小栗忠順の資料は、家財ごと没収されたためにほとんど残っていません。だから小栗を知ろうとすると、周りにいた人が残したものを読むことになります。柴田剛中(しばた たけなか)は、そのなかでも特別な位置にいる幕臣です。小栗が作った横須賀製鉄所の実務で、フランスへ渡った人だからです。
徒目付から外国奉行、そして兵庫奉行へ
柴田剛中は文政六年(一八二三年)に生まれ、明治十年(一八七七年)に亡くなった旗本です。国立歴史民俗博物館は、柴田を「徒目付・勘定・外国奉行・兵庫奉行などを歴任し、幕末外交に従事した」人物と説明しています。慶応三年(一八六七年)七月には兵庫奉行に任じられました。
この並びは、小栗とよく似ています。小栗も目付から外国奉行、勘定奉行へと進んだ幕臣でした。二人は同じ時期に、同じ種類の仕事をしていたことになります。
慶応元年、製鉄所のためにフランスへ
横須賀市自然・人文博物館によりますと、慶応元年(一八六五年)に幕府がフランスへ送った使節の長が柴田でした。目的は、横須賀製鉄所へのフランス人の雇用と機械の輸入という実務を、フランスの現地で進めることです。横浜の開港に貢献し、国際経験もあったことが選ばれた理由とされています。
一行は慶応元年五月五日に横浜を出て、七月六日にマルセイユへ上陸しました。現地で次々にフランス人の雇用と輸入機械の選定を進め、慶応二年一月二十六日に帰港しています。
この帰りの船には、横須賀製鉄所の初代建築課長となるレイノーが乗っていました。そして購入した機械も積まれていました。いまヴェルニー記念館に置かれているスチームハンマーも、この船で運ばれてきたものです。三トンのほうは平成八年まで、米海軍横須賀基地の艦船修理廠で実際に動いていました。
小栗が江戸で予算を組み、ヴェルニーが横須賀で指揮を執り、柴田がフランスで人と機械を集める。製鉄所という事業は、こういう分業で動いていたわけです。
柴田家の箱に、小栗の書簡が残っていた
柴田家には約九十点の資料が伝わり、国立歴史民俗博物館に寄託されました。日記のほかに、文書、絵図、書画、写真、立体物まであります。訪欧したときの名刺、ナポレオン三世のメダル、ヴィクトリア女王から贈られた双眼鏡といったものです。フランスとイギリスの双方で、元首級に接していたことが分かります。
そのなかに、小栗忠順と村垣範正の書簡があります。同館が令和六年の特集展示「幕末の外交官-幕臣柴田剛中とその資料-」で、展示資料としてこの二人の書簡を挙げています。村垣範正は万延元年の遣米使節の副使で、小栗は目付として同じ船に乗った人です。使節で顔を合わせた三人の線が、柴田家の箱のなかでつながっていました。
『柴田日記』は高崎市が刊行しています
柴田が残した日記は、『柴田日記』として高崎市が平成二十八年に刊行しました。高崎市立中央図書館が小栗の処刑について書いた『市史のひろば』第七号も、参考文献にこの『柴田日記』を挙げています。
幕末の外交を担った旗本の日記が、小栗が斬られた土地の自治体から出ている。これは偶然ではないのでしょう。小栗本人の記録が失われたぶん、周りの日記や書簡を読むしかなく、柴田日記はその一次資料として読まれているからです。
小栗を読むために、周りを読む
小栗については、栗本鋤雲が書き残したものがよく引かれます。柴田剛中はそれとは別の筋で、外交と実務の現場から小栗を見ていた人です。書簡の中身そのものは展示解説からは分かりませんが、小栗が柴田に手紙を書いていたという事実だけでも、幕府の外交と財政と造船が同じ人の輪で動いていたことが見えてきます。
参考資料
国立歴史民俗博物館の特集展示「幕末の外交官-幕臣柴田剛中とその資料-」(令和六年四月二十三日から七月二十八日、第四展示室)の解説、横須賀市自然・人文博物館の学芸員による解説「サムライたちのフランス出張-『横須賀製鉄所』建設への熱意」、高崎市立中央図書館『市史のひろば』第七号。『柴田日記』は高崎市、平成二十八年の刊行です。横須賀市の解説は柴田の渡仏と小栗の関係に触れていないため、両者の指揮関係については断定していません。小栗と柴田の書簡のやりとりの具体的な内容も、公開されている解説からは分かりません。

