岩槻藩の歩み
岩槻藩は「大岡忠恕」の時代に幕末の動乱に加え天災が重なり、さらには岩槻城の本丸焼失などの不幸が相次いで、財政は破綻寸前となりました。このような中で忠恕は慶応二年(1866年)三月二十九日に隠居して家督を長男の「大岡忠貫」に譲りました。

岩槻藩は慶応三年十二月(1868年1月)の江戸薩「摩藩邸の焼討」に庄内藩、上山藩、鯖江藩と共に加わります。しかし翌慶応四年に始まった「戊辰戦争」では一転して新政府軍に帰順し、幕府軍追討に功を挙げました。薩摩藩邸焼き打ちで主力だった庄内藩は、戊辰戦争では追討の攻撃目標とされたが岩槻藩はその矛先を逃れました。
翌年の「版籍奉還」で忠貫は知藩事となり、明治四年(1871年)の「廃藩置県」で岩槻藩は廃藩となります。大岡氏はその後子爵に叙せられました。
名奉行・大岡越前の子孫が治めた岩槻藩
岩槻藩は、武蔵国(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)に置かれた藩で、岩槻城を居城としました。藩主の大岡家は、江戸町奉行として名高い「大岡越前守」こと大岡忠相と同族の家柄で、江戸の北を守る要地を代々治めてきました。
焼討ちから一転、恭順へ
幕末の岩槻藩は、戊辰戦争の発端の一つとなった江戸薩摩藩邸の焼討ちに旧幕府方として加わりました。しかし鳥羽・伏見の敗報を受けて情勢が一変すると、一転して新政府軍に恭順し、家名を保ちます。時代の急転のなかで進退を切り替え、生き残りを図った譜代大名の現実的な姿がうかがえます。
将軍の言葉が分かる、ただ一人の家臣でした
三百俵の小身から、側用人へ
大岡忠光は宝永六年(1709年)の生まれで、家は代々三百俵の小身にすぎませんでした。享保九年(1724年)に将軍世継ぎの徳川家重の小姓に登用され、三年後に従五位下出雲守。そこから先が異例でした。
家重は言葉が不明瞭で、周囲には何を言っているのか聞き取れなかったと伝えられます。その言葉を理解できたのが、忠光ただ一人でした。延享二年(1745年)に家重が九代将軍になると、忠光は側近として一気に登りつめます。宝暦元年(1751年)に一万石の大名となって上総勝浦へ、宝暦四年(1754年)に若年寄、宝暦六年(1756年)に二万石へ加増されて本拠を岩槻城に移し、翌年には長く途絶えていた側用人が復活してこれに任じられました。
百科事典の評は率直です。「さして才腕ある人物ではなかったが」と書かれています。それでも将軍の言葉を訳せる唯一の人間だったために、幕政の中枢に座り続けました。宝暦十年(1760年)に没しています。なお、名奉行として知られる大岡忠相とは同族ですが系統が違い、共通の祖は大岡忠政まで遡ります。
領地の半分近くが、房総にありました
岩槻藩の領地は武蔵国だけではありません。幕末の記録では、武蔵国が一万八千五十石余に対して、上総国が八千六百三石余、安房国が三千二百二十二石余。房総の二国だけで一万千八百石余りあり、藩の石高の半分近くを占めていました。「飛地」という言い方では実態を取り違えます。
この房総分領は、忠光が宝暦元年に勝浦一万石を与えられたときの領地がそのまま残ったものです。勝浦陣屋をはじめとする役所と番所が置かれ、郡奉行が常駐して代官支配を行いました。武蔵の城主が、房総の海辺の村々を役人に治めさせていたわけです。
三千石の加増で、二万三千石になりました
六代藩主の大岡忠固は、寛政五年(1794年)の生まれ。奏者番を経て天保七年(1836年)九月に若年寄となりました。アヘン戦争のあとには幕命を受けて江戸湾防備のための大砲と小銃を鋳造しています。三千石を加増されて藩が二万三千石になったのは、この人の代、弘化二年(1845年)以後のことでした。
跡を継いだ七代の大岡忠恕は、嘉永五年(1852年)八月二十五日に家督を相続します。幕末の動乱と天災で藩財政は破綻寸前だったと伝えられます。慶応二年(1866年)三月に隠居し、長男の忠貫に譲りました。
この忠恕の五男が、のちに上総小久保藩の田沼意斉になります。安政二年(1855年)の生まれで、明治二年(1869年)に田沼意尊の養嗣子となり、翌年に小久保藩知事となった人です。田沼意次の家を継いだのが、大岡忠光の子孫だったことになります。房総に飛地を持っていた家から、房総の新しい藩へ養子が入った。縁というものは、地面の上でつながります。
薩摩藩邸を焼いて、翌年には新政府軍
八代の大岡忠貫は、慶応三年十二月の江戸薩摩藩邸焼き討ちに加わったと伝えられます。ところが翌慶応四年、戊辰戦争が始まると一転して新政府に帰順し、東山道総督岩倉具定の命を受けて旧幕府の脱走兵を追討しました。二か月前に薩摩藩邸を焼いた藩が、二か月後には官軍の側にいる。幕末の関東の譜代小藩は、多くがこの転回を経験しています。
私塾から藩校になった遷喬館
藩校の遷喬館は、もともと藩士の私塾でした。寛政十一年(1799年)に児玉南柯が開いたもので、文化年間に藩校となります。南柯は延享三年(1746年)の生まれ、十一歳で岩槻藩士の養子となり、郡奉行などの要職を務めたのち、四十三歳で辞して研究と藩士教育に専念しました。文政十三年(1830年)に八十五歳で没しています。遷喬館の建物は昭和十四年(1939年)に埼玉県の史跡となり、県内で唯一現存する江戸時代の藩校建築です。
