山形県の北の玄関口、新庄。堀を渡る石橋の先に鳥居が立ち、いまは静かな神社となっているこの一帯が、新庄城の跡です。大きな城郭ではありませんが、趣と歴史を感じさせる一角です。天守はなく、木立と水堀に包まれた落ち着いた場所でした。けれどこの城は、戸沢家六万石が二百五十年にわたって守り、幕末には黒煙を上げて焼け落ちた―そんな激しい最期を持つ城でもあります。案内板をたどって歩いてみます。

戸沢政盛が築いた六万石の城
案内板によれば、新庄城は寛永二年(1625)、新庄藩初代藩主・戸沢政盛(とざわまさもり)が築いた城です。創建時は本丸の中央に三層の天守閣を上げ、三隅に隅櫓、表御門・裏御門を構え、二の丸には役所や米倉、三の丸には多数の侍屋敷を配した、堂々たる近世城郭でした。新庄藩は最上郡一円と村山郡の一部、六万石(のちに六万八千二百石)を領しています。
藩主の戸沢氏は、もとは出羽・角館(現在の秋田県仙北市)を本拠とした戦国大名でした。関ヶ原の後に常陸松岡へ移り、元和八年(1622)、最上家の改易にともなってこの新庄へ入り、以後 明治のはじめまで十一代・約二百五十年にわたってこの城を拠点に藩政を行いました。筆者が見た戸澤政盛公の像は、その初代藩主をまつったものです。

幕末の落城 ― 庄内勢の攻撃で黒煙を上げて焼けた
穏やかな城下に転機が訪れるのは幕末です。戊辰戦争が始まると、新庄藩はいったん奥羽越列藩同盟に加わりましたが、まもなく同盟を離脱して新政府側に転じました。周囲を同盟諸藩に囲まれたなかでの、危険な決断でした。
これに対し、東北最強とうたわれた庄内藩が新庄へ攻め寄せます。慶応四年(1868)七月十四日、庄内勢の猛攻を受けて新庄城は落城し、「黒煙を吐いて焼け落ちた」と案内板は記します。城下はおよそ三千戸が焼かれ、藩主・戸沢正実(まさざね)は一族・藩兵とともに秋田へ落ち延びました。政盛が築いた三層の天守は、すでに寛永十三年(一六三六年)の火災で焼失して再建されておらず、このとき燃えたのは御門や櫓、そして城下の町でした。二百五十年の城が一日で失われた―新庄にとって、忘れがたい夏の日でした。

城のあと ― 本丸に鎮まる戸澤神社
明治に入ると新庄城は正式に廃され、跡地は新庄学校・勧業試験場・招魂社・郡会議事堂などの敷地として使われました。そして本丸跡には、歴代藩主をまつる戸澤神社が鎮座しています。実際に訪ねてみると、いまでは水堀と土塁に囲まれた城跡が、そのまま神社の杜(もり)になっているのです。
大きな天守や高石垣はありません。それでも、堀の水面に映る木々や、表御門跡にわずかに残る石垣を眺めていると、六万石の城下の落ち着いた気配と、あの落城の夜の記憶が、静かに重なって感じられます。派手さはないけれど確かに「趣と歴史」が息づく―そんな城跡でした。

場所・アクセス・地図
新庄城跡(最上公園・戸澤神社) 所在地:山形県新庄市堀端町。JR新庄駅から徒歩約15分。表御門跡の石垣や水堀が残り、本丸跡に戸澤神社が鎮座する。
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この記事の取材と情報源について
現地を訪ねて撮影した写真と、現地に設置されている解説の記載をもとに書いています。主に参照したのは次のとおりです。
- 現地の案内板「新庄城絵図」
- 現地の案内板「表御門跡」
- 現地の案内板「新庄市指定文化財(史跡)新庄城址」
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