中小坂鉄山とは—小栗忠順が上州で鉄を作ろうとした山と、五稜郭を設計した武田斐三郎

館内閲覧用の蜷川新『開国の先覚者 小栗上野介』

小栗忠順の事業というと、まず横須賀製鉄所が挙がります。ただ、小栗はもう一つ、鉄そのものを作ろうとしていました。場所は上州、いまの群馬県下仁田町の中小坂です。

目次

元治元年、磁鉄鉱の山に高炉を建てる計画

下仁田町の説明によりますと、元治元年(一八六四年)、小栗上野介らが中小坂鉄山の磁鉄鉱による高炉建設の計画を立てました。磁鉄鉱は鉄の含有量が高い鉱石で、ここに洋式の高炉を据えようという構想です。

幕府が洋式の製鉄に手を出した例は、釜石や韮山など他にもあります。中小坂が目を引くのは、小栗が関わった時期と場所です。元治元年は、横須賀製鉄所の建設が本格化していく直前にあたります。船を作る場所を押さえながら、その材料を国内で作る道も探していたことになります。

幕府と諸藩は、すでに洋式製鉄を試していた

幕末に洋式の製鉄へ手を出したのは、小栗が最初ではありません。伊豆の韮山には反射炉が築かれ、南部藩領の釜石では洋式の高炉が建てられています。大砲を鋳るには鉄が要り、鉄を作るには炉が要る。黒船のあと、どの藩も同じ順番で同じ壁に当たっていました。

そのなかで中小坂が目を引くのは、小栗が関わった時期と場所です。元治元年は、横須賀製鉄所の建設が本格化していく直前にあたります。船を作る場所を押さえながら、その材料を国内で作る道も探していたことになります。

五稜郭を設計した男が、山を見に来た

この計画のために現地調査へ送られたのが、武田斐三郎でした。箱館の五稜郭を設計した人物です。下仁田町は「元治元年(一八六四)小栗上野介らの計画した中小坂鉄山の磁鉄鉱による高炉建設築造計画のため、中小坂鉄山の現地調査を行った」と記しています。

翌年にはもう一人、幕府の役人が入ります。山崎大之進です。役職は大小砲鋳立掛・大砲差図役。慶応元年(一八六五年)の八月二日から二十四日までのあいだに、武田斐三郎らとともに溶鉱炉建設の下見に派遣されました。見て回ったのは、鉄山、溶鉱炉を築く場所、鉄山へ通じる道、砥山、そして石炭の採掘場所です。石炭の採掘場所は高崎藩領の乗附にありました。

大砲を鋳る役の者が、炉を建てる場所と、道と、石炭の出どころまで一度に見て回っている。計画が机の上の話ではなかったことが、この行程から分かります。

とくに見逃せないのが、鉄山へ通じる道と石炭の採掘場所まで下見の対象に入っていることです。鉱石があっても、炉を焚く燃料と、鉄を運び出す道がなければ事業になりません。石炭を高崎藩領の乗附に求めているのも、現実的な判断です。計画した側が、鉱山だけを見ていたのではないことが分かります。

それから四年で、計画者は斬られた

砥山が下見に入っているのも、この土地の性格を映しています。下仁田のあたりは砥石を出す山があり、鉄と石の土地でした。小栗らが選んだのは、何もない山ではなかったわけです。

慶応元年八月の下見から三年足らずで幕府は倒れ、小栗は上州権田村で斬られます。中小坂と権田は、どちらも群馬県の西部にあたります。小栗が最後に隠れ住んだ土地と、鉄を作ろうとした山が、同じ県の西半分に収まっているわけです。小栗と上州の縁は、権田村に知行地があったことだけではなかったことになります。

中小坂の鉄山そのものは、幕府の計画としては実らなかったものの、明治に入って操業しました。下仁田町歴史館には明治十三年の鉄瓶が展示されています。小栗が見ようとしたものの、少しだけ遅れて形になった鉄だと言えるかもしれません。

参考資料

下仁田町(教育委員会教育課・歴史館)の公開資料によります。小栗上野介の関与については「小栗上野介らの計画した」という記述までで、具体的にどこまで主導したかは示されていません。幕府の製鉄事業全体のなかでの位置づけについては、断定を避けています。韮山と釜石は洋式製鉄の例として挙げたもので、中小坂との直接の関係を示す資料はありません。

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