での配役まで。 -
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眞栄田郷敦さんが演じる孝明天皇とは何をした人物か—条約に判を押さなかった帝、和宮降嫁と攘夷、数え三十六歳の急死
孝明天皇(こうめいてんのう)は、ペリー来航から幕末の動乱期に在位した第百二十一代天皇です。日米修好通商条約の勅許を拒み、妹・和宮を将軍家茂に嫁がせ、攘夷を求め続けました。生没年、主な出来事、小栗忠順との関わり、死因をめぐる説、大河『逆賊の幕臣』での配役まで。 -
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大沢たかおさんが演じる勝海舟とは何をした人物か—四十一石の貧乏旗本から咸臨丸、江戸無血開城へ。小栗忠順と正反対の道を選んだ幕臣
勝海舟(かつ かいしゅう)は、四十一石の貧乏旗本の家から蘭学で身を立て、咸臨丸で太平洋を渡り、江戸無血開城をまとめた幕臣です。生まれ、役職、咸臨丸、西郷隆盛との会談、明治での官職、小栗忠順との関係、大河『逆賊の幕臣』での配役まで。 -
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小栗上野介(小栗忠順)が生きていたら—明治政府に入ったのか。大隈重信の言葉、東郷平八郎の礼、生き残った幕臣の道から考える
小栗上野介(小栗忠順)がもし生きていたら、明治政府に入ったのか、民間で事業を起こしたのか。大隈重信や東郷平八郎の言葉、榎本武揚・渋沢栄一ら生き残った幕臣の道、横須賀造船所など小栗がやりかけた仕事から考えます。 -
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小栗を斬らずに済ませたかった三藩—高崎・安中・吉井に下りた「捕らえよ」の達
小栗上野介忠順を捕らえよという達は、新政府から直接ではなく、上州の三つの藩に下りました。高崎藩、安中藩、吉井藩です。そして記録をたどると、この三藩は小栗を斬らずに済ませたかったことが見えてきます。 -
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小栗上野介の首はどこへ運ばれたのか—館林城での首実検と、一周忌の夜に掘り出した村人たち
小栗上野介忠順が斬られたあと、その首はどこへ行ったのか。答えは館林です。館林市の説明をたどると、首が運ばれ、見られ、埋められ、掘り出されるまでの一連が分かります。そして、この経過は「現地の軍監が勝手に斬って終わった話ではない」ことを示しています。 -
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原保太郎とは何をした人物か—二十二歳で小栗上野介を斬り、山口県知事から北海道庁長官まで務めた男
小栗上野介忠順を斬ったのは、二十二歳の青年でした。原保太郎です。慶応四年閏四月、上州権田村で小栗父子と家臣を斬った軍監の一人です。 -
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柴田剛中とは何をした人物か—横須賀製鉄所の機械と技師を集めにフランスへ渡り、小栗の書簡を残した旗本
小栗忠順の資料は、家財ごと没収されたためにほとんど残っていません。だから小栗を知ろうとすると、周りにいた人が残したものを読むことになります。柴田剛中(しばた たけなか)は、そのなかでも特別な位置にいる幕臣です。 -
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小栗忠順は渋沢栄一に何を教えたのか—慶応三年、パリへ発つ前の訓示は記録が残っていない
慶応三年、徳川昭武の一行がパリ万博へ向けて横浜を出ます。会計を担うのは、二十七歳の渋沢篤太夫、のちの渋沢栄一でした。出発の前、一行を呼んで訓示したのが勘定奉行の小栗忠順です。 -
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中小坂鉄山とは—小栗忠順が上州で鉄を作ろうとした山と、五稜郭を設計した武田斐三郎
小栗忠順の事業というと、まず横須賀製鉄所が挙がります。ただ、小栗はもう一つ、鉄そのものを作ろうとしていました。場所は上州、いまの群馬県下仁田町の中小坂です。 -
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小栗上野介は誰に斬られた?処刑を取りしきった原保太郎・豊永貫一郎、刀を振るったのは誰か、岩倉具定と板垣退助がいた総督府の指揮系統【逆賊の幕臣】
小栗上野介を斬ったのは誰か。現場で処刑を取りしきったのは東山道総督府の原保太郎と豊永貫一郎で、上には総督・岩倉具定、参謀・板垣退助と伊地知正治がいました。実際に刀を振るった人は確定していません。一緒に斬られた家臣、首と墓のゆくえ、「薩長に殺された」のかまで記録からたどります。
