将棋駒の生産量で日本一を誇る、山形県天童(てんどう)。その町を見下ろす舞鶴山(まいづるやま)を、あいにくの雨のなか歩いてきました。天童は、じつは織田信長の血を引く大名家が治めた土地であり、同時に、戊辰戦争で町を救うために自ら命を絶った悲劇の家老・吉田大八(よしだだいはち)を生んだ土地でもあります。将棋・織田家・そして幕末の悲劇――三つの糸をたどってみます。

戦国の天童 ― 最上義光に滅ぼされたのは「天童氏」
まず、筆者が「戦国期は最上家に攻められて滅びた白鳥家でしたっけ?」と思っていた点を、記念碑と照らして正直に整理します。結論から言うと、この舞鶴山(天童古城)を本拠に戦国期を戦い、最上義光に滅ぼされたのは「天童氏」です。
記念碑によれば、天童氏は室町幕府を開いた足利氏の流れをくむ名門で、奥州探題・斯波兼頼の孫、初代・頼直(よりなお)に始まります。以後およそ二百数十年、二十四代にわたってこの地を治めましたが、天正十二年(1584)十月、山形の最上義光の猛攻を受けて天童古城は落城しました。筆者が挙げた「白鳥家」も、同じころ最上義光に討たれた村山地方の豪族(白鳥長久)で、名前が似ているうえに“義光に滅ぼされた”という運命まで重なるので、たしかに混同しやすいところです。滅びたのは天童氏、と覚えていただければ。

織田信長の末裔が来た ― 天童織田藩
時は下って江戸時代後期。「まさに織田家の末裔」が、いよいよこの地に登場します。織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)の子孫が、上野小幡から出羽高畠を経て、天保元年(1830)ごろ、藩主・織田信美(のぶかず)の代に天童へ入り、天童織田藩(約二万石)が成立しました。あの信長の血筋が、幕末の東北の小藩として続いていたのです。将棋の駒と信長――一見むすびつかない二つが、この天童で出会います。

