“偽官軍”の汚名を着せられて——赤報隊・相楽総三はなぜ切り捨てられたのか

戊辰戦争が始まったばかりの頃、新政府軍の先鋒として華々しく活躍しながら、わずか数か月後に「偽官軍(にせかんぐん)」の汚名を着せられて処刑された部隊がありました。相楽総三(さがらそうぞう)が率いた赤報隊(せきほうたい)です。味方であったはずの彼らは、なぜ新政府自身の手によって切り捨てられたのか。維新の光の裏にある、この痛ましい事件の真相をたどります。

あわせて、事件の背景となった戊辰戦争全体の構図は「戊辰戦争で各藩はどう動いたか」もご覧ください。

目次

赤報隊とは——草莽の志士が集った先鋒隊

赤報隊は、戊辰戦争が始まった1868年(慶応4年)、新政府側について結成された部隊です。中心となったのは、どこかの藩に属する武士ではなく、「草莽(そうもう)」と呼ばれる在野の志士たち——つまり、身分や藩の枠にとらわれない、志によって集まった人々でした。隊長の相楽総三もそうした草莽の一人で、かねてから倒幕運動に身を投じてきた人物です。

赤報隊は新政府の許しを得て、東山道(中山道)を東へと進撃しながら、これから官軍がやって来ることを触れ回る「先触れ」の役割を担いました。いわば、新政府軍の露払いです。

民心をつかんだ「年貢半減令」

赤報隊が掲げた最大の切り札が、「年貢半減令(ねんぐはんげんれい)」でした。これは、旧幕府の領地だった地域の年貢を、半分に減らすという触れです。重い年貢に苦しんでいた民衆にとって、これほど魅力的な話はありません。「新政府に従えば負担が半分になる」——この呼びかけは絶大な効果を発揮し、行く先々で民衆の支持を集め、旧幕府方の足元を揺るがしていきました。

赤報隊は、武力だけでなく人心の面からも新政府の進撃を助ける、有能な先鋒だったのです。

なぜ切り捨てられたのか——新政府の都合

ところが、事態は暗転します。年貢を半分にするということは、新政府にとって、そのぶん収入が半分になることを意味します。ただでさえ財政難だった発足直後の新政府は、この約束を実際には実行できないと判断しました。

しかし、いったん民衆に広めてしまった「年貢半減」を、今さら「できません」とは言い出しにくい。約束を反故にすれば、新政府の信用は地に落ちます。そこで新政府がとった道が、責任を赤報隊に押し付けることでした。「年貢半減は赤報隊が勝手に触れ回ったものであり、新政府は関与していない」という筋書きにし、彼らを「偽官軍」——にせものの官軍として断罪したのです。

背景には、藩の統制下にない草莽の志士たちが独自に力を持つことへの、新政府側の警戒もあったとされます。用済みになった先鋒を切り捨てる、いわば「トカゲの尻尾切り」でした。

下諏訪での最期

「偽官軍」とされた赤報隊は、たちまち追討の対象となります。1868年3月、相楽総三をはじめとする幹部たちは信濃・下諏訪(しもすわ、長野県)で捕らえられ、処刑されました。ついこの間まで新政府のために働いていた者たちが、その新政府の手で命を絶たれたのです。

汚名、そして名誉回復

相楽総三らはその後も長く「偽官軍」の汚名のもとに置かれました。彼らの名誉が回復されるのは、ずっと後の時代、子孫らの粘り強い働きかけによってのことです。維新という大事業の陰で、理想に殉じながら不当に切り捨てられた人々がいた——赤報隊の悲劇は、そのことを私たちに突きつけます。

赤報隊が問いかけるもの

明治維新は、しばしば輝かしい変革として語られます。しかしその足元では、こうした非情な政治の現実もまた進行していました。理想を信じて先頭を走った者が、権力の都合であっけなく切り捨てられる——赤報隊の物語は、維新のもう一つの顔を私たちに教えてくれます。華やかな幕末から明治維新への流れを追うとき、その影にこうした犠牲があったことも、心にとめておきたいものです。

まとめ

赤報隊は、相楽総三が率いた草莽の志士の先鋒隊で、「年貢半減令」を掲げて新政府の進撃を助けました。しかし新政府は財政上その約束を守れず、責任を赤報隊に転嫁して「偽官軍」として処刑します。用済みとなった味方を切り捨てたこの事件は、明治維新の非情な一面を象徴する悲劇として、今に語り継がれています。

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