山形城(霞城公園)を歩いて、まず胸に来るのは「とにかく広い」という素朴な驚きです。堀は深く、石垣は長々と続き、大手門は見上げるほど大きい。筆者自身、城のスケールの大きさにただただ驚かされたのですが、その感覚はまったく正しくて、じつはこの城、幕末の石高(水野家五万石)にはまるで釣り合わない、身の丈より何倍も大きな“借り物のような巨城”だったのです。なぜそんなことになったのか。城の広さと藩の小ささのギャップをたどると、山形という土地の数奇な歴史が見えてきます。

この巨城を築いた男 ― 五十七万石の最上義光
山形城をいまの巨大な姿にしたのは、戦国から江戸初期にかけての名将最上義光(もがみよしあき)です。義光は関ヶ原と同時に東北で戦われた慶長出羽合戦(長谷堂の戦い・1600年)で、上杉方・直江兼続が率いる二万三千余の大軍を撃退。この戦功で最上家は五十七万石という東北屈指の大大名にのし上がり、その財力で三の丸まで備えた広大な城郭を整えました。いま私たちが驚く城の“器”は、この五十七万石時代につくられたものなのです。


城主がめまぐるしく替わった二百数十年
ところが最上家の栄華は長く続きませんでした。義光の死後まもなく家中は跡目をめぐる内紛(最上騒動)に揺れ、元和八年(1622)、幕府によって最上家は改易――五十七万石は取り上げられてしまいます。筆者が「お家騒動があったはず」と記憶していた、まさにその一件です。
その後の山形城には、鳥居忠政(二十四万石)を皮切りに、保科正之(のちに会津へ)、松平(結城)家、松平(奥平)家、堀田家、大給松平家、秋元家……と、譜代大名が入れ替わり立ち替わり入りました。筆者の記憶にある「鳥居家などいくつかの大名家が入った」というのも、そのとおりです。そして入るたびに石高は下がり、城はどんどん“身の丈に合わない大きさ”になっていきました。手入れの行き届かない三の丸は畑になっていった、とも伝わります。

幕末の山形藩 ― 水野家五万石と、藩主不在の非常事態
幕末の山形城主は、弘化二年(1845)に入った水野家でした。石高はわずか五万石。藩主の水野忠精(ただきよ)は、あの天保の改革で知られる老中・水野忠邦の子で、自身も幕府の老中をつとめた人物です。
ところが戊辰戦争が起こると、山形藩は異常な事態に陥ります。藩主・水野忠弘(ただひろ)はまだ十三歳の少年。しかも忠弘と父・忠精は京都にあって、そのまま事実上の軟禁状態に置かれてしまいます。藩の当主が二人とも国もとにいない――そんな綱渡りの中で、山形藩は戦乱の東北に放り出されたのです。

家老・水野三郎右衛門元宣 ― 城下を戦火から守った男
筆者は「小藩ゆえにすぐ降伏かな」と推測していましたが、実際の山形藩の幕末は、そんなひと言では終わらない、ひとりの家老の命がけの物語でした。
藩主不在の山形藩をひとりで背負ったのが、当時まだ二十代半ばの首席家老水野三郎右衛門元宣(みずのさぶろうえもんもとのぶ)です。山形藩は周囲の情勢からいったん奥羽越列藩同盟に加わりますが、元宣は戦費の調達や近隣諸藩との交渉に奔走し、できるかぎり山形の城下を戦場にしないことに心を砕きました。そして盟主だった米沢・仙台が降伏すると、山形藩も慶応四年(1868)九月十七日、新政府軍に恭順します。
結果として山形の町は大きな戦火をまぬがれました。しかし新政府は、同盟に加わった責任を問います。藩主が幼く不在だったため、元宣はその責めを一身に引き受け、斬首されました。自らの命と引きかえに藩と領民を守ったこの家老は、いま山形市の豊烈神社(ほうれつじんじゃ)に祀られています。「すぐ降伏」の裏には、こうした重い犠牲があったのです。
二十代半ばで藩を背負い、二十七歳で斬られた
この人の来歴を追うと、山形藩の幕末がどれほど苦しかったかが見えてきます。
水野三郎右衛門元宣は天保十四年(1843)九月二十二日の生まれ。出身は遠江——水野家が浜松以来ひきいてきた家中の一員だったことが、ここに表れています。一族のなかでも首席家老の家柄でした。
問題は、戊辰の年に藩主父子が江戸と京にあって事実上の軟禁状態となり、山形に戻れなかったことです。藩の方針を決める人間が国許にいない。その空白を、まだ二十代半ばの元宣が一身に引き受けました。
奥羽越列藩同盟に加わったものの形勢は日ごとに不利になり、元宣は戦費の調達と他藩との交渉に奔走します。そして最終的に、彼が選んだのは徹底抗戦ではありませんでした。城下を戦火から守ること。それを成し遂げます。
山形の町が焼けなかったのは、この判断の結果です。同じ年、宇都宮では城下の建造物のほとんどが焼け、新庄では城下三千戸が炎に包まれました。焼かれた城下と、焼かれなかった城下。その分かれ目に、一人の若い家老の決断があったわけです。
ただし、代償は本人が払いました。戦後処分にあたって元宣は藩の全責任を一身に背負い、明治二年(1869)五月二十日に斬首されます。享年二十七。藩を救い、町を救って、自分だけが残らなかった。
いま、水野家を祀る豊烈神社の境内に入ってすぐ右手に、三郎右衛門の像が立っています。霞城公園から足を延ばせる距離なので、山形城とあわせて訪ねてほしい場所です。五十七万石の巨城の跡を歩いたあとに、五万石の家老の像の前に立つ——この順路が、山形という土地の幕末をいちばんよく語ってくれると思います。
城跡の今 ― 霞城公園と二の丸東大手門
明治以後、山形城は霞城公園(かじょうこうえん)として市民に開かれ、平成に入って二の丸東大手門や本丸一文字門が復元されました。堂々たる櫓門と長い土塀、幅の広い水堀は、往時の規模をよく伝えています。

広さに驚くのは、まったく自然なことです。それはこの城が、五十七万石という大大名の器に、五万石の小藩がそっと収まっていた城だから。城の壮大さと藩の慎ましさ――そのギャップこそが、山形城のいちばんの見どころだと、歩いてみてあらためて感じました。
場所・アクセス・地図
山形城跡(霞城公園) 所在地:山形県山形市霞城町。JR山形駅から徒歩約10分。園内に山形市郷土館・最上義光歴史館なども。


