山形県のかみのやま温泉、小高い月岡の丘の上に、白壁の美しい天守がそびえています。上山城(かみのやまじょう)――別名月岡城。温泉街のまん中にあって、城のすぐ足もとには無料の足湯まである、なんとも贅沢なお城です。ただ、この立派な天守にはちょっとした「事情」があり、そして幕末には、この小さな藩が江戸薩摩藩邸の焼き討ちや奥羽越列藩同盟で、石高に似合わぬ働きを見せています。現地の案内板をたどりながら歩いてみます。

城の始まり ― 高楯城から、天神森の月岡城へ
案内板によれば、上山の城は室町時代の応永年間初期(1400年前後)、最上氏の祖・斯波兼頼の曾孫にあたる里見満長が、虚空蔵山に築いた山城「高楯城(たかだてじょう/亀ヶ岡城)」に始まります。この城は戦国期に伊達稙宗(だてたねむね)に一度は攻め落とされますが、天文四年(1535)、満長の子孫・武衛義忠(ぶえいよしただ)が挙兵して奪還。同じ年に高楯城を廃し、新たに天神森の地に平山城を築いて「月岡城」と称しました。これが現在の上山城です。
「奥羽の名城」と呼ばれた土岐時代 ― 沢庵とのゆかり
城主は武衛氏三代のあと、里見氏・能見松平氏・蒲生氏などを経て、土岐氏の時代に最盛期を迎えます。案内板は「土岐氏二代が領した十七世紀後期には最も整備され、白壁の城壁をめぐらし、四季折々の緑や紅葉に映えた上山城は、小藩(二万五千石)ながら奥羽の名城と称された」と伝えています。

この土岐時代の名君が土岐頼行(ときよりゆき)です。頼行は、あの沢庵和尚(たくあんおしょう)と深い親交がありました。城内には、沢庵が設計したと伝わる本丸庭園「巷雨庵(こううあん)」があったといい、その縁で建てられた七層塔がいまも石垣の下に立っています。

