小栗忠順は渋沢栄一に何を教えたのか—慶応三年、パリへ発つ前の訓示は記録が残っていない

小栗家の屋敷で帳面と算盤に向かう用人と、控える若い小姓のイラスト

慶応三年、徳川昭武の一行がパリ万博へ向けて横浜を出ます。会計を担うのは、二十七歳の渋沢篤太夫、のちの渋沢栄一でした。出発の前、一行を呼んで訓示したのが勘定奉行の小栗忠順です。

ここで面白いのは、小栗が渋沢に何を教えたのか、いまも分かっていないということです。

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国立国会図書館が「見つからない」と書いている

この訓示の内容を知りたいという質問が、国立国会図書館のレファレンス協同データベースに寄せられています。調査にあたった司書は複数の文献をたどりましたが、訓示の全文が載っている資料は見つからなかったと回答しています。

分かっているのは、出来事の輪郭だけです。昭和八年の渋沢栄一に関する伝記に、小栗が横浜で渋沢と会って話したという記述があり、昭和四十三年の小栗上野介の研究資料には「パリへ出発する一行にいろいろと注意を与え」、とくに会計担当の渋沢には教示したとあります。平成十二年に出た徳川昭武の欧州行の研究には、渡航中の経費として小栗がメキシコドル五万ドルを用意し、フランスの金融筋から資金を引き出せる手はずを整えていたことが記されています。

一行が乗ったアルフェー号は、慶応三年正月十一日に横浜を出ました。

渋沢は、このとき二十七歳の幕臣だった

渋沢栄一というと明治の実業家の顔が先に浮かびますが、このときの渋沢は一橋家から幕臣になったばかりの若者でした。武蔵国血洗島の農家に生まれ、尊王攘夷に走って高崎城の乗っ取りを企てたこともある人物が、まわりまわって徳川昭武の随員として会計を預かる立場にいたわけです。

一方の小栗は四十一歳、幕府の勘定奉行です。片方は幕府の財布を握る旗本、片方は農家の出の新参者。身分の差は大きく、ふだんなら口をきく間柄ではありません。それでも小栗は、パリへ発つ会計担当を呼んで教えています。

「分からない」ことのほうが、かたちを教えてくれる

内容が分からないのに、周辺はこれだけ分かっています。五万ドルを用意し、現地で金を引き出せる筋を押さえ、会計担当を呼んで教えた。小栗が何をする人だったかは、訓示の文面がなくても、この段取りから十分に見えてきます。

五万ドルを持たせるだけなら、金を渡せば済みます。小栗がしたのは、現地で足りなくなったときに引き出せる筋を押さえておくことでした。幕府の勘定奉行が、海外の金融とのつなぎ方まで手配していたことになります。

渋沢はこのあとフランスで株式や銀行のしくみを学び、帰国して日本の会社制度を作っていきます。その渋沢が渡欧する直前に、幕府の勘定奉行から会計について直接教わっていた。兵庫商社で大坂の豪商に会社らしい組織を作らせた小栗と、のちに五百を超える会社に関わった渋沢が、この一日だけ同じ場所にいたことになります。

書かないほうがよいこと

ここから「小栗が渋沢に株式会社を教えた」と書きたくなりますが、それはできません。訓示の内容が不明だと国立国会図書館が明記しているのですから、中身を推測で埋めるのは筋が通りません。分かっているのは、会ったこと、教えたとされること、金の手はずを整えたことまでです。

小栗は翌年、上州権田村で斬られます。渋沢が帰国したのは、その年の冬でした。横浜で小栗と向かい合った会計担当は、帰ってきたとき、教えてくれた相手がもういない国に立っていたことになります。

渋沢は明治を生き、小栗は「逆賊」とされました。小栗の名誉が回復されるまでに、長い時間がかかっています。

参考資料

国立国会図書館レファレンス協同データベースの回答によります。同回答が参照しているのは、渋沢栄一に関する昭和八年の伝記、昭和四十三年の小栗上野介研究資料、平成十二年の徳川昭武欧州行の研究です。訓示の具体的な内容は、同回答が「見つからなかった」としています。本記事もそこは埋めていません。

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