将棋の町の始まり ― 吉田大八と将棋駒
天童が将棋駒の町になったのには、はっきりとした立役者がいます。それが家老の吉田大八です。天童藩の財政は苦しく、大八は藩士の内職として将棋駒づくりを奨励しました。武士が駒づくりなどという内職をするのはどうか、という反対の声に対し、大八は「将棋は兵法・戦術に通じるものであり、武士の面目を傷つけるものではない」と説いて広めた、と伝わります。この判断が、いまや全国シェアの大半を占める天童の将棋駒産業の礎になりました。
幕末の悲劇 ― 町を救って散った吉田大八
そして幕末。筆者が舞鶴山で目にした「悲劇の代将の銅像」、その人こそ吉田大八です。慶応四年(1868)、戊辰戦争が始まると、天童藩主・織田信学(のぶみち)は新政府が置いた奥羽鎮撫総督府の大役を命じられ、家老の大八が官軍の先導名代をつとめることになります。天童藩は新政府側として、庄内藩の征討へ向かいました。
ところが、精強で知られる庄内藩の反撃は激しく、天童の町は庄内勢の焼き討ちに遭って炎上します。さらに周囲の東北諸藩が新政府に反発して奥羽越列藩同盟を結ぶと、立場は完全に逆転。同盟側は「官軍を先導した張本人」として大八の身柄引き渡しを要求しました。
大八は逃げませんでした。藩と領民に累が及ぶのを避けるため、自ら米沢藩に身をゆだね、慶応四年(1868)、天童の観月庵で切腹して果てます。享年三十七。自分ひとりが責めを負うことで天童藩の存続を守った、まさに「町を救った男」でした。舞鶴山に立つこの銅像は、右手に将棋の駒を持つ姿で、彼が遺した二つのもの――将棋の町と、その命がけの決断――を静かに伝えています。
大八とは何者だったのか ― 江戸生まれの藩邸育ち、十五歳で家督
銅像の前では「悲劇の家老」としか思っていませんでしたが、帰ってから経歴を追って考えが変わりました。この人は、最初から天童にいた人ではありません。
吉田大八が生まれたのは天保三年(1832)、江戸の天童藩邸でした。参勤交代の世で、江戸詰めの藩士の子として育っている。そして十五歳で父の跡を継ぎ、天童藩の大目付、武具奉行、藩校・養正館の督学といった要職を歴任し、慶応三年(1867)に中老へ昇格します。大政奉還の年です。つまり彼が藩の中枢に立ったのは、幕府が終わるまさにその瞬間でした。
経歴のなかで目を引くのが「養正館督学」、つまり藩校の教育責任者だったという一点です。武具奉行として武を、督学として学を預かった人物が、下級藩士の窮乏を見かねて出した答えが将棋の駒だった。「将棋は兵法・戦術に通じるものであり、武士の面目を傷つけるものではない」——この理屈は、思いつきの言い訳ではなく、武と学の両方を預かっていた人間だからこそ押し通せた論法だったのだと思います。二万石の小藩が現金収入を得るための、きわめて現実的な政策でもありました。
閏四月四日 ― 天童に来たのは、あの「鬼玄蕃」だった
天童の町が焼けた日のことを、もう少し具体的に書いておきます。
慶応四年閏四月四日。庄内軍が最上川を渡って天童の本陣へ迫りました。このとき攻め手を指揮していたのが、酒井了恒と酒井順孝です。了恒は谷地から五百名、順孝は寒河江から五百名を率い、総勢およそ千名。
この酒井了恒こそ、のちに「鬼玄蕃」と恐れられた庄内藩最強の指揮官です。鶴ヶ岡城の記事で書いた、戊辰の全戦線でほとんど負けなかったあの人物が、この日、天童に来ていた。そして順孝の五百名が出撃した寒河江もまた、この年の九月には戦場になります。最上川流域は、庄内勢が自在に動きまわる回廊だったわけです。
迎え撃つ新政府側には、山形藩、上州の館林藩、そして遠く蝦夷地の松前藩が援軍に入っていました。北関東や北海道の兵が、山形の盆地で庄内藩と撃ち合っている。戊辰戦争の異様な広がりが、この一戦にも出ています。
結果は庄内軍の圧勝でした。天童城と、市街の南半分にあたる二百三十戸が焼き払われます。翌五日には撤退命令が出て庄内勢は谷地へ引き揚げましたが、町は焼けたままです。藩主・織田信敏と隠居の織田信学は仙台藩へ逃れ、天童藩は事実上の敗北状態に置かれました。
「官軍の先導」を引き受けた代償が、これでした。城も、町の半分も、藩主の居場所すらも失った。
六月十八日、観月庵にて
そして立場が完全に反転します。奥羽越列藩同盟が結ばれると、天童藩は同盟のただ中に取り残された「官軍の先導役」になりました。同盟側が求めたのは、大八の身柄です。
ここでの大八の身の処し方が、静かで、そして重い。彼は逃げも隠れもせず、自ら米沢藩に捕らえられました。同盟の中心にいた米沢に自分から身をゆだねる——藩と領民に累が及ばないよう、責めの矛先を自分ひとりに絞るための選択です。
慶応四年六月十八日、天童小路の観月庵で切腹。享年三十七。遺骸は天童の佛向寺に葬られました。
三十七歳です。江戸の藩邸に生まれ、十五で家督を継ぎ、藩校を預かり、駒づくりで藩士を食わせ、そして官軍の先導役を引き受けて、町を焼かれた責めを負って死んだ。彼が中老だった期間は、わずか一年ほどでした。
舞鶴山の銅像が右手に将棋の駒を持っているのは、そういう一年の重さを踏まえてのことなのだと、あとから写真を見返して思いました。刀ではなく駒。彼が天童に残したものは、結局そちらだったからです。
現在 ― 舞鶴山と「人間将棋」

いま舞鶴山(天童公園)は、春になると約二千本の桜に包まれ、天童桜まつりの目玉「人間将棋」の舞台になります。昭和三十一年(1956)に始まったこの催しは、甲冑や着物姿の人々が将棋の駒となり、プロ棋士の指し手にしたがって盤上を動く、豪快な時代絵巻。戦国の山城が、いまは将棋の聖地として全国から人を集めているわけです。雨に濡れた舞鶴山は静かでしたが、桜と甲冑武者でにぎわう春の光景を思い浮かべながら歩くと、それはそれで趣がありました。
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場所・アクセス・地図
天童古城跡(舞鶴山・天童公園) 所在地:山形県天童市天童字城山。JR天童駅から徒歩約20分。吉田大八の像・王将モニュメント・展望台などがある。