すぐ近くのレリーフが伝えるのが、有名な「上中下三字説(じょうちゅうげさんじせつ)」の逸話です。頼行が「政について心得るべきことは何か」と問うと、沢庵は「政は『上・中・下』なり」と答え、上は為政者、下は領民、そのあいだを取り結ぶのが中である――と、三つの漢字の形になぞらえて、君と民が言葉で意思を通わせる政治の心得を説いた、といいます。禅僧と若き藩主の、静かな問答が刻まれています。
城が消えた ― 元禄五年、跡形もなく破却
ところが名城の運命は暗転します。元禄五年(1692)、土岐氏が転封となった直後、幕府の命によって上山城は「跡形もなく破壊された」のです。理由ははっきりしませんが、要衝の城を幕府が警戒したとも言われます。
以後、上山藩は金森氏を経て、元禄十年(1697)に備中庭瀬から入った藤井松平氏(三万石)が、十代・170余年にわたって明治維新まで治めました。ただし城の再建は許されず、藩主は「城なし」の陣屋で政務をとり続けたのです。いま建つ天守は江戸期のものではありません。ここは押さえておきたいところです。
幕末① ― 藩主みずから、江戸薩摩藩邸を焼き討ち
さて、筆者が「薩摩藩邸の焼き討ちに参加していたはず」と記憶していた件。まさにそのとおりでした。慶応三年(1867)十二月、江戸・三田の薩摩藩邸焼き討ち事件です。西郷隆盛の指示で江戸市中を攪乱していた薩摩の浪士たちに業を煮やした幕府側は、庄内藩を中心に、上山藩・岩槻藩・鯖江藩で藩邸を攻撃しました。
驚くのは、このとき上山藩主・松平信庸(のぶつね)が、自ら兵を率いて攻撃に加わっていることです。動員数は庄内500に次ぐ上山300名で、藩からは9名の死傷者も出ています。三万石の小藩の殿様が先頭に立ったわけで、幕府への忠誠のほどがうかがえます。そしてこの焼き討ちこそ、翌月の鳥羽・伏見の戦い=戊辰戦争の、直接の導火線になった事件でした。
なぜ焼き討ちになったのか ― 江戸を焼いていたのは、むしろ薩摩の側だった
この事件、「幕府側が薩摩藩邸を襲った」とだけ聞くと乱暴な話に響きます。しかし前段を並べると、順序が逆であることがわかります。
庄内藩は文久三年(1863)から幕府に江戸市中取締を命じられ、清河八郎の建策から生まれた新徴組を率いて江戸の治安を預かっていました。その庄内藩が見張っていたのが、三田の薩摩藩邸です。
慶応三年十月、西郷隆盛の命を受けた相楽総三が江戸薩摩藩邸を拠点に同志を集め、放火・掠奪・暴行を繰り返して幕府を挑発しはじめます。十一月末には竹内啓に率いられた百五十名以上が蜂起し、十二月に入ると甲府城の攻略を狙い、相模でも襲撃事件を起こす。江戸とその周辺は、まともな治安状態ではなくなっていました。
そして十二月二十二日の美濃屋銃撃事件、二十三日の寄席「吹貫」銃撃。ここで庄内藩の堪忍袋が切れます。十二月二十五日未明、藩邸へ。
集まった兵は合計九百五十名。内訳は庄内藩、上山藩、鯖江藩、岩槻藩、そして庄内藩の支藩である出羽松山藩です。上山の三百名は庄内の五百名に次ぐ二番目の動員でした。三万石の小藩としては、明らかに背伸びした数字です。
戦闘は三時間ほど。旧幕府側の砲撃に加え、追い詰められた浪士自身の放火もあって、藩邸はいたるところで燃え上がりました。死傷は薩摩側六十四名、幕府側十一名、捕縛者百十二名。この報せが京へ届いたことで旧幕府は討薩の意志を固め、翌慶応四年一月の鳥羽・伏見へとまっすぐつながっていきます。
焼かれた側の男は、三か月後に官軍の先鋒になり、そして斬られた
この事件には、どうしても書いておきたい後日談があります。
藩邸から逃れた相楽総三は、二十八〜二十九名の同志とともに品川沖の薩摩藩運搬船・翔凰丸に乗り、紀伊国へ落ち延びました。そして慶応四年一月、近江の金剛輪寺で赤報隊を結成。「御一新」と、旧幕府領の年貢を半分にするという布告を掲げて東山道を進みます。
ところが新政府は年貢半減を実行できず、赤報隊は「偽官軍」とされました。相楽は三月、信濃国下諏訪宿で斬首。天保十年生まれ、享年三十。名誉が回復されたのは六十年後、孫の木村亀太郎の奔走によって昭和三年に正五位を追贈され、翌年靖国神社に合祀されたときでした。
整理すると、こうなります。上山藩が慶応三年十二月に焼いた相手は、その一か月後には官軍の先鋒となり、三か月後には官軍の手で斬られた。そして上山藩自身も、半年後には賊軍として奥羽の野を敗走することになります。焼いた側と焼かれた側が、そろって時代に振り落とされていく。この城跡で足湯につかりながら、そんなことを考えていました。
幕末② ― 奥羽越列藩同盟、そして秋田への出兵

戊辰戦争が始まると、譜代の上山藩は当然のように旧幕府側につき、慶応四年(1868)五月三日、奥羽越列藩同盟に参加します。筆者は「軍備は旧式だったのでは」と思っていましたが、記録を見るとむしろ逆で、小藩ながら総督・山村求馬の率いる洋式軍隊を編成し、出羽の久保田(秋田)方面へ出兵しています。三万石で洋式軍を仕立てたのですから、かなり背伸びした軍備だったといえます。
しかし同盟側の敗色は濃く、戦後、藩主・松平信庸は責任をとって謹慎・隠居し、家督は異母弟の信安に譲られました。江戸で先陣を切り、東北で最後まで戦った――薩摩藩邸から奥羽の野まで、この小藩は幕末をまっすぐ幕府側で走り抜けたのです。
城跡の今 ― 昭和の模擬天守と、足もとの足湯

現在の上山城は、昭和五十七年(1982)に旧二の丸跡へ建てられた城郭風の郷土資料館です。史実の天守の復元ではありませんが、月岡の丘に白壁がよく映え、上山のシンボルとして親しまれています。筆者が訪れたときは、ちょうど本丸が工事中でした。時期によってはこうした整備に出会うのも、現地取材ならではですね。
そして何よりうれしいのが、城のすぐ横にある足湯。かみのやま温泉は下(しも)大湯・湯町など古くからの湯が湧く城下の温泉で、天守を見上げながら足だけ湯につかる――というのは、ここでしか味わえない贅沢です。歴史散歩の締めにぴったりでした。

場所・アクセス・地図
上山城(上山城郷土資料館・月岡公園) 所在地:山形県上山市元城内3-7。JRかみのやま温泉駅から徒歩約10分。城のすぐ横に足湯あり。