門は、県庁の正門になっていました
岩槻城跡は大正十四年(1925年)三月三十一日に埼玉県の史跡となりました。城と城下町をぐるりと囲んだ土塁と堀は「大構」と呼ばれ、総延長は八キロに及んだといわれます。こちらは昭和四十九年(1974年)九月二十六日に市の史跡。愛宕神社の周辺に土塁の一部が良好に残っています。
面白いのは門の来歴です。黒門は三の丸の藩主居宅の長屋門だった可能性が高いとされますが、廃城後の明治四年(1871年)に浦和へ移されて埼玉県庁の正門などに転用され、昭和二十九年(1954年)に岩槻市へ払い下げられ、昭和四十五年(1970年)に岩槻公園内へ移築されました。昭和三十三年(1958年)二月二十一日に市の有形文化財です。裏門のほうは薬医門形式で、明和七年(1770年)に城主大岡氏が建て、文政六年(1823年)に補修したことが銘で分かっています。昭和五十六年(1981年)五月十二日の指定です。
城下の時の鐘は、寛文十一年(1671年)に城主阿部正春が設け、享保五年(1720年)に永井直陳が改鋳したもの。いまも朝六時、正午、夕方六時に撞かれています。正午の鐘は明治以来およそ百四十年ぶりに、平成二十三年(2011年)五月一日から復活しました。
岩槻が人形の町になったのは、箪笥などの桐工芸が盛んで、その副産物である桐粉を材料に人形作りが始まったからだとされます。日光御成道の岩槻宿として、将軍の日光社参の際には城が宿所となる慣例でした。社参は全部で十九回行われています。明治四年(1871年)の廃藩置県で岩槻県となり、埼玉県に統合されました。大岡忠貫は明治十七年(1884年)七月八日に子爵を授けられています。
岩槻藩をもっと詳しく
藩の成り立ちと、大岡家より前の藩主たち
岩槻城は、長禄元年(1457年)に太田道真・道灌父子が築いたと長く考えられてきましたが、近年は古河公方方の成田正等が築いたとする見方が主流です。戦国時代には北条氏の支城となり、天正五年(1577年)には足軽を含めておよそ五千人が詰めていたことが、北条氏の掟書からわかるとされます。
天正十八年(1590年)に徳川家康が関東へ入ると、家康の三河時代の三奉行の一人だった高力清長が二万石で入り、岩槻藩が始まりました。その後の藩主家は、高力・青山・阿部・板倉・戸田・松平(藤井)・小笠原・永井と、めまぐるしく替わっています。主な出来事を挙げると次のとおりです。
- 老中の青山忠俊は、元和九年(1623年)に三代将軍家光の怒りを買い、上総大多喜へ減封のうえ移されました。
- 阿部家の時代には最大で九万九千石に達しました。老中の阿部重次は、慶安四年(1651年)に家光が亡くなると殉死しています。
- 松平忠周は元禄十年(1697年)に但馬出石へ移されました。前年に領内で子どもを噛み殺した狼を、幕閣の許しを得て撃ち殺したことが、生類憐れみの令を出した将軍綱吉の機嫌を損ねたためとする話がありますが、真偽は定かではありません。
- 永井直陳は宝暦六年(1756年)に美濃加納へ移り、そのあとに大岡忠光が入って、ようやく藩主家が定まりました。
大岡家の先祖と、大岡越前とのつながり
大岡家は三河国八名郡宇利郷(現在の愛知県新城市)の土豪の家で、のちに同郡の大岡郷に移って大岡を名乗ったとされます。戦国時代の大岡忠勝が松平清康・広忠・家康に仕え、その子の忠政、孫の忠世も家康のもとで戦功をあげました。
岩槻藩主家と、名奉行・大岡忠相の西大平藩主家は、どちらもこの忠政から分かれた家です。忠政の三男の忠世の家に、四男の忠吉の家から養子に入ったのが大岡忠相でした。一方、忠吉の四男の忠房がはじめ三浦姓を名乗って一家を起こし、のちに大岡姓に戻ります。この忠房の家から出たのが、岩槻藩主となる大岡忠光です。忠光の父の忠利の代、享保十八年(1733年)の家禄は八百石にすぎませんでした。
戊辰戦争での動き
慶応四年(1868年)三月、東征軍が迫ると大岡忠貫は恭順し、東山道総督府の命で旧幕府の脱走兵を鎮めたのに続いて、四月には東海道総督府の命を受けて賊徒征伐にも加わりました。
藩主家の明治以降
版籍奉還の際に定められた大岡家の家禄は、実収で八百八十八石でした。明治前期の忠貫の住まいは東京の神田区錦町にあったとされます。明治十七年(1884年)に子爵となった忠貫が大正九年(1920年)に亡くなると、娘婿の忠量が家を継ぎ、その後も婿養子によって家が受け継がれました。昭和前期の岩槻大岡子爵家の邸宅は、東京市赤坂区青山南町にあったといいます。
この石高で動員できた兵の目安
江戸幕府の慶安二年(1649年)の軍役規定(案)とされるものでは、一万石あたり二百三十五人(騎馬十・鉄砲二十・弓十・槍三十・旗三)とされます。これを単純に当てはめると、幕末の二万三千石のこの藩はおよそ五百四十人が目安です。ただしこの規定は案のまま正式には出されなかったともいわれ、実際に動員した人数とは異なります。
参考:Wikipedia「岩槻藩」「大岡氏」
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